父島の言語教育環境に関する試論

 

長谷川佳男(東京都立小笠原高等学校)

 

0. 前文

愚かな政治が差別と迫害をもたらしてきたおかげで、小笠原の言語を記述することが困難となったのは何人かの研究者の既に吐露するところであり、その点につき異論を差し挟むつもりはない。しかし直接島の教育に携わる者、とくに言語教育に携わる人間としてそれは逃げ場のない課題である。では生徒諸君の言語教育環境をどう把握したらよかろうか?既に返還前からの在島者について犬飼氏(犬飼隆、橋本建1969)や帰国子女教育という観点から西野氏 (1988) の議論があるが、現場に携わる一人としてこれらを整理し、いささかでも未来に開かれたありうべき言語教育環境を展望したい。

なおフィールドであるが、父島に特定したい。行政区画としての小笠原村はあまりに広すぎるし、もう一つの大きな居留地母島の生活は地理的文化的に決して近くないからである。[1]

ここでは言語教育環境を、学校教育のみでなく家庭や社会にまで拡張して考える。そして地理風土的なものだけでなく、人的環境を切り口としたいと考える。なぜならこれほど人的環境の変転のめまぐるしい社会は稀だからである。

 

1. 言語教育環境のモデル

1960年代以降の構造主義やその後の思想・人間理解の進展で言語観もその大きなパラダイム転換が求められた。今や、ある種力ある方言に特権を認めそれへの適合不適合で言語価値を判断する時代ではない。特定地域の言語について正当に評価し、その文化的遺産を子供たちに継承する責務を大人たちは負っており、その上で他の言語文化と大いに接触してさらに地域の言語的豊饒を追求する視点も重要である。

しかしそうした理念と現実との乖離はどの地域にもそれなりに存在するように、ここ父島でもときにそれを強く感じ困難を意識する。島経済は内地依存型で島内で循環しておらず、子供たちの多くは成長に伴い第1次産業への魅力の欠如により、あるいは安定雇用を求め本土へと生活の場を移してしまう。とくに高等教育においては本土生活への適応力育成を強く求められ、結果地域の特殊性について人的視点を失いがちとなる。また初等期からの教育機関の人的構成(教員)は学齢期をすべて本土で過ごした人間で占められている。こうした現状は果たして島の言語教育環境の一部として相応しいのだろうか。彼らの赴任期間は地域文化を解するには短すぎる。

即ちすくなくともまず最新の言語観に精通し島の言語環境を正当に理解しようとし続ける人的環境形成に努力したい。その地道で長期間見通した活動を経て、子供たちが未来に開かれた言語観とそれに裏付けられた島の文化・言語・人間に対する正しい認識とプライドをもち、そしてその子供たちが次代の島の言語教育を保護者としてだけでなく学校においても担う機関(例えば教員)となってほしい。以下そんな視座を稿を起こす動機とする。

 

2. 島ことば

では島の言語について現在どのように島内で認識されているだろうか。「島ことば」という語彙は確かに現在でもこの島に存在するが、それほど耳にできる語彙でもなさそうである。当今島の外からやってきたばかりの人間にはとくにアクセントの特徴など耳にする機会は少ないらしい。しかし暫くすると島独特の表現語彙が固有名詞(関口やよい 1988)に、例えば本州、東京を「内地」と殊更呼ぶように、当たり前のように存在するのには気づく。そんな申しようで判るように、今島内で通用する独自な言語は確かに存在するけれども、それは一様でなく担い手に複雑な偏りがあり、各々を担う方々は決して各々人口的に優勢でなく、彼らは相手に合わせるかたちで言語のいくつかを場面により使い分け、それぞれスイッチしているのである。

さて共時的観点から通時的観点に目を転ずれば、更にそれらは複雑な様相を呈する。しかも人間活動の地理的空間は決して狭くない。時空が言語生活を象るのである。時、場、人間の三すくみの複雑を配慮するゆとりなく、父島の言語活動に積極的に関わるのは疑問である。

周知のように父島の言語生活を複雑にしたのは最終的には人間集団の出入りである。現在行政は戦後補償の点から住民を在来島民、旧島民、新島民と言う具合に三分するが、それぞれ過去に担う文化に大きな相違をもつのが特徴である。また父島の言語研究史上、カナカ語、英語、八丈方言に関心を寄せても標準語や他の方言への関心は希薄である。しかしそれは現在の父島の言語生活を論じる場合、人的活動の点から言って決して無視できぬ存在である。

