ボニン アイランズ[1]
ラッセル・ロバートソン 著
小西幸男(近畿大学・甲南大学非常勤講師)訳・注
ボニンアイランド(ボニン諸島)[2]
は、北緯26.30度および27.45度の緯度圏に位置し、横浜のほぼ南方約500マイル沖にあり、ポートロイド[3]
は北緯27度5.35分、西緯142度11.30分の位置、距離にして516マイルにあります。ポートロイドの位置は後に当該局によって西緯142度16.30と修正されました。
ボニン諸島は3つの群島から構成され、北方群島[4]および南方群島[5]はパリー群島、ベイリーまたはコフィン群島としてそれぞれ知られています。中央群島[6]は3つの島によって構成され、北がステップルトン島 [7]、南はピール島[8]、中央がバックランド島[9]です。この中央群島は距離にして9 1/4マイルあり、うち4 1/4マイルをピール島が占めています。
ヒルズボロー島[10]は、ベイリーまたはコフィン群島の最大の島で、縦
7 1/2マイル、横1 1/4マイルです。
日本の記録には1593年にこれらの島々は日本にその存在が確認され、これ以前の記録がない限り、大名小笠原貞頼の領地として管轄され1624年に至るまで通信が行われていたとなっている。ケンぺル[11]の刊行物[12]には島について以下のようなことが記されています。
1675年頃、一隻の船が嵐のため八丈島から吹き流されて、日本人が偶然大きな島を発見した。[13] その島は八丈島の東300マイルにあると考えられた。そこは無人島であったが、極めて快適で肥沃な土地で、新鮮な水が豊富で、樹や植物が沢山に繁っており、特にアラク椰子(ノヤシ)が多かった。この木は暖かい地方にのみ生えることから。この島の位置は東というより、むしろ日本の南にあたると推測することが出来る。その島には人が住んでなかったので、人のいない島という意味で彼等はこの島をブネシマ(無人島)またはブネ(無人)の島と呼んだ。その島の海岸には信じられないほどたくさんの魚やカニが発見され、それらのあるものは長さ4〜6フィートもあった。[14]
ボニン諸島周辺に豊富に生息する亀は多分日本人によって巨大なカニと間違えられて捕獲されたのでしょう。[15]
ボニン諸島の歴史は長い間空白期間があり、1728年に貞頼の子孫、宮内貞頼(みやのうちさだより)[16]により通信が再開されるまで途切れています。しかしこれも短期間のことでした。その後諸島に関する記録は、日本の弁務官使が1861年にポートロイドに送られるまで日本史上には一切記載がないのです。この時は幕府の小花作助[17]率いる一行により小規模の占領区の確立がなされただけに留まっています。[18] また、この計画は失敗に終わりました。入植者のうち数名は短期間の滞在のあと日本へ帰国し、残りの者も1863年の早い時期に引き上げました。
過去数年の間、我々殆どの者が島について知るようになったのは時々知らされる島からの定住者の状況報告に対する少なからぬ関心からだけではなく、どういった手段が徐々に講じられ一国または複数国の占有権を主張する国によって植民地として確立されていくかいろいろと推論されるからです。
昨年1875年の11月、日本の汽船明治丸に4人の日本人官吏が公使として乗船しておりました。ポートロイドへは同月のほぼ同じときにイギリスの軍艦 カーリュー号が来訪いたしました。この船には海軍指揮官チャーチ艦長、また私も乗船しておりました。ボニン諸島はある海図にはアルビスポ諸島[19]として表され、また別の海図にはアルボビスポ諸島自体が全く別の群島として表されています。ボニンという言葉は、日本語の『無人(むにん)』、「人の住んでいない」という言葉の転訛とされています。また、この名称は初めて日本人によって発見されたということを是認すると思われるものでもあります。とにかく、一般的にはボニン諸島として知られており、ブニンからボニンへの転訛は容易に説明のつくものと思われます。日本人にとっては小笠原島(おがさわらしま)もしくは小笠原諸島としての方が馴染みがあるのでしょう。
アルボビスポという名前からしてもスペイン領として知られていたということはありえないことではなく、現在スペイン領のマリアナ諸島もしくはラドロネス群島[20]からも大して遠くないことからも、16世紀はじめには航海士らにはすでに知られていました。しかしながら、この報告書の目的はどの国が優先占拠国であるかの議論に決着をつけようとするものではありませんので、それではここからは諸島が一般的に世界に知られるようになった頃の話に移りたいと思います。
1823年に島はアメリカの捕鯨船トランジット号、コフィン船長、により来訪されています。われわれが寄港した南方群島はベイリーという名称以外にのコフィンという名称でも知られています。トランジット号がその際に北方群島や中央群島を訪れかどうかは定かではありません。1825年にイギリスの捕鯨船サプライ号がポートロイドに入港し、その寄港の印として木に板を打ちつけており、これは後日1827年6月9日にポートロイドに錨をおろしたイギリス海軍の船のブロッサム号ビーチー艦長によって確認されています。[21]
現在使用されている賞賛されるべき海図にあるポートロイドとボニン諸島に関する出版されている多くの情報はこのビーチー艦長の貢献によるものです。イギリス船ブロッサム号は16門の備砲を積載した122人の乗組定員のスループ型帆船[22]で、フランクリンおよびペリーの北極遠征隊に協力することを使命とし、1825年5月19日にイギリスより出航した探索船です。ビーチー艦長は1826年秋にはベーリング海峡にあるべきで、フランクリンおよびペリーと落合うことができなかった場合、同年の10月にはベーリング海峡を離れ、1827年秋には再び同地点に向かわなければならない任務を受けていました。この間大平洋を洋行し、1827年末にブロッサム号はイギリスへ帰港をすることとされていました。
ビーチー艦長はこのような使命で1825年5月19日にはケープホーン(ホーン岬)を周り、タヒチ島およびサンドウィッチ諸島[23]にそれぞれ寄港し1826年7月にベーリング海峡を訪れました。同年10月、ブロッサム号はフランクリンとの合流に失敗しベーリング海峡を離れ、サンフランシスコへ舵をとり11月6日に寄港しました。1826年12月28日、ビーチー艦長はサンフランシスコを出航し、再びサンドウィッチ諸島を訪れ、そこから広東州を経てマカオへ1827年4月30日頃入港しました。短期間の滞在後ブロッサム号は再び出航し、琉球に向い、やがて予定に従って1827年5月には琉球諸島の主都那覇を離れました。
ここからビーチー艦長は5月25日に進路を東方にとり、当時使用されていたアロースミス版の海図にあるボニン諸島のある位置に6月7日の夕刻に到着しました。翌日8日、視界に島はなく、数時間後さらに東方に進路をとりビーチー艦長が諸島は実在しないものと諦めかけるところでしたが、遠くにいくつかの島々が北から南まで視界に入る限りいっぱい広がっているのがハッキリと確認されました。これがボニン諸島でありました。ブロッサム号の探索の詳細な報告はビーチー艦長の海上報告書として2巻に収録され出版されています。[24]
ブロッサム号の1827年6月9日のポートロイド入港の件に関してはここでの私の口述で充分お分かりいただけると思います。最南端群島への上陸の最初の試みは風および海流が逆流であったため最近距離の地への入港は困難でしたので、立地の良好な港の発見により、ビーチー艦長はポートロイド錨をおろすことにしました。ポートロイドという名称は彼が前オックスフォード司教に敬意を払って命名したものです。
ビーチー艦長はここでイギリスの捕鯨船ウイリアム号の乗組員であった二人のヨーロッパ人を発見したことに大変驚きました。この捕鯨船はブロッサム号の来訪の8ヶ月前にポートロイドにて座礁したもので、二人のうち一人の名前はウイットリンですが、もう一人については不祥です。[25]
この二人の陳述によれば、遭難後、船の船員達はマニラへ向かうために小さなスクーナー船[26]の建造に取り掛かかりましたが、ポートロイドからの脱出は運良く捕鯨船ティモール号によりどうにかなされたようです。このときこの二人を除いて他の船員達はすべて島を離れました。
ブロッサム号はポートロイドに6日間停泊し、港の探索が熱心におこなわれ、隣接した島々への周回も果たし、島を出航しました。
ポートロイドの位置する島にビーチー艦長は、内務大臣サー・ロバート・ピールに敬意を払ってピール島と命名し、その他2つの島にはそれぞれステープルトン、バックランドと命名しました。バックランドの方は当時のオックスフォードの地質学者の名前からとられています。ピール島の南東の大きな入り江には現在の地理学協会の元会長の名前からとり、フィットン湾と命名し、バックランド島の南西の入り江を当時の水路測量部の士官ウォーカーの名前をとってウォーカー湾と名付けました。
