小笠原における日本語の方言形成

 

阿部 新(東京外国語大学大学院生)

 

1. はじめに

小笠原諸島においてどのような日本語が使われ、どのように方言が形成されているのか。東京から遥か1,000kmの南海に浮かぶ孤島の日本語についての論考はさほど多くない。その理由の一つは、小笠原諸島の領有権が日本にあるとされてから、まだ100年ほどしか経っておらず、「方言の形成」という観点からはまだまだ当地での方言は形成されていないのではないかという考えがあるからであろう。しかも、終戦後23年間は米軍の施政下におかれて日本語が断絶した。再び日本の領土となって日本語が戻ってからまだちょうど30年である。

このような小笠原の日本語方言の形成を考えるにあたり、重要なのはその移民の歴史である。日本人に先んじること30年、主に英語を使うコミュニティーがあったところに八丈島からの移住者が集団として入っていったのが明治期のことであった。日本語話者と英語話者との積極的和合が図られ、婚姻も積極的に行われた。帰化にも抵抗を示さなかった英語話者たちのおかげで、日本語と英語が強く接触していった。

一方、現在の日本国内のもう一つの移住先、北海道を考えてみれば、その北海道も似たような歴史を歩んでいる。アイヌ語話者の土地に日本語話者が明治期に人々が集団入植していった。海岸部では東北から、内陸部には日本各地から集団入植し、各方言のコミュニティーを形成していた。現在では、北海道は方言学的研究および社会言語学的研究のフィールドとして格好の土地の一つとなっている(小野米一1990)。

しかし、北海道との決定的違いは、土地自体の大きさである。北海道と小笠原では面積が違う(約83,500q2:約44q2)。小笠原はおよそ二千分の一の小ささである。北海道という広大な土地に分散して存在していた各方言コミュニティー間では方言の接触はなかなか起こらず、人口が徐々に増えるにつれて共通語化が起こっていった。

一方、小さな絶海の孤島では人々は互いの言語に影響し、影響されあって島独自の言葉を形成していたはずである。これは陸地から遠く離れた島における植物相の影響のされ方と良く似ている。「小笠原に限らず世界の海洋島で、植物種を絶滅に追いやっている一番大きな原因は、ヤギなどの家畜の放牧ないし野生化と思われる。」(小野幹雄1994222)島の方言の影響のされ方も似た様なものである。米軍がやってくれば、日本語は根こそぎもっていかれ、英語だけが通用する島になってしまった。再び日本政府がやってくれば日本語をまた植林していく。ちょっとした変化があっという間に島全体に広がってしまうのは植物の繁茂も言語の広がりも同じようである。

現在、島には東京および共通語からの影響が否応なく押し寄せている。今も都支庁をはじめ29もの公共機関があり、その職員が島で生活している。職員は小笠原村の就業者数の25%をも占めている(すなふきん編集部編1997)。さらに観光客が滞在し、中にはそのまま居着く者もいる。そういった構成者の言語は島の言葉を共通語へと加速度的に変化させているのであろう。

本稿では、先行研究および文献から島の歴史を簡単に振り返る。その後、小笠原において使われる日本語に焦点をしぼり、その歴史を話者別に振り返り、最後に展望に触れたい。英語や英語と日本語との使い分けなどの問題については別の論者に譲る。

 

2. 小笠原の歴史

この節では、まず島の歴史を簡単に振り返っておく。歴史的区分は津田 (1988) を参考にする。

 

2. 1. 初定住前史

現在人が定住している父島・母島においては、1830年にハワイからの移住者が来る以前には、人が定住した形跡はない[1]1593年に小笠原貞頼という人物が小笠原を発見したという説は現在では架空の物語であることが認められている。しかし江戸時代に貞頼の子孫と名乗る者が渡航許可を幕府に願い出て、その時の書類に出てくる地名が現在の地名になっていることは興味深い。また、1670年にミカン運搬船が遭難し母島と思われる島に漂着した事件と、その後の幕府による調査・測量が、後に日本が小笠原の領有を主張する根拠となった。前史時代の日本人の渡航は、後世の小笠原の言語が日本語となるための重要な足跡だったことが分かる(田中1997)。

また当時、大航海時代の先端を行く各国の船が小笠原近海に現れていた。硫黄列島はスペイン人が、父島母島列島はオランダ人が発見していた。その後、ミカン運搬船の漂着と小笠原の発見が相次いでヨーロッパに紹介された。