現在の父島は行政区分の語るように、長く住む人たちとそうでない集団の違いが最も顕著に生活上意識されている。短期で交代する集団の最たるものが公務員、更に臨時雇用の短期滞在者である。とくに前者は、本土から隔離された地理的条件から各職種とりそろえる必要などのため、かなりの一定数が保障され本土から派遣されている。行政力あるポストに配置されるのも彼らの一部なので島の生活文化全般に与える影響力は小さくない。例えばこれまで語彙数を頭打ちにしていたとされるマスメディアの欠如(田村紀雄1968)は、行政力によるテレビの普及などにより揺さぶりをかけられているのは見逃せない。島の言語生活は彼らにより今後更に流動化に拍車がかかるものと予想される。

しかしながら島に長く住む人たちの文化には厳然たるものがあり、彼らが様々な生活場面でプライオリティーを主張するのも事実である。そんな渦中に島で生まれ育つ子供たちの言語生活に心を尽くすのは当然であり、また「島ことば」が一つの文化として科学的に記述され正当な評価を受け、かつその豊饒が保障され、そして更にすすんで他文化へ発信できるようにしてゆく必要がある。

 

3. 現在の父島、教育環境一般

子供の教育環境は当然の事ながら家族に始まり、聴解力発話力それらの骨格たる思想や発想は主にそこで陶冶されるので、人間活動とくに子供の生活は世帯単位で把握するのが適当であろうが、生まれながらにこの島で育つ子の属する世帯の中で交わされるコミュニケーションの媒体たる言語は一様でない。そんななかで聴解、発話能力は育まれている。ところが読解力筆記力を担う学校教育で様相は一変する。前述のように教育に当たる人間は本土から短期に派遣されるものがほとんどであり、いきおい教師は彼らだけの閉鎖的コミュニティーを作りがちとなり、「島ことば」等にアイデンティティを殆ど認めえずに生活することになる。一部の文化は別としてとくに言語について学校教育では初等段階から殆ど省みられず、また島民の世代交代ごとに独自性は消失する方向にある、というのが島に住む方々を含めた一般的見解のようだ。一方子供たちは親の世代から「島ことば」を確かに継承してはいるのである。

子供たちはたとえ「島ことば」を用いても、当然教員に対しスイッチを働かせ教室で「島ことば」が生きることは難しい。否、むしろ教員にとって一部の「島ことば」は対立として意識され、無配慮に排除される運命にすらある。[2]

 

4. 言語教育環境の変遷の概観

4. 1. 前期ジャパナイズ

この島の言語文化は周知のようにまったく行政政治力に振り回され続けている。とくに「欧米系島民の歴史は正に国家による犠牲者の歴史」(西野節男1988)と評する方もおられるほどであり、それに賛意を表する。

石器を用いたほどの過去は別として、捕鯨船などでやってきた最初の入植者、先住者は日本人でない。さまざまな出身地をもち、最初から多様な言語生活を形成したと考えられる。[3]主なものはカナカ語と英語であったらしい。[4]

そんな中から「島ことば」の言語の枠組みとしては英語がプライオリティーを獲得していったようであるが、言語文化にサンドイッチ諸島の影響が強くあらわれていたのは注目したい(延島冬生 1994,倉田洋二1983:14)。「島ことば」の英語の第一世代の誕生である。しかし日本の領有が確定し日本人の本格的入植が始まると日本語、とくにその中心を占めた八丈島出身の方々つまり八丈島の方言[5]と文化を担う集団が徐々に数を増しながら多数を占めるようになる。先住系住民は短期間に日本に帰化し(1882年に完了)、当初は独特の文化生活を保守していたものの、それぞれの世帯は血を交えながらあとの世代を形成し、それぞれの独自性を互いに保持しながら、文化の垣根が徐々に取り払われ独特な文化を形成したと考えられる。この過程を「同化」と捉える見方もある(山方石之助 1906)が、一方今言われる「島ことば」の日本語はこの期にまず成立したと考えて良さそうである。多数の八丈方言と少数であるが「島ことば」の英語とが互いに交渉しながら、枠組みとしては八丈方言の色濃い日本語の発想に在来の外来文化がとけ込むかたちであったと考えられる。津田氏の指摘する日本語構文に英語語彙をその発音のまま挿入して話す(津田葵 1998)言語の原型はこの期を通じて成立したのではないだろうか。この時からすでにこの相異なる言語をスイッチしながらコミュニケーションを交わし、独特な言語環境を形成したと推定される。明治政府は成人男女まで夜間に国語と英語の学習のクラスを設け(東京都小笠原対策本部 1965)、また日曜学校で日本人の子供たちを交えて英語教育が行われた中で、先住系の方々は年寄りはほぼすべて英語で生活し、家の中は英語を運用するものの、第3世代の子供たちになると学校では日本語、町では「島ことば」の日本語で生活するという環境が形成された(青野正男1978:143)。[6]