ビーチー艦長は南方の群島に天文学学会の前理事長の名前をとってベイリーと命名しましたが、これは日本による訪問を除けば、この地を最初に訪れたと信じられていたアメリカの捕鯨船トランジット号の船長の名をとったコフィン諸島としても知られています。
北方の群島にビーチー艦長は前英国海軍本部の水路学者の名をとってパリーと名ずけました。ビーチー艦長の報告によればピール島およびその周りの島々は火山性の地勢を持っており、このことはその後のアメリカ海軍のペリー提督による1853年の諸島来訪の際にも確認されています。以下はそのポートロイドについての記録です。
ポートロイドはかつては活火山の火口であったと思われ、現在の港の入り口は火口丘の側面の一部にできた深い裂け目である。この裂け目を通って溶岩の流れが海に注ぎだし、その空間に海水が充満して形成されできた湾である。その後海水によって珊瑚礁の堆積物が運ばれ現在の港の底部分と壁面部分を形成したものである。
6月15日にポートロイドを出航し、ビーチー艦長は南方の群島のベイリーもしくはコフィン諸島の探索を再び試みましたが、逆風のため進路を北に取り直しパリー群島へめざしました。
この艦長のボニン諸島に関する報告、すなわち私がこれまでに言及した詳細な情報は1853年のペリー提督の訪問の時点まで至ってされているものであります。ブロッサム号の航海の記録に関してはイギリス海軍船シルビア号のセント・ジョン艦長の貢献であり、その記録をこうしてお借りすることがなければここに私の報告する確実かつ詳細なボニン諸島に関する報告を行うことは難しかったと確信しております。
「チャイナ・パイロット (China
Pilot)」における貴重なボニン諸島に関する航海の方法や資料はビーチーおよびペリーの航海の記録より出展しております。
ビーチー艦長は島を離れる前に銅板に次の文面を刻み木に打ちつけました。
イギリス軍艦ブロッサム号海軍ビーチー艦長は、イギリス国王ジョージ4世陛下の名に於いて、陛下のために1827年6月14日この群島を占領した
カーリュー号での訪問の際、チャーチ艦長および私はこの銅板が某移住者の家にあるのを確認いたしました。この者は特別な配慮もなくこれを引き剥がしておりました。銅板は相当な形で保管されておりましたし、上述の銘刻もあることから若干の問題点、実際の記述には6月17日と記載のある部分についてブロッサム号が15日に出航していることから正確な日付けは14日であるという疑問点もありましたが、現在では以上のように解読されております。
ビーチー艦長によれば当時日本のボニン諸島に関する記載はクラプロートの「メモワール・ラ・シーヌ(Mémoire sur la
China)」、アベル・レミューザ の「ジュルナール・デ・サヴァン(Journal
des Savans)」などに1817年9月以降あり、それによるとボニンシマもしくはムニンシマは89の島々で構成され、そのうち2つは大きな島で4つが中くらいの島、そして4つの小さな島と残りは岩礁であるとあり、2つの大きな島は人が住んでおり、寺や村があるとされ「ジュルナール・デ・サヴァン」には日本人の描いた海図が載せられています。さらにこれらの日本の記述には、もう少し正確にいうなればそれらの翻訳には、島々は非常に肥沃な土地を持ち野菜類およびあらゆる種類の作物、穀物、砂糖、ココナツ、背の高い椰子の木、白檀、樟脳の木、その他の木々が育っていると描写されています。
この描写からビーチー艦長は自分が訪れた島とこの日本人のいうのブニン島とが同一のものであることに疑問を抱き、彼の言葉でいえば、「ブニンシマが架空の島ではないかどうかということが疑わしいかも知れない。」と述べています。
ビーチー艦長の意見ではこの島はマニラで数年前に出版された「ナビガシオン・エスペクラティヴァ・イ・プラティカ(Navigacion Especulativa y Pratica)」にあるイズラ・デル・アルゾビスポ(Yslas del Arzo
Bispo)という群島に一致するものであり、実際に彼はこの海図をもっており、今回の報告のはじめに言及しましたアルゾビスポ諸島があるいはブニン諸島であると述べています。しかし、北方および南方諸島のパリーおよびベイリーもしくはコフィン諸島のいづれもビーチー艦長は訪れていないことを確認しておかなければなりません。(ここで私のいう訪れるということは上陸するということです。)
また日本人の記述を信用するならば、当時の居住者の住居および幾つかの寺院の残存物がいまだに存在しえるということになります。この初期の記述に誇張部分があることを認め考慮に入れれば、野菜類、サトウキビ、ココナツ、パイナップル等は現在ピール島で栽培されており、白檀やココ椰子の木の生育していることを見てもブロッサム号が訪れた島は紛れもなく日本のブニンまたはムニンシマであるに違いないと思われます。
さてこれから、ブロッサム号の訪問の際の島々への影響を検証していきたいと思います。そちらに話を移す前にこの小さな船とその艦長がボニン諸島と深くかかわり合い今後常に忘れられることのないことを言いそえておきます。ビーチー艦長はこの島を離れてから、本来の使命を果たすべく1827年秋にはベーリング海峡に舵をとり、予定通り北極海へ航海しましたがフランクリン号と待ち合わせの場所の誤認により、接触することに失敗し、サンフランシスコ経由でイギリスへ不承不承向かいケーポホーン(ケープ岬)をぬけ、1828年10月初旬に3年半、73,000マイルを超える航海を終えスピットヘッドに錨をおろしました。
それからのボニン諸島はブロッサム号来訪の話が、それほど距離的に遠くないサンドウィッチ諸島に間もなく伝わり注目され、1830年にはポートロイドに一団の入植者が上陸しました。チャールトン領事[27]、当時のサンドウィッチ諸島の領事は遠征に熱心な興味を示しました。
この一団の構成人員は確認し得る限りでは以下のとおりでした。
ジェノア出身であるがイギリス国籍であるされるマテオ・マザロ、イギリス人のジョン・ミリチャンプ、アメリカのマサチューセッツ出身のナサニエル・セボリー、同じくアメリカ人のアルディン・B・チャピン、 デンマーク人のチャールズ・ジョンソン。
彼等は労働者としてのサンドウィッチ島の原住民をしたがえ、いくらかの家畜と種をもって、チャールトン領事から与えられたイギリス国旗を掲げポートロイドに移住しました。
1842年まで殆どボニン諸島についての公式な便りはありませんでしたが、この長い12年の間におそらくは捕鯨船もしくはその他の通信手段が途絶えることなく島にはあったと思われます。1842年にマザロはサンドウィッチ島に引き返しています。彼はポートロイドでの生活は隆盛で、豚やヤギは豊富に繁殖し、何匹かの牛、そのうえとうもろこしや沢山の野菜を栽培し、あらゆる種類のトロピカルフルーツが採れると述べています。マザロはその後ピール島に戻り、そこで生涯を閉じました。これから私が言及する彼の未亡人は現在もポートロイドで生活しています。
1842年以降1849年もしくは1850年までの7年間の再び空白期間があり、この間にアメリカの調査船ドルフィン号がポートロイドを訪れていますが、これは4、5日の短い停留でしたのでここでは割愛させていただきます。つぎに訪島したのは1851年のイギリスの軍艦エンタープライズ号、艦長コリンソンでした。この艇も一週間という短い停留でした。エンタープライズ号はインベスティゲイトー号の同伴船であり、この2隻は不運にも行方不明となったサー・ジョン・フランクリンの探検船の捜索をしていました。
エンタープライズ号はインベスティゲイトー号と別れてから、多分カムチャッカおよび北極へ向かう途中でボニン諸島に立ち寄ったのだと思われます。
イギリス人トーマス・H・ウェッブは1849年にアメリカのナンタケットのバーク船[28] ジャパン号でポートロイドに上陸、彼は今も居住中です。彼はまだコリンソン艦長の訪問当時のことを鮮明に記憶していました。1847年以降1875年のカーリュー号の訪問までの船舶のポートロイドへの訪問に関して、こうして私が報告できるのは彼の貢献によるところが大きいのです。この間ただし1853年のペリー提督の訪問については例外的に別に詳細な報告が出版されています。
1852年には、イギリスの調査船サーパント号がポートロイドに寄港し8日ほど停泊しました。
さて、ここで1853年のペリーの訪問に移るのですが、このことはピール島の定住者にとって重要な意味を持つ出来事の一つであります。