その後は、イギリスやロシアの探検船やアメリカの捕鯨船が近海を航行することがあったようである。捕鯨中継基地として小笠原は絶好の位置にあり、そのためハワイのホノルルで入植の一団が結成されたのであった。

 

2. 2. 父島開拓者の共同体の時代 (1830-1875)

1830626日に5名の欧米人と20名のハワイ出身者たちが初めて小笠原に定住した。当時は、英・葡・米など欧米系と、サンドイッチ(ハワイ)・グアム・ポナペなど太平洋土着民系の婦人との間に生まれた混血の子孫の社会が形成されていた。その後、1840年には陸奥の漁師が父島に漂着した。その際に「小友船漂流記」という記録を残している(倉田編1984、延島1997他)。

 

2. 3. 日本人の入植と欧米系島民の共存の時代 (1876-1944)

1876年小笠原が日本の領土であることが国際的に確定したため、日本人が本格的に入植し、欧米系帰化人と混成の社会となった。用いられる言語は日本語が優勢になっていく。1878年に父島に小学校が開校し、国語教育・日本語教育が行われはじめた時代である。1896年頃から、八丈島、沖縄、焼津、清水などの漁港地からの移住が本格化し、30あまりの島のうち、14の島に人が住んだ。日本人と帰化した欧米系島民が、日本語と英語の混成した社会で穏やかに暮らしていた。

また、この時代には南洋群島からの民謡が伝えられていた。これらは現在も島民に親しまれている。起源は、日本人が南洋から覚えてきたものであるとかハワイ人が歌っていたなどの説があるが、1920年代から30年代にかけて広まったものであることはどの説にも共通している。歌詞は南洋群島の言葉と思われるものがあり、若干の英語、ドイツ語の単語が含まれている (Arima 1990)

しかし、その共存の時代も70年近くで終ってしまう。欧米系島民は1882年に正式に帰化していたが、1940年には強制的に日本語名に改名させられた。小笠原も否応無く戦争に巻き込まれていったのだった。ついに第二次世界大戦の戦局が激しくなる1944年、島民6,886人は東京、埼玉などに強制疎開させられることになった。

 

2. 4. 米軍の施政下における欧米系島民の時代 (1944-1968)

1945年の終戦と同時に小笠原は米軍占領下におかれた。翌1946年欧米系島民129名が父島にのみ帰島を許され、米海軍軍人と欧米系島民のみが暮らす社会となった。1956年には教育機関としてラドフォード提督学校が設置され英語教育が始まった。

 

2. 5. 日本への返還と旧島民、新島民、欧米系島民の時代 (1968-)

1968626日、小笠原は日本に返還され、再び日本人と欧米系住民が暮らす社会になった。しかし疎開していた島民がすべて帰島したわけではなく、戻ってきたのは一部であった。本土の疎開先にそのまま残り現在も生活している元島民も少なくない。逆に、戦後新しく島に渡って島民になった者も多くいる。彼らは「新島民」と呼ばれ、東京都の職員、教員、自衛隊員、気象庁職員とそれらの家族が含まれる。最近は観光客として訪れてそのまま短期間滞在、または定住する者もいる。

現在の小笠原は次のような人々で構成されていることになる。疎開から戻った「旧島民」、戦後新しく島民になった「新島民」、さらには最も古くからの定住者「欧米系」である。1998年には返還後30年を迎えるが、小笠原は今後も「新島民」という新たな「移民」を迎えていくことであろう。今後は「新島民」の比率が高くなり、新しい文化ができていく新たな段階を迎えようとしている。

 

3. 小笠原島民による日本語の歴史

この節では、先行研究から、どのようにして小笠原における日本語が形成されたのかを略述する。

小笠原では話者を三つのカテゴリーに分けることが出来る。すなわち前節の最後に挙げた、旧島民、新島民、欧米系である。この三者には三者三様の社会的・歴史的背景がある。したがって、それぞれに異なった言語使用をしている。しかし異なってはいるが、彼らは現に小笠原で調和しながら生活をしており、現地で言語生活を営んでいる。相互に影響しあっているが、新島民が持ち込んだ共通語のために「旧島民」も「欧米系」も急速な共通語化を引き起こしている。

この三者の言語を皆同等に小笠原の日本語と考えて、これまでの小笠原における日本語の状況を旧島民、新島民、欧米系3つの観点から整理すると、表1のようになる。歴史的区分は前節の区分による。

1 旧島民・新島民・欧米系が各時代に使用した日本語

 