時が進み大正に入って本土から農漁業に従事する数多くの移民の流入に拍車がかかった。第一次大戦後、父島は太平洋南方に進出した日本の足がかりとなり1921年には要塞地帯法がしかれて日本政府の行政力は更に強化され、1910年代では2000人そこそこで推移した島の人口も、1940年代には4300名になる(東京都総務局行政部地方課1967)。先住系の方と純日本人との婚姻関係も増加した。いきおい「島ことば」と他の言語との接触影響、「島ことば」の変化は少なくなかったろうと思われる。加えて第二次大戦を控えて1938年には小学生のスケッチすら禁止となり、文化的抑圧、ジャパナイズの強い波が押し寄せた。居住地域を奥村(ヤンキータウンと呼ばれた)に限定されただけでなく、カタカナの西洋名を漢字の日本名に変えさせられた、文化的言語的隔離とその抹殺がこの期の特色である。今島に残る最も古い世代はその当たりの言語環境で育った方々である。学校教育においては、読み書きのみならず話す聞くについても標準化されただけでなく排外的な性質を人工的に付与された日本語の強要を想定できそうである。とくに先住系の方々の言語環境は深刻なもので、大転換を余儀なくされたはずである。大戦の激化により本土からの日本軍人が島にあふれ、軍属として残った者を除き、島育ちの人間は本土へ強制的に疎開せざるをえなかった時にいたり、島のジャパナイズは究極に達したと言えようか。

 

4. 2. アメリカナイズ

ところが敗戦に伴い本土では大幅な教育改革、いわゆる墨塗り教科書に始まる教育改革が嵐のように子供たちの言語環境を変えていった。アメリカナイズである。一方父島はアメリカの所属、やがて軍政下に入り、それがまた時を追って強まる運命を辿る。そこでとられた文化政策は本土とは比べものにならぬ徹底的なアメリカナイズであった。敗戦後日本軍人はもとより残留した島民も一度本土へ帰された。即刻帰島しえた(その背景に戦時中疎開先で人種的差別を受けた先住者の方々への保護の発想があった)のは先住者の祖先をもつ35世帯129人であるが、配偶者には1940年代以降増加した純日本人22人も含まれる(東京都小笠原対策本部1965)。世代的には「島ことば」を自在にあやつる方々から、日本語の影響を強く受けた「島ことば」を担う方々、そして敗戦前の徹底的なジャパナイズの洗礼を浴びせられた方々も少なくなかったと考える。そんな家庭環境を持つ子供たちが確かにいたのである。世帯が祖先から英語でコミュニケーションする力を継承していたとはいえ、決して一様に捉えられぬ容易ならざる文化変動である。日本から施政権が離れている内に本土から5人が嫁入りで島に渡り、1965年までに約72人が新たに島で出生しており、逆に本土に戻ったのは3世帯11人に留まる(東京都小笠原対策本部1965)。

帰島当初は公的教育機関はなく1953年になり個人による教育がようやく始まったので、当時学齢期に当たった子供たちの言語環境には学校の影が薄い。当然日本語の読み書きを習う場は限られた。公式のコミュニケーションでは英語が徹底され、大人たちの社会生活はその渦中に放り込まれ、子供たちも適応を求められた。もちろん彼らだけの間や家庭内では「島ことば」の日本語が通用していたけれど、子供の将来を考えればアメリカナイズが教育において徐々にではあるが強く意識されていった。ちなみに「島ことば」と言っても150人に満たない人口でしかも英語的文化を断続的に継承した先住系の世帯だけのものであり、加えて一世代ほどであるが世代交代した「島ことば」の日本語が第一次大戦前のそれと同じものであり続けたとは考えにくい。二次環境といっても本土の中波ラジオくらいで本土の日本人の直話は避難してきた漁師の乱暴な言葉、これが子供達に悪影響を与えたという指摘すらある(田村紀雄1968)。いずれにせよこれら先住系の方々の言語環境が、丁度第一次大戦前のそれと全く逆転した状況となったのは驚くべきことである。