1853年6月14日、同月9日に琉球の那覇港を出航したアメリカの軍艦サスケハンナ号とサラトガ号はポートロイドに錨をおろしました。このとき、1830年に入植した最初の居住者たちの氏名についてはこの報告ですでに示したとおり、ただ一人ナサニエル・セボリーが島を離れましたが、ピール島に住んでいる31名は以下のような内訳です。イギリス人4名、アメリカ人4名、ポルトガル人1名その他についてはサンドウィッチ島、ラドロネス島、キャロラインもしくはキングスミル島[29]出身の者および島で生まれ育った子供達です。
サスケハンナ号およびサラトガ号の滞在は4日間と限られており、18日には、同月の23日に到着することになる琉球に向かって出航しました。滞在中はピールおよびステープルトン島の実地調査に大部分の時間が費やされました。
最初にあげられる2つの調査団の探索はサスケハンナ号から割り振られたもので、ベイヤード・テイラー率いる調査団は島の南側を、軍医補佐官ドクター・ファースと彼の一団は島の北側を調査しました。
彼等は6月15日の早朝より調査を開始し、同夜の10時まで母船に戻りませんでした。この日の詳しい行動の全報告またボニン島の詳細な報告はアメリカ政府の名により出版された「ペリー提督遠征記」[30]の第一巻10章に記載されています。
ここではこの遠征記に記載のあることに関しての長い引用はしないでおきます。この業績は最近のものであり、容易に手に入れられるものであります。
ここでは今までに言及してきた報告がボニン島の顕著な記録報告だけではなかったこと、また提督のアメリカ帰国後、提督がこれらの島々の属性についてさらに進んだ記録の編集に従事し、その植民地化計画を提出したことをここに示しておけば十分であると思います。彼はこの島々の状況は、サンフランシスコから始まってホノルルそしてボニン諸島さらに最終地点上海へ結ぶ将来の通信ラインを形づくるものとしてまた燃料の石炭供給所としても最適な寄港地であると考えていたようです。当時は横浜を通信汽船の寄港地として確保することの重要性は見越されておらず、大平洋から中国への通信ライン計画も注目はされていましたが、いまだ実現には至っていませんでした。
サスケハンナ号およびサラトガ号がポートロイドを訪問したその時期に、ペリー提督は当時の居住者のひとりにクラブ法を任せ居住者全員がそれに従い、そのもとで生活を営む形態よりむしろ、彼等自身の行政管理のために規則もしくは規律をあらたに制定するよう勧告しました。
このことについての記載は前述の遠征記には全くありませんが、提案の計画はされました。提案は3つの条文と13項目からなり、『ピール島の居住者機構』とされていました。それには行政長官と評議委員2名の居住者の中からの選出の方法、行政長官と評議委員2名が島の行政の規則および条例の制定権を持つこと、また規則および条例が住民を拘束することと住民の3分の2以上の同意と承認で決定されることが盛り込まれていました。
この提案の写しは私の手許にあり、島でどのような経過で進んだかまた勧告されたかもこちらに報告されております。
この条約の下ではナサニエル・セボリーが行政長官に選出され、ジェームス・モトリー とトーマス・H・ウェッブが評議委員にそれぞれ選出されています。条約はナサニエル・セボリー、ジェームス・モトリー
、トーマス・H・ウェッブ、ウィリアム・ギリー、ジョン・ブラボー、ジョセフ・カレン、ジョージ・ブラボー、ジョージ・ホートンにより調印されております。
しかしながら規則は決して施行されることはなく、今ではその計画の存在もピール島では殆ど知られておりません。
ここで、この書類に名前を列ねていた者たちの消息について注意を払っておきたいと思います。
ナサニエル・セボリー 1874年死亡
トーマス・H・ウェッブ ポートロイドにて在住
ジェームス・モトリー 1870年ベイリー諸島にて死亡
ウィリアム・ギリー 13年前にイギリス人であるといわれているジャック・スパニアによりポートロイドて殺害される。
ジョン・ブラボー ボニン諸島にて在住
およびジョージ・ブラボー
ジョセフ・カレン 2年前にポートロイドにて死亡
ジョージ・ホートン 1862年日本人により日本へ移送、神奈川のアメリカ領事館へ連行され、日本へ到着後間もなく死亡。
以上の者のうち幾人かについては後ほど言及いたします。
ペリー提督の話を終える前に彼が島に4頭の牛、またその他の島に5匹の上海羊および6頭のヤギを放していったことを付け加えておきます。
その後これらの家畜がどうなったかをポートロイドの住人に尋ねたところ、牛はいなくなり、たぶんに当時またはペリー来訪直後に港に立ち寄った捕鯨船の船員によって持ち去られたのではないかということを聞かされました。羊については死滅し、ヤギに関しては島に群れをなして住むほどまでに繁殖しています。[31]
サスケハンナ号とサラトガ号の来訪後それほど間を置かずしてアメリカの軍艦プリモス号がポートロイドに入港しました。この艇の停泊は最も不幸な事件として記録されています。14名を乗せた一隻の同軍艦の監視船が荒海にもかかわらず湾外に出、消息を断ち、船は多分転覆したのでしょう誰一人として生還した者はありませんでした。
湾の外は小型船舶にとって大変危険な場所とされ、できる限り航海はさける方が良いと思われます。私のポートロイド滞在中でもっとも強い懸念をした事件は、汽船明治丸からある朝、日本の一団が湾の南先鋒を回って湾外へ出て姿が見えなくなったことでした。同日午後6時に日が落ち、小型船の影は依然なく、明治丸から一部の行方不明者が帰還したことを知らせる号砲が放たれ、照明弾が打ち上げられたのは午後10時をまわってからでした。報告によると船は湾の反対側のフランス人ラザールの占有地近くの浜に打ち上げられたということでした。船は徐々に体勢を回復しましたが、ラザールによれば荒れ狂う波にもまれ岩礁を乗り越え、彼の住居の近くに打ち上げられたことはまさに驚異であったということです。
プリモス号の後の軍事船の来訪は1854年ポートロイドへの4隻のロシア船でした。この小艦隊はフリゲート艦[32]、コルベット艦[33]、貯蔵船、小型汽船で構成されていました。その後アメリカのフレゲート艦、マケドニアン号アボット艦長がマニラへの途中に寄港しています。マケドニアン号は江戸湾に旗船ポウハッタン号を残していました。ペリー提督はアボット艦長に農耕管理および種の入植者に対する供給管理施行を委任していました。提督は以下のような書簡を綴っております。
ボニン諸島の統治権は今だ定着していないと認識されるべきである。私の植民地での福祉事業とその成功への関心は単に通商上一般の利益によるものである。
続く1855年にアメリカの軍艦ヴィンセンス号は10日間ポートロイドに停泊しました。
1871年日本によりピール島の入植が企てられ、同年11月か12月に日本の汽船がポートロイドに向かって一人の弁務官と100名余の入植者を乗せて江戸を出航しました。
外国人を含む入植者管理の規則および法規は一般に港湾法規と呼ばれ、弁務官および事務次官により英語で書かれましたが、これらは決して強要されることもなく、現在の居住者はその存在自体すら認識していないと思われます。私の手許にある写しから些か難解でありますが以下のように抜粋してみました。
第3条 すべての船舶および船団は当該港内に入港し、漁場に有害な大砲類のいかなるものもその発射をすることを不法行為とする。
第4条 すべての船舶および船団は当該港湾に入港したときは、当該船舶は水先案内人に対し定められた水先案内料の金額を支払わなくてはならない。
第5条 すべての人および法人もこの港湾内に入港した船舶より海岸に上陸した者で、居住者の所有地内において、嗜好のための狩猟および無益な消費を行う、もしくはその行為を行おうとしたものは逮捕され、その当該船舶の艦長に引き渡されるものとする。
1862年中に日本からのポートロイドとの時々の通信が記録されています。入植者達はすぐにこの計画にうんざりし、バラバラと一固まりごとにポートロイドをあとにしました。1863年初めに、島にバラバラに散らばって15ヶ月にわたって居住していた少数残留入植者達をひきつれて弁務官自身も撤退したということが記録されています。
日本人居留区は港の南側に位置し、彼等に建てられた家のひとつが現在も残存しています。この家の近くに大きな石碑が建てられそこにはボニン諸島は家康の時代に小笠原貞頼によって1953年に最初に遠征され、オガサワラジマと名づけられたこと、日本の領地であること、1861年に再度訪問されこの銘板(石碑)が恒久の記念碑として建てられたことが記されています。
時々、捕鯨船が横浜を訪れた際にボニン諸島からの報告がなされていました。1872年、1873年および1874年に小型スクーナー船、トーリ号がアメリカ旗を掲げ横浜とポートロイド間を航行し、衣食品および廉価な反物を亀の甲羅、亀の油、レモンやその他の島の産物と交換取引きしていました。。
1874年アメリカの軍艦トスカローラ号が調査測量中にポートロイドを訪れ、短期間滞在しました。また1875年11月には日本の汽船明治丸とイギリスの海軍艇カーリュー号も訪島しました。