旧島民

新島民

欧米系

1830-1875

 

 

日本語は使用されていなかった。英語を共通語として、カナカ語を家庭で使い分け。

1875-1944

八丈島からの移住者が多く、八丈島方言が使われていたが、のちに、小笠原方言 (?) ができた。八丈島方言とは異なりながら、アクセントは一型で共通。

 

日本語と英語の両方の教育が行われたが、帰化をして以来、世代を経るごとに英語は聞かれなくなった。

1944-1968

 

 

(本土へ疎開)

 

米軍の占領により、英語の教育が行われた。学校では英語、家庭では日本語という使い分け。

1968-

60代以上の旧島民の日本語は、共通語とは異なった諸形式を用い、特に八丈島三根方言からの影響が大きいようだ(津田)。語彙としては「エズイ」「ハンケ」などが見られる(清水)。

新島民は共通語を持ち込み、急速にそれを広めている。その子供は八丈島方言や欧米系の言葉の影響を受けており(関口)、独特の呼称も子供たちの間でよく保存されている(関口)。しかし、それも急速に消滅させ、共通語化させている。

日本語の文法構造からなる文に、時々、英語の語彙を英語の発音のまま挿入する(津田)。八丈島方言の語彙も見られる。「エズイ」「ハンケ」など(清水)。

 

3. 1. 旧島民の日本語

戦前の旧島民の日本語についての先行研究は多くないのが現状であるが、平山輝男氏による記述が最初のようである。調査は昭和15 (1940) に行われた。

父島・母島に生れ、そこに青年期を過した人々のアクセントは一型である。思ふに本島草分け当時、一型地帯(特に八丈島)からの移住者が最も優勢であつたものであらう。

諸地方からの移住者が雑居して今尚、小笠原方言を育むに迄に至らず、方言としては八丈等とは大変相違があり乍ら、アクセントが同じ一型に統合されてゐる事は興味深い現象であらう。(井上他 1995533

どのように相違があったのかはわからない。既に共通語化が見られたということであろうか。

戦後、伊豆諸島各島の方言調査を終えた平山氏は『伊豆諸島方言の研究』 (1965) の中でも、数行ではあるが小笠原について述べている。「小笠原諸島の方言は、比較的癖の少ない方言であるが、終戦以前私が調査したところによれば、アクセントは八丈島と同じ一型であった。」(平山19655

しかしここで奇妙に思えるのは、平山氏の戦前の調査では、「癖のない方言」であるとの報告がなされていることである。どのように「癖のない」ということなのか、判然としない。津田 (1988) では、旧島民の日本語は、八丈島方言の色を今なお色濃く残していることが述べられ、平山氏の記述とはかなりの相違があるといわざるをえない。旧島民の多くが八丈島からの移民の子孫であれば、この隔離された島での生活において、八丈島方言を保持したということは想像に難くないと思われる。しかし、「癖のない方言」と述べられている。これはどう理解すべきか。50年以上前の調査では癖がなかったのに、50年後に方言の特色が出てきた、しかも先祖が昔使っていた方言の特色が見られるようになったというのだろうか。それはありえないことであろう。これはやはりこう考えるべきだろうか。この調査では、方言としてのインフォーマルなスタイルを調査できず、フォーマルなスタイルを調査してしまった。話者は語彙的に癖のない共通語的な方言で調査に臨んだのではないだろうか。しかしフォーマルスタイルといえども、話者はアクセントまで変えることはできなかった。(むしろ、アクセントを知覚し得ない「崩壊一型アクセント」であったので、変えようにも変えられなかったのかもしれない。)だから癖がなく聞こえたのではないか。

いずれにせよ、調査は戦前のものである。この後、島民の内地への集団強制疎開を経て、返還当時の旧島民がどのような言語を使用していたかについては記述はない。当時のマスコミも現地の欧米系の島民に対しては苛酷に取材をしていた(清水1994)ようであるが、疎開先から戻った旧島民には興味を示さなかったのであろうか。それとも、同じ戦災者という感情から取材を控え、少数派である欧米系島民にばかり目を向けてしまったのであろうか。