現在この島の言語については日本へ返還直後のそれに着目しがちであるけれど、冷静に考えればこの時こそ最もドラスチックな変化期であり、教育制度の不在や移行に伴い子供たちの苦労は計り知れないものであっただろうことは、説明するに及ばない。

1951年サンフランシスコ条約締結後父島は完全なアメリカ軍政下となり、駐留することになった米軍家族の子供のために1956年に7年制初等教育機関ラドフォード提督小学校が設けられ、当然アメリカナイズされた教育が始まった。どの時点から学校教育を受けられたかも、現代の「島ことば」を考える場合看過できぬけれど(後述)、ともかく言語を含め文化様式すべてをアメリカナイズする行政の力が大人だけでなく子供たちにも向けられたのは事実である。生後家庭内で日本語の「島ことば」を耳にし話し、学校へ上がるや徹底したアメリカナイズのもと話す聞くだけでなく英語で書き読む学力をトレーニングされる。日本的文化言語環境は学校内で徹底的に排除された。更に高等教育を望む場合は本土のアメリカンスクールへ行った一部を除きグアム島、大学にはアメリカ本土へと向かった。

留学先での彼らの評価は低くなかった(犬飼隆1969:151)が、それには相当の英語による学習努力を要したものと想像されるし、更にグアム方言[の英語]との言語接触も父島の言語環境にとって見逃せないファクターとなった。純日本人が英語で困る(田村紀雄1968)だけでなく、アメリカの高等教育を受けた子と純日本人の母親の日常会話に困難を生じさえした(清水理恵子 無刊記)。教員はアメリカ本土から派遣された(小笠原村立小中学校1979)。[7]ただしここでアメリカナイズと単純に言っても例えば同時代的なアメリカ公民権運動と父島の教育環境の思想がどのように関わったかなど単なる数字データには現れない課題も少なくなさそうである。

コミュニティー形成にも影響は少なくなかったようで、先住系の男性の日本女性との婚姻は続くものの、女性は1/3の割合で島以外のヨーロッパ系男子と婚姻関係を結んでいる。その環境のもとで子供たちは自分はアメリカ人だという意識を持ち、アメリカの市民権を得るためベトナム戦争に従軍するもの、アメリカ兵との結婚を望むものがでるほどであった。また1966年には米軍人口は13世帯20名で(東京都総務局行政部地方課1967)、彼らとの言語接触も見逃せまい。子供たちは家庭内では敗戦前から継承ししつつ独自な変化をとげた日本語の「島ことば」(後述)を話し聞きながら、フォーマルに聞く話すはもちろん書く読むは英語という言語生活を身につけたわけである。彼らは小笠原の日本返還に反対し代表をワシントンに送ったが、言語教育環境の点からも十分納得できる行動であったのである。

一方強制疎開から帰島を認められなかった方々の生活は困窮を極めた。親類縁者を頼り、日本本土にいくつかの特定地域もあるが分散して移り住み、島から持ち出せる財産も限られ、戦後の混乱した状況へ一気に放り込まれたのである。しかしそのうち1200人ほど八丈島に戻った方々がいることは注目される(犬飼隆1969:97)。彼らの担った島の文化的財産、子供たちの言語環境についてほとんど記述されていないが、世帯の中で引き継がれ、他の方言に晒される機会が爆発的に増えたことは想像に難くない。当然英語的要素の急速な衰退は免れなかったろう。但し日本全体の教育制度がアメリカナイズされた点は、返還後の小笠原の僅かながらの明るい材料となったし、八丈方言の生活に戻った世帯は再び八丈島の方言と文化の強い影響下にはいり、彼らの「島ことば」も再び八丈方言の影響を強く受けるプロセスを経たと考えて良さそうな点、注意したい。

 

5. いわゆる「小笠原返還」

敗戦後から返還までの期間は人間の生涯サイクルで言えば約一世代の幅になり、決して短くはない。先に帰島していた先住系住民と新たに帰郷する旧島民の間に所有権を争うなど決して好ましい再会とはならなかったのは、まして不運と申してよかろう。子供たちにしてみれば、無為に行政に振り回されただけで、容易にその運命を受け入れる心境になれなかったのは当然である。ここで日本の行政組織のとった施策は再びジャパナイズだったと言ってよい(田村紀雄1968)。先住民のプライオリティー尊重を重視する昨今の国際理解などもちろん考え及ぶべくもない。