その後、私の帰国後ボニン諸島へはロシアの軍艦ハイドマック号とドイツのフリゲート船ヘルサ号が訪れたと思われます。
ここまで軍艦の目立った訪問について取り上げましたが、入植者達が島の外の世界の情勢の把握の手段をこれらのみに依存していたことを結論するものではありません。ポートロイドはアメリカの旗を掲げたの捕鯨船の頻繁な寄港地なりましたが、ときにはフランスやハワイの旗を掲げた船も寄港しています。ある年などは15隻の捕鯨船がポートロイドに立ち寄ることもありましたが、しかし最近1875年には明治丸とカーリュー号の前に捕鯨船がただ一隻が入港した例から判断すると捕鯨船の寄港はいくぶん減ってきています。
1849年、カリフォルニアのゴールドラッシュに船が殺到した年、一人の弁務官より数隻の船が中国からサンフランシスコへの途中ポートロイドに寄港することがあったとの報告を受けております。これらの船は300トンから1000トンまで種々様々で、労働者を乗せたのものであったと私は考えております[34]。同じ年、1849年に入植者の記録の中で注目すべきものであります。秋にデンマーク旗を掲げたのロッカ船[35]およびスクーナー船とイギリスの旗を掲げたカッター船[36]がポートロイドに現れ2ヶ月余の停泊をし、その期間船は故障の修理をしました。彼等は一団となって島を離れ、2〜3日後、再びロッカ船とカッター船が引き返し、その船員達が島を襲撃し、人身事故は起こさなかったものの手当りしだいに物色し、その後2隻はピール島を去り、再び戻らなかったという事件がありました。[37]
このように私の訪問までの島の歴史の簡単な概略を述べました。しかし、この報告を完成させるために、いままでの資料を今回の報告の主旨、時間の許す限りピール島とその入植者の歴史を今日に至るまで報告することにします。
カーリュー号は横浜を11月22日午前10時に出発し、11月26日朝、ポートロイドに降錨し、航海は予定通りに進んでいました。
弁務官を乗せた日本の汽船明治丸は11月21日日曜日正午に横浜を出発、24日水曜日早くにポートロイドに到着しました。
私達は、その朝早くゆっくりと港に入いり、「ペップス」として知られる一目につく険しい岩山に近付いてきたとき、目の前に群島は豊かな姿を現わしました。椰子の木はこちらに向かって曲がり、植物の目立った容貌が風に揺られていました。
港への進入路は険しい岩を目印に、港の南側には黒い岩の切り立った壁が錨を下ろした明治丸を小さく見せていました。3人の男達が漕ぐカヌーがカーリュー号の船尾1マイル程のところにいましたが、チャーチ艦長はここで船を止めるのは賢明ではないと考えたのでしょう、全く私達には指令が送られてこなかったので、日本の汽船の近くまで艦を進め水深22尋[38]ぐらいのところに係留しました。そのカヌーにはフランス人ラザールが乗船しており、彼はポートロイドの水先案内人として業を営んでいます。以前明治丸のピータース艦長がカーリュー号に対して必要なときには彼の案内が役にたつことについて書き送っていました。
ポートロイドは南西に長さ約1.5マイル、幅0.5マイルから1マイルまで多様に変化をもたせ湾へと開いています。
港の奥の端は、北側になり海岸は珊瑚礁がある程度広がり、尖った岩盤との境を形作っています。港の西側には浜辺からほんの少し離れたところに水深約10尋のところがあります。ブロッサム号のビーチー艦長はここを“テン・ファッザム・ホール”と呼んでいました。ここから先は急に港の出口に向かって深くなっています。
港から観察しうる景色の全般的な特徴は、丘陵性があり、あちらこちらに険しい岩山があり、海岸の岸壁のラインはくっきりと垂直になっており、停泊地である東側は特にそうであり、西側および北側の海岸は平坦地をすぐ後ろに控え黄色い砂地がラインを描き、小山のような坂や急勾配の上り坂に続いています。木々の茂みは平坦な土壌を覆い、耕作した地と海岸を自然の境界を形づくっています。
丘陵部は緑の草で覆われていました。しかしその繁茂したほとんど植物が熱帯の自然植物であることには上陸するまで気がきませんでした。
停泊地の周りの盛り上がった土地には椰子の木やキャベツヤシが沢山生えています。
港の先にある孤立した小屋の軒先には我々の到着後、間もなくアメリカの旗が掲げられていました。浜辺には2、3隻のカヌーが止められ、1、2隻の白い小さな帆をたてたカヌーが停泊所を飛び回るように横断していました。カーリュー号からは人影は確認できませんでしたが、このことから人の存在する気配がうかがわれました。
滞在一週間に日々何があったかというような事細かな記録はこの報告でとり上げるべきものではないと思われ、その間の活動は全般に渡る関心によるものだったのですが、ここでは敢えて現在の居住者達の状況の忠実な描写との実際の調査に基づく私の知り得る限りの島の情報を関心のある方々にお伝えしようと思います。
1830年にマザロ、ミリチャンプ、セボリー、チャピン、ジョンソンで構成された初期の小さな移民団がポートロイドに定住したということを思い出して下さい。このうちミリチャンプは現在マリアナもしくラドロネス諸島にあるグアムに住んでおり、その他ものは皆死亡しました。セボリーは最近1874年4月10日に79歳で、今はピール島に住む奥さんと6人の子供を残して死去しました。セボリー夫人は上述のマザロの未亡人でしたが、彼が死んでからもう一人の別の夫に嫁ぎ、その彼が死んだ後セボリーと結婚しました。
1853年ペリー提督来訪の際の住民は、ポートロイドにはサンドウィッチ諸島から移民、その他からの移民、と8名の外国人が住んでいました。8名とはセボリー、ウェッブ、モトリー、ギリー、二名のブラボー、カレン、ホートンでした。彼らに何が起こったかは前に触れたとおりです。1853年にはこれらの人々加えその他の島の人々で総勢入植者の人口は31名になりました。
現在の入植者数は69名です。うち66名はピール島、3名がベイリーもしくはコフィン群島に住んでいます。37名が男性、32名が女性で、うち20名が1歳から15歳までの未成年です。現居住民のうち5名が白人、順にウエリングトン出身のイギリス人トーマス・H・ウェッブ、ブリタニー出身のフランス人ラザール、ブレーメン出身のドイツ人アラン、そしてローズ彼の国籍については不祥ですが、ドイツ人だともオランダ人だともいわれています。そしてポルトガル人ブラーバ島出身の褐色人種ジョン・ブラボー本名ゴンザレスです。このうちジョン・ブラボーは1811年生まれで、今現在65歳、イギリスの捕鯨船パートリッジ号で上陸、ポートロイドに1831年にはじめての入植者として定住しました。彼は、自分の移住時にはすでにミリチャンプ、セボリー、マザロ、そしてもう1人はどちらかが今ではハッキリとしないというのですが、チャピンもしくはジョンソンがすでに住んでいたことを憶えています。彼はサンドウィッチ島出身の女性とポートロイドて結婚し、彼女はすでに他界しましたが二人の息子ジョージ、アンドリューをもうけました。アンドリューとその妻は二人ともすでに死亡していますが、二人の間にはフランシスとルーシーという二人の子供がいます。もう一人の息子ジョージ・ブラボーは現在40歳前後になり、父親の近くに住んでいます。彼はセボリーの娘と結婚し、彼女は3人の子供を残して他界しましたが子供達ホセ、ローザ、アンドリューは父親と一緒に住んでいます。
トーマス・H・ウェッブ ついてはすでに言及んだと思いますが、アメリカのバーク船ナンタケットのジャパン号にて1847年に上陸、すでに30年間ピール島に住んでいます。彼はロビンソンという名のイギリス人の娘と結婚しました。彼らは今も一緒に住んでおり、彼らの家族は8人の子供がいます。
ジョージ・ロビンソンの最後については、はっきりしないところが多いのですが1849年に捕鯨船ハワード号でポートロイドに到着、ウェッブと一緒に住み始めました。当時ウェッブはギリーという名の男と同居していました(が彼は後に殺害されました)。
ロビンソンはポートロイドには長く居ず、ヒルズボロー島に移住しました。ヒルズボローはベイリー群島の中で一番重要で、かなりの範囲を彼が開拓し植樹をしました。2、3年の居住の後、彼は家族をつれてグアム、サイパンに向けて島を離れました。彼の留守中にモトリーは、彼についてもすでに触れましたが、ヒルズボロー島に行きロビンソンの開拓地を占領しました。
ロビンソンはやがて島に戻り、友好的にモトリーと開拓地の共有を取決めたようです。ロビンソンは彼の帰島の際に、キングスミル群島から数名の島民を連れてきましたが、彼らは生活に不平不満を持っていたようです。彼の使用人のキティによれば、これをモトリーが扇動したということです。