小笠原に現在住んでいる旧島民の言語は、当時とはまた大きく異なっている。平山氏調査時は移住以来の欧米系島民と日本からの移民の共存が続いていた時代である。八丈方言の伝統と、欧米系島民の日本語(どのようなものかは不明)の影響によって、何らかの変化を被ったものであっただろう。津田氏調査時(10年前)は、平山氏調査時との間に強制疎開による他の方言との接触(おもに東京・埼玉へ疎開したので、東京方言・埼玉方言、または共通語と接触した)が起きている。また、1984年にNHK衛星放送が開始され、1996年には地上波放送が開始された。津田、関口の調査時はNHKの衛星放送開始直後で、テレビの影響が小笠原では出始めた頃だと考えられる。地上波放送も開始された今、今後テレビの影響によって急速に共通語化が進むと考えられる[2]。いや、むしろ現在の旧島民の言語はほとんど共通語化してしまっていると言っても過言ではない。旧島民同士、または老年層同士で会話するときに、かつての「島の言葉」が出るという程度のようである。

 

3. 2. 新島民の日本語

新島民としては、@疎開時に疎開先で生まれてそこの方言を習得した後、家族と一緒に小笠原へ戻った者、A返還後小笠原で生まれた者、B返還後島に渡り、新たに島民になった者、の3者がある。彼らの言語についての記述は、関口 (1988) が小中学生について調査している。共通語化は激しいが、八丈島方言の語彙や欧米系の言語習慣を残している点も観察された。ここで、彼らの問題点は彼らの人口が少ないことである。少子化が叫ばれて久しいが、それ以上に若年層が内地へ流出する過疎化が激しいと思われる。恐らく返還後小笠原ネイティブは高校生以下に限られ、20代のネイティブ話者はごく限られるだろう。

また、地上波放送によるテレビの影響は新島民にも見られるであろう。急速に共通語化が進むと同時に、共通語使用の意識も高まり、生活も内地となんら変わらなくなっていくであろう。

 

3. 3. 欧米系島民の日本語

1830年の初の移民の定住以前には、言語生活というものはどのような言語によるものもない。

その初の定住後、欧米系移民のみの社会があった時代には、英語とカナカ語が共存していた(津田1988)。当時の言語状況を知る貴重な資料「小友船漂流記」から語彙を拾うと、それらはすべて英語または太平洋諸島の言語で綴ることができる。そこから考えて、当時のコロニーのリーダーが使う英語が共通語として使われ、太平洋諸島の諸言語が家庭内では使われていたと推測される。「小友船漂流記」に記載されている語彙の中で、現代日本語に残るものはない。しかしそれ以外に、動物植物名、地名、料理名などに太平洋諸言語が残っているとされる(延島1997)。

欧米系島民が日本語に接し、日本語を使い始めるのは正式な日本領となってからである。政府は欧米系島民に対して日本語だけでなく、英語の教育も重視していた。しかし、1882年の正式な帰化以来、世代を経るごとに英語は聞かれなくなり、日本語が広まっていった。そして、1940年には欧米系島民は強制的に日本語名に改名させられ、小笠原でも英語が敵性語とみなされ、英語が制度上完全に排除された(清水1994)。

戦後米軍占領下で生まれた層はラドフォード提督小中学校で英語教育を受けたが、急に英語だけの生活が出来るようになるわけではなく、学校では英語、家では日本語というように使い分けていた(清水1994)。ラドフォード提督小中学校を卒業後はグアムのハイスクールへ進学したことで、会話では英語と日本語が混ざり、語り口は英語であった(田村1968)。

返還前後の小笠原では、今度は日本語が急ぎ教育された。その日本語は次のような特徴があった。@長い間の英語生活のために、数や季節の言葉・抽象的な観念は日本語ではわからず英語になる。A狭い社会で、新聞・雑誌・テレビというマスメディアがないために語彙が少ない。B子供たちの言葉で、英語・日本語とも共通して、丁寧なことば、敬語を知らない。C男女の言葉の使い分けがない。(田村1968、有馬1975

現在の欧米系島民の年齢と性別による日本語と英語の流暢さの調査[3](表2)によると、どの世代も日本語が全くできない世代はなく、30-40代の男女だけが流暢さは「marginal」という結果になっている。

2 欧米系島民の年齢による日本語の流暢さ (1986) Arima 1990213改(原文は英語))

年齢

20未満

20-30

30-40

40-50

50-60

60-70

70以上

性別

Fluency

±

±

        fluent

        poor or don’t speak

±        marginal

 

この3040代という世代は、米軍が島を去ったときに1222歳という年齢で、米海軍人の子弟と一緒に学校に通っていたため、学校では日本語の使用を禁止されていた。従って、日本語を話すには何の問題も無いように見えても、書くことについては学校で教わることが全く無かった。