本土から来た子供たちは似た教育システムを引き継いだけれども、父島にいた子供たちにとっては自分の生活を根底から覆す大変動であった。それには敗戦後父島に戻って学齢期を過ごした世代の方々も含まれる。学齢期にラドフォードスクールがまだできていなかったり途中から入学した世代の方々の思いたるや、想像を絶するものであったはずである。

 

6. 返還期先住系住民の言語意識

徹底的アメリカナイズが約一世代に限られそのなかで学校があったのは後半15年に留まった上にその前が徹底的ジャパナイズの時代だった、という集団に対してとった返還後の日本の施策は、再び日本的制度に組み込むだけだった。当時赴任した日本の公務員の証言にはそれがありありとうかびあがる。[8]その橋渡しを担おうとしたのが教育の場であった。

返還前に先住系島民の代表組織「五人委員会」、米軍当局、日本政府で教育と雇用に関し切実なやりとりがなされた。その際先住系住民の意見が犬飼氏も認めるように見通しと骨格を明確に持ったものだったのは、注目に値する(犬飼隆1969:39)。子供や若者の現状とその日本社会への適応を最も見通した要望であったと考えたい。この要望がおおよそ日本政府に受け止められたという評価はある(小笠原村立小中学校1979:70)が、西野氏が指摘したように、今日的な地域的文化的豊かさを育もうとする発想やゆとりはごく一部を除き感じられない(西野節男 1988)。

その成果はともかくとして彼らが行った先住系住民に関する言語意識調査で興味深い統計が3つある。一つはよく知られる犬飼氏がグアム島のハイスクールに通う父島出身の生徒たちにおこなったものであり(犬飼隆1969:153-154)、もう一つは小中学校10年記念誌に掲載された統計であり(小笠原村立小中学校1979:77-78)、更に一つは返還後の先住民の雇用の安定を図るために18才以上の方々対象におこなわれた社会調査である(東京都総務局 無刊記)。最後のものはこの分野では用いられていないもので、一見無関係なように見えるが、言語運用が雇用に強く関係することあるいは成人講座の設置を考えて、日本語の会話、読む、書くの3つの能力をファクターに入れており、先住系すべての方々を対象としてはいないものの、以下この調査を統合しつつその言語生活を解釈するのはそれなりに意義があるものと考える。

まず日本語について文字言語、口頭言語ともに問題なしとする方々が40%はおり、ジェンダーでは女性が総数に比べ高い割合を占めるのが注目され、さらにうち37才以上の被験者がその殆どを占めるのが注目される。例外は20代後半の女性1名にすぎない。これはほぼ敗戦の年前後には丁度旧学制の国民学校を卒業できた1931年以前に生まれた世代と符合する。戦前に日本の初等中等教育を受けえた世代は、返還後自ら日本語で適応できると実感したことになる。37才以上でこれに属さない16名も、うち15名は少なくとも会話では適応できると感じている。

一方36才以下を整理すると3つのファクターのうち読み書きのいずれかあるいは両者に不都合を訴える方が殆どで例外は32才の男性1名である。会話まで困難を感じた19才の1名もこれに含まれる。

さて19624月以降生まれの子供たちは日本の学制に小学校1年から入れたが、逆にラドフォードの歴史を振り返れば中等教育まで9年間すべてそこで過ごせたのは僅か1953生まれあたりの極く限られた学年に所属できた方々に過ぎないのは注意したい。1942年以前生まれではラドフォードの初等中等教育を一切受けられず、即ち19311942年に生まれた先住系世帯の子供たちは学校教育を受ける機会を殆ど与えられなかったことになるのである。返還時2531才の世代に当たる。[9]

話題を英語力とくに文字言語に転ずると、初等中等教育を満足に受けグアム島の高校に行ってアメリカ本土並の運用力を身につけられた世代は極く短く、結果人数も限られ、アメリカの学制に乗り教育を受けられた方々の子供時代の努力は並々ならぬものであったと予想されるのも、注意しなければいけないだろう。にもかかわらず返還後日本の制度に組み込もうとしたのは相当無茶な施策と評せざるを得ない。当時のアメリカの学制から日本のそれへの移行に学齢期の重なった方々のご苦労は改めて記すまでもないであろう。日本語を教えた成人学級とても僅か5年間で幕を下ろしてしまったのである。

 