このことはロビンソンとモトリーの間に取り分についての争いがあったことを表しています。上記の島民達はロビンソンのもとを離れ、モトリーに仕えるようになりました。
ボブという名で知られるイギリス人が捕鯨船より脱走し、暫くはモトリーの所で世話になりましたが、後にロビンソンのところへ移りました。この当時、ロビンソンの家族構成は彼の息子ジョン、ヘンリー、チャールズと娘のエリザ、キャロライン、スーザンでした。子供達の乳母としてジファーという名の女性が彼と一緒に住んでいました。彼女はレイヴァン島の出身者です。
ロビンソンとモトリー各々の分裂、独立にもかかわらず、事はより悪い方へとむかったようです。流血の惨事が続きこれについては私の記憶からなかなか消え去らないものとなりました。ある朝(この事件は1861年に起こりました)キングスミル出身の島民たちによる襲撃が行われ、家族バラバラに兄のロビンソンが子供達ジョン、ヘンリー、エリザを連れて一方へ逃げ、彼の娘当時19歳のキャロラインが下の姉妹スーザンと弟チャールズを連れて他の方向へ逃げのびたとうことをあげればこの惨事について充分お分かりいただけるでしょう。この事件でボブという男が殺されましたが、モトリーが教唆したものかどうかはハッキリとはしていません。モトリーはその後死亡し、ヒルズボローに埋葬されています。彼の名前は開拓計画に携わったものの一人として記憶に残されるでしょう。
ジョージ・ロビンソンと彼の一緒にいた子供達は通りかかった捕鯨船モントリオール号ソール船長により救出されました。島の反対の方向に逃げた残りの家族は海岸へたどりつき、そこで甲殻類や木の実等を食べて11ヶ月の間生きのび、たき火の煙りが通りかかった捕鯨船E.L.B. ジェニー号の船長に発見され救出されました。救出は島より離れた所に停留し、わざわざボートで艇より海岸へ上陸し行われました。このとき救出されたのは、二人の少女キャロライン、スーザン、弟のチャールズそして容易に想像がつくように最も悲惨な状態で発見された乳母のジファーでした。彼らを船に乗せ、ポートロイドに程近いところにボートを寄せウェッブの保護にゆだねました。その後ウェッブはキャロラインと結婚し、スーザンは後にアメリカ人だといわれるピースという男の妻になりました。彼は1874年秋にポートロイドで失踪しています。以上のことは良く知られている事実です。ピース夫人、チャールズ・ロビンソンそしてジファーは今もピール島に住んでいます。
ジョン・ロビンソンはサンドウィッチ島に住んでいるとの報告を受けています。このことからも父親とともに彼らがヒルズボローからうまく脱出したことを推測させます。
キティという女性は今もベイリー群島に住んでおり、ローザという男性とカナカ人[39]の少年の3人がこの島の住人です。
次に上陸したのはフランス人のラザールで島ではルイースとして知られています。彼はハワイの捕鯨船ワイオラ号で1862年か1863年に上陸しました。彼はこれ以前にも何度か島にはちがう捕鯨船で来ていました。上述のいずれかの年にかポートロイドに移住しました。一度グアムを訪問したのを例外に彼はそのままずっとポートロイドに住んでいます。彼は恰幅のよい親切にみえる55歳ぐらいの英語の上手なフランス人です。彼の今の奥さんピディアはラドロネス群島のグリガン出身で、また彼女はジョン・マルキースというマルキースの原住民の男性の未亡人としても知られています。
ポートロイドに埋葬された最初と妻との間にラザール は3人の子供、アルバート、ルイーズ、フィリスをもうけ彼らはまだ生存しております。すでに申し上げたかも知れませんが、ビーチー艦長の1827年に掛けた銅板を見つけたのはこのラザールの家です。彼によれば、今占有している離れ家を片付けているときに見つけたということです。
次に1862年か63年にラザールと一緒に着いたドイツ人のアレンに移ります。
彼は50代の男性でサンドウィッチ島出身のポコノイという女性と結婚しました。彼らはピール島のポートロイドから2、3マイル離れたラザールとウェッブの住居の中間当たりに住んでいます。
現在ベイリー諸島に住んでいる男性ローズに関して、彼がいつ頃定住するようになったかは定かではありません。ポートロイドで彼について分かっていることは、1852年にフランスの捕鯨船グスタフ号で初めてやってきたということだけです。彼は病気のために残され、その後いったんは船に戻り、それ以降時々捕鯨船でポートロイドに姿を見せるようになったということです。彼はしだいにヒルズボローに住居を構えるようになりましたが、彼の移住の正確な日付け、またどのような経過で彼がそこへ定住するようになったかについては知られていません。
ここまでに名前のあがらなかった者については以下のような構成になっています。特にサンドイッチ諸島からの男性および女性、グリガン やアグリガンと呼ばれる島、キャロライン諸島、ギルバートもしくはキングスミル群島などからです。また、バミューダからのイギリス人だと称するロバート・メイヤーズという男性、シノというマニラ人、シノおよびメイヤーズの妻と思われる二人の日本人女性がその内訳です。66名の定住者のうち現在では35名がボニン諸島で生まれた者です。分類学上の学名命名法上興味深く、私がポートロイドにて調達しました居住者のリストは以下のとおりです。
トーマス・ツゥクラブとその妻ボサン、チャーリー・パパ、フライディ、ビル・ボロス、サミュエル・ティンポット、ジファー、ハンナ・ポコノイ、ピディア、ミセス・ティナリー、ミセス・ファニー、ミセス・ベティ[40]
雑婚[41]は確かに興味深い結果をもたらしています。白人を親に持つ男性の子供は際立って異なった容貌をもっています。薄いオリーブ色の肌をしており、褐色の目、輪郭のはっきりした顔立をしています。女性のミクロネシア人の血を引くものは紛れもなくはっきりとわかるように、多くの例ではフラットな顔立、大平洋の島々によく見られる肌のきめの荒い容貌で、またいくつかの例ではヒンドスタン人の容貌に大変近いことがわかります。
男性は大体においてシンプルにシャツとズボンを着用し、広いふちのあるパナマ帽を被っています。冬期には綿のシャツの代わりにフランネル[42]が着用され、女性はプリント地の洋服[43]を着用し、あざやかな色のカチーフを頭にしています。
上述の2人の日本人女性は横浜から1873年にスクーナー船トーリー号で連れてこられ、他に4、5人女性が乗客の中にはにいました彼女達が選ばれ、他の者達は横浜へ帰りました。
これまでどのようにして定住者の人口が定まったかについて見てきたので、ここから彼らの住居および職業生活洋式について述べたいと思います。
各家族は住居および離れの建てられた近くに耕作用に開拓された土地を所有しています。これらの大部分が港のまわりに位置していますが、小高くなった木の影が人目を遮っています。
ウェッブ、アレン、ラザールは各々が海に近い港でポートロイドから離れた南および西に彼らの開拓地を持っています。
それぞれの所有地には個別の名称がつけられています。左手の地域すなわち、港の北西部から始めるとブラボーの父子が所有するイエロービーチ、15人の家族で構成されるテゥクラブ家およびチャールズ・ロビンソンの開拓地で‘テン・ファッザム・ホール’の反対側に環たる‘ケイブ(The Cove)’として知られる浜辺に沿った土地、そしてジャクソンと呼ばれる未占拠の場所と続いています。ここからほんの少しして‘ヘッド・オブ・ザ・ハーバー(Head of the
harbour)’とよばれるセボリーの土地、そして東側と南側の海岸に沿って、続いてマニラ人シノとその日本人妻の住居のある“ブル・ビーチ(Bull Beach)”そしてそこからほんの少し離れたこの地の裏手に‘アキ(Aki)’として知られる現在はピース未亡人の所有地、ここは以前、1861年の末から1863年の撤退までの間、日本人居留地でした。
港を離れて海岸端をまわると、南の方面、‘ブロッサム(Blossom)’または‘クラークソン・ヴィレッジ(Clarkson’s village)’として知られるラザールの居住地にでます。もう少し行くと‘ポコノイ(Poconoi)’というウィリアム・アレンの居住地、そしてその向こうにウェッブとその家族が住む‘リトル・リバー(Little River)’があります。しかしアキからこれらの土地に続く道はでこぼこ道なので、天気さえ良ければカヌーで行く方がむしろ容易です。
居宅はどれもがよく似ており、一つを描写すればそれで充分お分かりになると思います。居宅は2つの部屋からなり、木製の柱で構造され、頑丈な木で床が作られています。壁と屋根はキャベツ椰子の葉が密に敷き詰められており、細い木の枝のたるきで留められています。キッチンと離れ[44]は居宅とは別になっています。家具はもちろんそれほど大きくなく、粗いモミ材のテーブル、数脚の椅子、船員用タンスが一つの部屋を飾り、ベッドルームには簡単な木製の寝台が置かれているだけです。