すべての世代の欧米系が日本語を流暢に使うとはいえ、次のような特徴を指摘できる。@英語教育の影響で、日本語固有の挨拶の定型句の使用があまり見られず、対称詞・呼びかけ語に独自の形が発達している。A会話は主に日本語で行われ、英語を話す者と会話するとき以外は英語を使わない。日本語の文に英語の語彙を英語の発音のまま挿入することもある。(津田1988Arima 1990

返還前後の様子と現在を比較すると、挨拶・呼び掛けが特徴的であること、日本語の文に英語が混じることについては現在も見られる。特に数字などの抽象的な概念において英語が混ざることも報告されている。一方、語彙の少なさは現在では報告されていない。日本の社会に慣れ親しむにつれて習得し、現在では欧米系島民も何の問題も無くなっているのであろう。丁寧語・敬語・男女の言葉の使い分けについては、今後の研究を待つ段階である。

 

3. 4. まとめ・今後への展望

旧島民の現在の日本語については、八丈島方言の残存と共通語・欧米系島民の言語との接触が問題となる。彼らは現在では変種の使い分けが進んでいる。大まかに言えば、戦前、島に住んでいた者(旧島民、欧米系)と話すときはその当時からの方言。それ以外(新島民)と話すときは共通語である。疎開時および戦後の新島民の移入による共通語との接触によって昔の特徴はかなり後退していると言えるであろう。

新島民の場合は、八丈島方言との接触が極度に少なくなっており、共通語との接触・使用がほとんどを占めていることが指摘できる。返還後に小笠原で生活を始めた彼らは新しい方言を形成する主構成者となるのである。ただ、どこからの移住者が多いのか、どの年齢層にどれくらい移住者がいるのか等は不明である。また、新島民の特に若年層が新方言を持っているのかどうかという興味深い問題もあるが、それもこれからの研究を待つという状態である。

一方、関口 (1988) では小中学校の児童に八丈島方言の残存が確認された。とはいえここにも注意すべき点はある。学童を構成する成員がどのような言語文化的背景を持っているかである。昨年の筆者の訪問では、次のようなことが聞かれた。「ここ数年の児童は公務員の子弟がほとんどで、昔からの家の子供は以前に比べ少ない。」旧島民の血を引く者たちがある年代に集中してしまっているのである。例えば現在10歳前後の子供の親の世代3040歳代には地元の人が少なく、公務員など島外からの人がほとんどだということである。従って、昔からの小笠原の言葉を聞く可能性がある子供たちもある年代に集中してしまう。かつての小笠原のことばを知る者がますます少数派になり、共通語の広がりが加速されることになるのであろう。

欧米系島民の場合は、祖先の言語とくに英語と日本語との干渉が問題とされている。既に述べたように接触についての考察は別稿に譲るが、彼らの日本語については、ハワイの日系人を比較の対象に出すことが出来よう。

ハワイの一世・二世の日本語には次のような特徴がある。@敬語や女性語など、伝達内容にかかわらない部分を除去する。A英語からの借用語が最も多い。ただしその多くは日系人の間で用いられる(渋谷1991)。B文そのものが英語になったり日本語になったりする。C電話番号、番地、西暦年号といった数字が英語で数えられる(井上1971)。D名称・呼称・親族用語、時間、数量といった概念を表すのに、借用語として英語表現を用いる(比嘉1976)。こういった借用の仕方はブラジルやアルゼンチンの日系人が用いる日本語と共通の特徴であるが、なぜそうなのかはわかっていない(渋谷1991)。

小笠原の欧米系島民の日本語が英語から単語を借用しているのか、それとも二言語使用 (bilingual) なのか、ここで判断は控える。しかし上記のように、ハワイの日系人の日本語と小笠原の旧島民の日本語にさまざまな共通の現象が見られるのは示唆的である。小笠原の欧米系島民にとっては、このような言語使用をすることで「社会所属意識」を持ち、「欧米系島民」という社会集団のまとまりを意識できると言えるだろう。彼らの言語使用は、移住による言語変容を考察する上で、ハワイやブラジルの日系人と同様、何らかの示唆を与えるものとなるだろう。

 

4. おわりに

本稿では、まず先行研究および文献から島の歴史を簡単に振り返った。その後、小笠原において使われる日本語に焦点をしぼり、その歴史を話者別に振り返った。

現在の小笠原でどの話者も使っているのは、新島民の持ち込んだ「共通語」である。筆者が行った調査のインフォーマント(主に旧島民)も普段は「共通語と同じ言葉を使っている」という方言意識を持っていた。しかし、いざ調査に臨んで内省したり、昔の状況を思い出してもらうと、「小笠原独自の言葉」の存在に気付いたようだった。「小笠原の言葉は共通語と決して同じではない」と言える。現に、現在も独特な語彙は欧米系や旧島民に残っているが、今回は紙幅の関係上別の機会に譲る。

とはいうものの、「小笠原の言葉は共通語と決して同じではない」という傾向は旧島民と欧米系に限られることである。年代的にも歴史的にも断絶がある新島民にはむしろ当てはまらないと考えるべきである。関口 (1988) では新島民にも若干の方言が残存していることが確認されたが、現在の小中学生や、20代から30代の「返還後」世代がどのような方言を使用しているのかは大変興味あるところである。

返還後30年が経ち、いよいよ小笠原の新しい方言がまさにこれから生まれてくるであろう。旧島民や欧米系によって使われていた方言についてのこれまでの研究と同様に、これから生まれ来る新しい方言についても、研究の対象としてそれをしっかりと見つめていく必要があろう。今後の研究の発展への期待、ならびに小笠原の発展への期待を込めて、この論文を結びたい。

 

参考文献

有馬敏行 (1975)「小笠原での日本語教育」『言語生活』28135-41

Arima, Midori (1990) An Ethnographic and Historical Study of Ogasawara/The Bonin Islands, Japan. Dissertation for Ph.D. of Stanford University.

井上史雄 (1971)「ハワイ日系人の日本語と英語」『言語生活』23653-61

井上史雄・篠崎晃一・小林隆・大西拓一郎編 (1995)『日本列島方言叢書F関東方言考B東京都』ゆまに書房

小野幹雄 (1994)『孤島の生物たち』岩波新書

小野米一 (1993)『北海道方言の研究』学芸図書

倉田洋二編 (1984)『寫真帳小笠原 発見から戦前まで』アボック社

渋谷勝己 (1991)「言語習得と方言」徳川宗賢・真田信治編『新・方言学を学ぶ人のために』:132-151 世界思想社

清水理恵子 (1994)『小笠原欧米系島民言語生活研究』共立女子大学文芸学部卒業論文

すなふきん編集部編 (1997)『南の島のブラブラ』すなふきん

関口やよい (1988)「小笠原諸島住民の言語使用に関するパイロットスタディー」Sophia Linguistica 26151-162

田中弘之 (1997)『幕末の小笠原』中公新書

田村紀雄 (1968)「小笠原の文化とことば」『言語生活』20770-74

津田 葵 (1988)「小笠原における言語変化と文化変容」 Sophia Linguistica 23/24277-285

延島冬生 (1997)「小笠原諸島先住移民の言葉−小友船漂流記より−」『太平洋学会誌』193/477-80 太平洋学会

比嘉正範 (1974)「ハワイの日本語の社会言語学的研究」『学術月報』261129-35 日本学術振興会

----- (1976) 「日本語と日本人社会」『岩波講座日本語1 日本語と国語学』:99-138岩波書店

平山輝男 (1941)「豆南諸島のアクセントとその境界線」『音声学協会会報』6768号(井上他編 (1995)536-532に再録)

----- (1965)『伊豆諸島方言の研究』明治書院

船越眞樹 (1992)「開拓と自然破壊の歴史」小笠原自然環境研究会編『ブルーガイド小笠原の自然』:38-45 古今書院

馬瀬良雄 (1981)「言語形成に及ぼすテレビおよび都市の言語の影響」『国語学』1251-19

 



[1] 北硫黄島では先史時代にマリアナ系先住民が定住したことを示す遺跡が近年発見された。(船越1992

[2] テレビ等マスメディアの影響を調査したものに馬瀬(1981)があるが、実際に言語のどの分野にどのように影響があるかを実証するのは難しいようだ。馬瀬(1981)ではアクセントに対する影響を調査したが、現在共通語とほとんど同じである小笠原でテレビの影響を調べようとしても、語彙的な面に限られるであろう。ただ、今回面接した老年層はテレビをよく視聴しており、民法放送の影響は必ずなんらかの形であるだろう。

[3] この報告は調査方法が不明で、「流暢さ」の定義が不足しているので、どんな能力をもって「流暢」と言っているのかはわからない。しかし幅広い年齢層の両言語の流暢さについて調査している点では、初の網羅的なものであり評価できる。