各々のキャビン(小屋)、そう呼んでもよいかも知れません、は時計がかけられ、幾つかの安っぽい派手に色付けされた絵[45]が壁には飾ってあります。天井からはライフル銃と鳥がぶらさげられていました。幾つかの棚に皿と陶磁器類がきちんと並べられ、これらすべてがこれらの家で見られる家財道具です。床や家の隅々、リネン類、食器類まですべてのものが注意深くきれいにされていました。
書物に関しては私がウエッブの家で見かけたものを例外にどこにもありませんでした。ウエッブは島の人間は、誰一人読んだり、書いたりできないと考えていました。
各々の家の周りを囲む耕作地には野菜類、さつまいも、かぼちゃが見られ、あちらこちらに小さな水路があり、主食料の一品目であるサンドウィッチ諸島ではポイ(Poi)という名でよく知られているタロイモが作られてます。住居は、ただ一軒アキにあるピース未亡人の家を除いて、全て低地に位置し、それぞれの家の裏には斜面になった土地が広がり、砂糖きび、とうもろこしと2、3本のココナツの植え込みがあります。
豚、ガチョウ、あひる、にわとりが飼われ、生育状態はよいようでした。野生のやぎ、野生および飼いならされた豚、家禽、園芸フルーツ、野菜、湾からの豊富な魚や亀、入植者達の食料事情は決して悪くはありません。しかし時にはハリケーンが猛威をふるいかなりの被害が農産物にもたらされ、食料不足になることもあります。私がであったある家族などは食事をインディアンコーンのみにせざるを得ないものもありました。
入植者達の職業は想像するに難くありません。夜があけると同時に畑仕事または家の修理等にかかり、季節によって違いはありますが8時頃に朝食をとり、食事の内容は手元にある生または塩漬けの亀、魚、穀物、タロイモ、野菜等を食べています。朝食後はまた仕事に取り掛かり、ある者は4、5、6月のシーズンには亀漁をし、かなりの数を捕獲し、一人あたりの捕獲量は一日に50匹程度です。また別の者は魚をとりに出かけたり、銃を持って野生の山羊や豚の猟にでかけます。薪の採集にでたり、隣人の家の修理を手伝ったり、新しい家を建てたりというところです。
夕食は日が落ちるとすぐにとられ、内容は朝食と同じものか山羊の肉や豚が加わることもあります。そして夕食のあとは就寝、毎日がその繰り返しで、時折の捕鯨船の到来により変化もありますが、最近ではそういったことも稀です。島の産物に加え、島では大変上質のクズウコン(薬としての用法もある)が繁殖しており、土壌もクズウコンやタピオカに大変適しているように思われます。
水に関しては不足することはなかったようである。
入植者達は商取引きもしております、当然とも思われますが、人々は金銭の授受よりもむしろ品物を交換する傾向にあります。彼らの間では金銭はほとんどまたは全く意味がなく、貯蓄する以外はつぎにやってくる捕鯨船に対して使えるくらいだからです。
彼らが必要とした物は特にあらゆる種類の反物です、薄い生地であっり、衣服に適当なものであったり、雑貨、塩、(大部分が冬の間の食料とする亀の塩漬けに使用)石鹸、たばこ、金属類、釘、ナイフ、いろいろな種類の道具類、弾薬であった。これらとの交換物は亀、亀の甲羅、亀の油、バナナ、レモン、家禽類、野菜類です。購買者が現金の支払いを望む場合は以下のような価格が島の相場です。亀一匹2ドル、亀の油は1バーレルあたり10ドル、15ドル、20ドルとあり、亀の甲羅は1ポンド[46]あたり50セント、レモン100個2ドルであった。
入植者達の需要物はそれほど多くなく、また人口が限られているので簡単に供給ができるようです。明治丸がひと括りの毛布、反物、お茶、酒類、たばこと種々雑多なものを島に配給した際に、カーリュー号のチャーチ艦長は入植者に対し島民の欲しがる物があれば各々に、シャツ、フランネル、靴、ナイフ、石鹸等を船の備品から無頓着に分け与えました。
私は個人的に入植者の住居を個別に訪れたので、ラザール、アレン、ウエッブの各々の所有地へを訪ねる為に島の南部分を渡らなくてはなりませんでした。これにより、島の景観の特徴、植物分布、全般的な資源への特徴がよくつかめました。上陸してはじめて予想以上に熱帯色が強い植物分布であることがはっきりしました。野生種のパイナップルである椰子、ふさふさしたシダが豊富に繁り、丘の部分は緑草で覆われ、谷は野生の豆類でみたされ、あちこちにタロイモが繁殖していました。
以下は主要な木々や植物です。私は入植者達に知られている名前をここに列挙しました。あるものについてはたぶんにハワイでの名称が採択されたものです。
トレマナ;綺麗な木で、入植者に広く利用されています。捕鯨船が一本25セントで取り引きされ、この木を大量に持ち帰ることがあります。また、あるときはスクーナー帆船が島からカーゴにいっぱい持ち帰ったこともありました。
マルベリー(クワの一種);ボニン諸島では家の柱に使われ、一般的に建材として利用されています。
シーダ(スギの一種)と呼ばれ、綺麗な木で住居の床材として使れ、家具等も全てこれで作られています。
ティーツリーおよびポイズンウッドツリー;カヌーの船体を作るのに使用されます。
スプルース(トウヒの一種);燃料としてのみ使用されます。
ローズウッドツリー(シタンの一種);住居の屋根の下材に使われます。
シャドック(ザボンの一種);屋根材に使われる木。
イエローウッド;特定の使い道なし。
ヘイクウッドおよびホワイトオーク;両方とも住居に使われます。
ロハラツリー;葉と繊維でマットが作られ、果実は豚の恰好の飼料である。
ミルクウッド、レッドアイアンウッド、ホワイトアイアンウッド;建材として使われます。
ブラックアイアンウッド;燃料としてのみ使われます。
ソフトハオウッド;船体やカヌーが作られます。
スウォンプハオウッドおよびマウンテンハオウッド;カヌーの舷外材および船体の横についている舷外浮材に使われます。
ナローリーフハオツリー;この木は手斧の取っ手や農作用の道具に使われます。
ケオップツリーまたは潅木;アロエに似た綺麗な植物、甘い香りのする花をつけます。この葉は入植者達にある種の傷、痛みを癒す効力があるとして、よく利用されます。火で柔らかくしておいてから打撲傷や炎症に使います。
上記にあげたものに加えて、島には野生のプラム、クリーヒ(Crryhe)[47]、オレンジ、ローレル(月桂樹)、ジュニファ(杜松)、ボックスウッドツリー(ツゲ)、サンダルウッド(白檀)、マーモッタオ、野生種のサボテン、カリープラント、ワイルドセージ、セロリ、コケ類、地衣類、いろいろな種類の寄生植物が繁殖しています。
鉱物に関しては入植者には全く知られていませんが、ピール島に鉄の硫化鉱が認められます。海岸は珊瑚礁でおおわれ、貝殻がまき散らされたようになっており、大変美しい。
地震がおこり、潮波は頻繁に寄せるが、不思議なことに潮津波は全く港に打ちつけてこない。しかし、潮は、ちょうど入植者達が私に描写したとおり、ボウルにコップを逆さに立てたように突然満ちてきます。潮は一定の高さまで満ちると突然さっと引いていきます。気候は温暖というよりむしろ熱帯的です。私達の訪問は11月の下旬でしたが、温度計は正午で70度から75度まであがり、横浜を出た後ではうだるような暑さのように思われました。入植者は疾病には殆ど無縁のようで、唯一のあるのは寒いときから暑いときへ、暑いときから寒いときへの季節の変わり目でひどい風邪をこじらせる悪寒ぐらいです。
私の気付いたところでは暴飲の兆しは全くなくどの家にもビール、ワイン、酒類は見当たりませんでした。
カーリュー号の船上で宴を催したとき、訪れた者にはビールが勧められましたが、年老いたものだけが手をつけただけで、若い者は水と食事以外は拒みました。たばこの喫煙は一般的です。これまでに、我々のポートロイドへの到着の際、港の先端の小屋でアメリカの旗がふられたことを述べました、建物自体は木々で隠され係留地からはぼんやりとしか見えないですが、この旗はセイボリー未亡人とその家族のが掲げているものであることが判明しました。
私は家族に囲まれながらチャーチ艦長や私の話に受け答えたこの年老いた夫人と長い間話をしました。家族以外の入植者もそこには一人か二人きておりました。
彼女は旗が掲げられていたのは私達に対する敬意を払ってのことで、彼女の夫が残した遺言にいつでも船が着いたとき、もしくは特別な日には旗をかかげるようにとあったからだと説明しました。
私はセイボリー夫人に彼女がいずれかの国の保護をうける考えがあるのかどうかを訪ねましたが、これには家族全員が手をふり、彼らはボニン諸島の島民としてのみ扱われたいと言いました。私は彼らが自分達の占有を乱されず、そのままにしておいてもらいたいと考えているのだと理解しました。これは国籍だとか保護等に関しても、むしろなくてもよいということなのでしょう。
居宅はセボリーの墓に近く、実際、死者の安息の地である囲い地は柵で囲われ人目に着く場所にあるものがほとんどで、ある例では墓石に英語で死者の氏名と死亡年月日が刻まれていました。
このことについて、ある入植者の一人が私に次のようなことを話しました。2、3年前に海岸の近くをこの者が掘ってたときに、明らかに10歳ぐらいだと思われる子供の頭蓋骨を発見し、骨は空気にさらされ、触れると粉々になったということでした。このことからそれはそこに長い期間あったということを確信させるものでありました。この事実を記録もれさせるわけにはいかないでしょう。
入植者達が英語を喋っていることについて、特にこれまで触れてきませんでしたが、キングスミル群島から来た6人ほどが彼らの母国語を話すであろうということを除けば、間違いないでしょう。
しかしながら、島では教育を行った形跡はなく、またこの状態を改善しようとする者もいないようです。ウエッブだけが唯一可も不可もない程度に読み書きができました。
宗教についてはウエッブを例外として、特には記されてはおらず、結婚式や埋葬式は時おりウェッブにより執り行われたと思われます。
セイボリー夫人に夫の死について、彼の死が安らかであったかどうかを尋ねたところ、彼女は「まさにそうでした、彼ははっきりとした確かな指導を残してくれました。」と答えました。しかし、彼が将来の指針についてなんらかの道を示したかどうかについて引き続き私が尋ねるとその質問が分からなかったらしく、うつろな表情だけが返ってきました。私は彼女や彼女の家族が置かれている立場について、どういった点が魅力的かという質問をしましたが、これに対しむしろ面白い(滑稽にも思えるような)返答を次のようにしてきました。「ええ、ここでは私達は税金を納めなくてもいいところかしら」と。
チャーチ艦長と私はセイボリー夫人、その22、3歳になる若い息子ホレース(Horace)、ウエッブ、ラザール、チャールス、ロビンソンそしてブラーボの家人からたくさんの親切と心遣いをうけました。
まとめ
さて、ここにきて私に残されたことは結びの批評をすることです。世間に出回っている噂では、ボニン諸島はいくぶん未開な地、お互い殺し合いをするような野蛮な場所のように言われています。しかし私が今回知ったのは入植者達の小さな居留地であり、礼儀や世間一般の規律にを持ち、身綺麗な、彼らの独自の考えを持った快適な家をもつ社会集団であるということでした。これらが知るに値する明るい一面であります。
暗い一面もあり、これは入植者達が何事にも全く無関心な点です。彼らは今必要な物資を何がどのように供給してくれるのかということ以外には無頓着であり、お互いに対して常になんらかの疑いを持っているのです。無宗教、無教養、そして年老いた男女が宗教なき死へ急ぎ、教育のない子供達の成長、そこにはこれ以上の暗黙の不安材料があります。この報告ではジレーとボブという名の二人が隣人の手にかかって死んだという事実も報告しました。1874年10月9日にはベンジャミン・ピースという、ポートロイドの住人が失踪し、これは残虐な殺しに関わったと信じられています。1875年6月11日にはピース殺害の強い容疑がかかっていたスペンサーという名の黒人が失踪し、島の住人の一人によって殴り殺されたという報告が入っています。また私は別の島の住人から彼のボニン諸島に居住しているの25年余りの間に少なくとも11人の人が残忍な死をとげたということも聞かされています。
実際、島の「人口」と描写するには小さすぎるこの集団を仮にそう呼んだとしても、皆さんにはこれらの悲劇が本当の意味で島に移住してきた「人口」、すなわち住民によってひき起こされたとは考えていただきたくないのです。
この人口を構成しているのが、幾人かの老人であり、まだ島に移住してまだ長くない者、この島で生まれ育った者のほかにも、捕鯨船から脱走してきた者、何らかの理由でこの島に置き去りにされた者がいること、そしてこれらの後者は決して行儀のいい者達でないことを理解しておいてほしいのです。
今後、ボニン諸島との通信が定期的になされるでしょうが、島の住民は横浜や江戸の外国人コミュニティの者と共感できる立場にあることを忘れてはならないと私は思います。[48]彼らの生活状況の改善が日本の開港によりなされないようであれば、我々のうちのいづれかが尽力するべきでしょう。島に対して、言葉や行動によりこの共感が表現されるようであれば、いかに彼らに多くの支障、問題があるとしても、ボニン島の島民から心より感謝されることに疑いはありません。
上記のアジア協会の総会はグランドホテルにて、1876年3月15日水曜日に会長のS. R. ブラウン博士を議長に開催された。例外的に多くの会員および友好会員の参加があった。開会にあたって議事録が読み上げられ、確認された。
続いてラッセル・ロバートソン氏による興味深い「ボニン諸島」に関する報告が発表された。
このとき、ブラウン博士はロバートソン氏による入念かつ興味深いボニン諸島に関する報告に対し、アジア協会は氏の功績を評価し、それは単に形式的に述べるものではなく確かに事実そうであることをあらためて述べた。この群島は我々に近いところに位置し、外洋に出、大平洋を横断する船舶の航海者等に古くから知られています。しかし実際の島に関する報告は断片的で散在していました。島の物理的特徴の間違いない概要、また島の居住者の実態を把握するのは、不可能とは言わないまでも困難でありました。ロバートソン氏は彼の苦労の賜物をここに発表されました。この報告の島々のまさに徹底した記述は航海記録および旅行日誌の研究の成果および彼自身による注意深い調査を、知られている限りの過去の歴史から現在の状況までを関連づけながら集約されたものです。69名の住民が様々な国籍で構成されるのは島への捕鯨船の頻繁な来訪を示すものであります。この小さな集団はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ポルトガル、サンドウィッチ諸島、ラドロネス、キングスミル群島その他の大平洋の群島出身者、また日本人やボニン諸島の原住民から構成されています。
日本政府はこの諸島を植民地化する不完全な計画をそれほど昔ではない時期に決行し、占有権の主張をいまだもってしているようですが、島の人々は自治を彼等自身に委ねられることを望んでいるように思われる。ロバートソン氏は結論のなかで、島の人々の社会的、知的、道徳的事情には配慮が必要であることを述べています。島で唯一読み書きのできるウエッブが死亡したのち、それを引き継いで結婚式の儀式を行うことや死者の埋葬式をする彼のあとを継ぐ者は誰一人いません。外部からこういった状況をくい止めるための影響力ある介入がない限り、どんどん進行していく無学、退廃の結果を考えれば哀れであります。ロバートソン氏の提案は日本にすむ外国人が島民の現状と未来を改善するためになんらかの形で貢献することを掲げました。
ブラウン博士は数年前まで生存していたジョージ・ホートンという名の男についても言及しました。博士によると、博士はこの男を知っており、ホートンの履歴は、何の変哲もない個人の運命でさえも大きな変化がもたらされえることを示しているといいます。ホートンは1853年もしくは1854年に彼の申し出により病気のためペリー提督によりボニン島に残留させられた。1862年に彼は日本の船に海賊のような行為をはたらいたとの容疑で、この船で逮捕され、横浜に連行されました。ホートンは当時およそ80歳であった。アメリカ大使のまえで以下のような事情聴取のための審理が行われた。日本の船舶がポートロイドに停泊中のこと、某日ホートンは古いピストルで射的の練習をしていたとき、捕鯨船で航海にでていた島の男が彼に男と一緒に船に乗り込み、この男は船を下船したかったので彼の衣装箱を運び出すのを手伝って欲しい旨頼まれた。ホートンはこれに同意し、ボートが船に沿って横付けになった時、彼はその古いピストルを船尾のシートの上に放り投げ、デッキへと向かった。衣装箱をめぐって衣装箱の持ち主である男と艦長の間で激しい口論となった。結果ホートンは船に向かってピストルをむけた罪が問われ、ロープで帆柱に縛り付けられた。 以上のような経過で彼は横浜へ連行され、アメリカの当局の審理をうけることになったのである。審理ではたよりのない年老いた男の様子を斟酌すれば告訴を取り下げるのに十分であったので、彼は結局無罪放免となった。裁判の決定は彼を島での所有地と住居へ送り返すか、もしくは彼の滞在を保障する1000ドルの供託金をアメリカ領事館に提出することが言い渡された。結局船の艦長は供託金の支払いに応じる方を選択した。ホートンはイギリス、ボストンの出身で当初は船を所有し、指揮をとり、イギリス海軍に25年間水兵として勤続し、コペンハーゲンの戦闘、そしてまたナイルでの戦闘ではネルソン海将のもとで仕え、最終的にはアメリカの海軍に18年間仕え、その後ボニン諸島に移った経歴を持つ。彼は横浜で2年間生き長らえたが、彼の亡骸は横浜の墓地に埋葬されている。
翻訳の注
[1] The Bonin Islands by Russell Robertson, read before the Asiatic Society of Japan on the 15th March, 1876。Asiatic Society of Japan(日本アジア協会)、1872年5月横浜在住の英米人が設立「アジア協会誌 The Transaction of Asiatic Society of Japan」を発行。
[2] 田中弘之著, 幕末の小笠原, (1997), 中央公論社, 東京 p.22 フランスのアベル レミューザが1817年フランスアカデミー機関誌に「BO-NIN諸島」の音記を発表して以来、小笠原諸島の洋名が「ボニン」としてアロウスミスの地図などに採用され定着した。
[3] Port Lloyd(ポートロイド)洋名、和名は二見港(フタミコウ)である。
[4] 和名は聟島列島。
[5] 和名は母島列島。
[6] 和名は父島列島。
[7] 和名は弟島。
[8] 和名は父島。
[9] 和名は兄島。
[10]和名は母島、洋名はいくつかありSouthern Island, Coffin Is., Bailey Is., Hillsboroughである。
[11] Engelbert Kaempfer, (1651~1716) ドイツの外科医および博物学者。
[12] E. Kaempfer著 The History of Japan, London, 「日本誌」(1727)『日本誌』は1690年から2年間日本に滞在した際の調査記録を日本の歴史、政治、宗教、地理等にわたって編纂刊行したもの。
[13]1670年(寛文10年)2月に阿波国(徳島県)海部郡浅川浦船主勘右衛門の蜜柑船が紀州藤代から江戸へ向かう途中暴風に遭遇し、母島に漂着している。本文の記載はこの事件に当ると思われる。
[14] 引用文, 前掲書,幕末の小笠原, (田中弘之), p.19、この引用文にたいして田中氏は次のように解説をしている。『「1675年頃」「八丈島から」とあるのは「1670年」「日本本土から」の誤りで、大きなカニが棲息しているとあるのも「カメ」の誤りと思われる。』pp.19-20.
[15] この記載については『ペリー提督日本遠征記』(土屋、玉城訳)Hawks, Francis L., Narrative of the Expedition of an American Squadron to China seas and Japan, performed in the years 1852,1853, and 1854, under the Command of Commodore M. C. Perry, United States Navy, (1865)に「多分この島に豊富にいる緑海龜が蟹と間違えられたのだろう。これが誤りなることはその動物が巨大なものだ記述していることによっても明らかだろう。」と記載があるので、ここでなおこのように報告するのはロバートソンの研究がかなりの部分過去の航海記録や旅行誌に頼っていたことのあらわれであろう。
[16] 原文にはMiyanouchi Sadayori とあるが、小笠原貞頼の子孫を自称する小笠原宮内貞任(おがさわらくないさだとう)の間違いではないかと思われる。
[17] 名前からは、B臨丸の幕吏の一人の外国奉行支配定役元締佐、小花作之助を指すものと思われる。
[18] 1861年とされるが、文久元年12月4日外国奉行水野忠徳率いるB臨丸が小笠原島回収団として品川沖を出帆したのは西暦では1862年1月3日である。
[19] アルボビスポに関して諸説があるが、マニラ在住のスペイン人が名付けたとする説が有力説である。アルボビスポとはスペイン語で大僧正という意味であり、このことについての記載が「ペリー提督日本遠征記」にもある。
[20] ラドロネス諸島は現在のグアム、サイパンをふくむマリアナ諸島のことで1668年に現在の名称に変更されている。1876年当時には公式にはマリアナ諸島であったと思われる。
[21] イギリス海軍の探索調査船、この航海では、大平洋の探索調査のほかに、行方不明になっているパリーやフランクリンの探索船の捜索も使命の一つとしていた。
[22] 一本マストの帆船。
[23] 現在のハワイ諸島。
[24] Beechey, Frederick W. Narrative of a Voyage to the Pacific and Bering's Strait. London, 1831.
[25] 遭難した船は正確には田中前掲書によると、ロンドンの捕鯨船ウィリアム号であり、2名の乗組員は水夫長ウィットリンと水夫のピーターセンである。
[26] 2本または3本マストの縦帆式帆船。
[27] ハワイ諸島在任のイギリス領事リチャード・チャールトン。注.英文の本文中はCaptain Charltonとなっている。
[28] 3本マストの帆船。
[29] キングスミル(Kingsmill)群島は現在のギルバート群島(Gilbert Islands)である。1979年に独立したキリバティ共和国を構成する群島の一島である。位置的にはオーストラリアの北西2800マイル(4500キロメートル)にある。
[30] 本文中には「The Narrative of Commodore Perry's expedition to China and Japan」とあるが、正式にはNarrative of Expedition of an American Squadron to China Seas and Japan, performed in the years 1852, 1853, and 1854, under the Command of Commodore M. C. Perry, United States Navy, 1856, by order of the Government of the United States.(合衆国政府の命令により、合衆国海軍M. C. ペリー提督指揮の下に1852年、1853年および1854年に行われたる中国諸海および日本へのアメリカ艦隊遠征記)』
[31]「父島の北西部のウィリアムズ湾に上海から運んできたオス・メス二頭ずつのウシを揚陸し、シカやシチメンチョウ」を放し、「兄島には五頭の上海広尾羊と六頭のヤギを放して、住民に向こう五年間の捕獲禁止を命じている。」田中前掲書p.101.
[32] 小型駆逐艦
[33] 帆装戦艦
[34]1849年のゴールドラッシュ時にインド、中国などから多くの日雇い労働者「苦力(クーリー)」がカリフォルニアへ向けて移動した。
[35] 西洋型の船体に中国型の帆を付けた船(ローチャ船)その殆どが中国で製造された。
[36] 軍艦用小艇もしくは監視船。
[37] 事件は1849年8月9日にいったん出帆した船員達が2日後に引き返し、島民の食料、家畜などを手当りしだいに略奪し、このときセボリーからは現金2000ドルの他に2000ドル相当の物品も奪った。ミリチャンプも同様の被害にあっている。
[38] 尋は水深をはかるのに用いる単位、1尋=約183cm。
[39] 南洋諸島の原住民。Kanakaとはハワイの言語で「人」という意味を持ち、南半球ではメラネシア人を主に意味し、召使いとして働く人種。ここではハワイからの住民と区別するために使われたと思われる。
[40] サミュエル・ティンポットの名前が原文中2度記載されているがここでは割愛した。
[41] 白人と有色人種の異種族混交。
[42] 米国では綿ネルを意味するがこの報告がイギリス人によるものであることからここでは毛織り物と思われる。
[43] 原文では gowns とあり、ワンピースのような形のものを意味する。
[44] 原文では outhouse となっており、これには当時のイギリス英語では屋外便所の意味もあるが、ここでは単なる離れを意味するのかも知れない。
[45] これについてペリー提督の『遠征記』には「青色のペンキで豊かに塗られたケバケバしい石盤」という記載があり、また単なる装飾というよりも「むしろ贅沢な趣味とされている」としている。
[46] 1ポンド=454グラム
[47] 原文にはCrryhe と記載されており、誤植と思われる。
[48] このむしろ唐突に思われる結論部の表現は、島民の境遇が横浜在住の外国人の境遇と通じるものがあるということを意味しているものですが、これは当時のアジア協会が主に横浜在住の外国人によって構成されていたことと1870年代の時代背景を考慮すれば理解できると思われる。