7. ピジン

この島で通用している英語をことさら「ピジンイングリッシュ」と呼ぶことがあるらしい。中にはそれがこの島特有の英語の方言名のように言われることもあるようだが、それが誤りであることは申すまでもない。さてこの術語には2つのイメージがあるようだ。その一つ、幕末にAサトウが非難したような商業目的に日本人が編み出した「車屋英語」(望月洋子1987:77-79)あるいはマレーシアの中国人社会で行われているそれは、もっとも低くその社会で評価されているようである(真田信治,ダニエル・ロング 1997:98-99)が、それらと現在の「島ことば」の英語は発生動機において明らかに相違するのではないか。

むしろ自らの母国語でありあるいはそれを母語とする社会で生活する必要のため身につけたもので、対峙する日本語との避けることのできなかった言語接触が主な動機として生まれた島の言語の一つと評するべきなのではなかろうか。この言語について残念なのは、本土からやってきた日本人に対しその担い手がその言語で話しかけてくれることは通常まずなく、また歴史の複雑と個人的な差異が小さくないために記述が困難なことであろう。また現在でも外国からの訪問者にはその担い手は英語で話すことがよくあるようだけれども、外国からの訪問者が意識する独自なものはそれほど多くはないらしい。この言語の担い手は言語スイッチについて高度な柔軟性を身につけていると評価したい。問題視すべきはむしろそれを日本人がどう評価してきたかの方にありそうである。発音やヒアリング力つまり口頭言語について高く評価された(田村紀雄1968)ものの、それ以外は芳しいものがない。例えばそれどころか発音についてすら相当厳しい評価を与えたものもあった(小笠原高等学校1979:62)。[10]現在ずば抜けて高い英語力をもっている学齢期の子供は殆どいないといってよいが、単にアメリカの統治下から外れたというだけでなく、返還後の日本人の多くが的確な英語についての評価能力に欠けていた疑念は払拭できない。日本政府は返還後の小笠原の教育に関して諸法規の適用を除外し独自のカリキュラム編成を承認したが、現場ではスペリングや文法などの運用の誤りに言及し、ことさら「島ことば」のうちの英語文化の豊かさを正当に受け止めそれを子供たちに伝え育てていこうとしたのは加藤文彬氏(小笠原小中学校1979:19)のような限られた存在であった印象は否めない。筆者自身もこれらにつき「教育現場から排除すべき変な言葉」と一蹴された辛い経験をもっているのを付言したい。

話しを「島ことば」の日本語に転じよう。5年前に島に来てまず驚いたのは、奉職する高校で生徒から島独自のことばを、固有名詞以外に殆ど耳にできないことであった。返還前夜犬飼氏の耳にした「小笠原語」(犬飼隆1969:158)は10年後には相当変化していて(小笠原小中学校1979:42)もはや今の島の生徒間で通用していないようだ。[11]また現在中学高校で英語力の高い生徒であることと家庭の誰かが英語に堪能であることはほとんど相関関係にない。英語の発音が返還後数年で急に直音化しだしたのを加藤氏は嘆いておられる(小笠原小中学校1979:19)。当今島で表向きに耳にする日本語のアクセントはまったく標準語であり、八丈からの移住者が多く、言語の二次環境に乏しいと聞いていたことからの予想を全く裏切った。就職の面接練習用の敬語表現のペーパーテストをすると苦もなくこなす。先住系世帯に属する生徒で同年代の本土の生徒の標準に比べ標準語での作文力に卓越した者すら存在する。彼らの親の世代は津田氏の指摘するような英語との「混成語」(津田葵 1998)を運用していても、そこで用いる英語や英語式の発音は子供たちにはあまり継承されていないらしい。いわゆる「混成語」はそこに片鱗すらあらわれないのである。

ただししばらく彼らの話を聞き、またとくに作文を見ているうちに閉鎖環境における語彙数の限界(田村紀雄1968)や、不完全構文が気になり出す。しかしこれらとて学力差の問題と区別するのは容易でない。むしろ教員が気をおけずどうにかテコ入れしようとするのが待遇表現と言えよう。「島ことば」として現在も残る独自性、注目されるファクターとして待遇表現があり、長幼の序などの上下関係を表さない傾向が指摘されている(津田葵1998,関口やよい1988)。生徒諸君は中学校までで就職の面接試験の答えくらいの待遇表現はこなすようトレーニングされているけれど、日常会話中では本土からきた人間の耳にはどうも器用な運用とは聞こえない。誤用ではなくむしろ殊更待遇表現を用いないのである。そして例えばこうしたところに実は「ピジン」という術語のネガティブな評価がメタファーとして現れる。とくに本土の教育の場では教員と生徒は絶対的な力関係にあり教員が乱暴な言葉で叱責しても生徒は待遇表現を用いて返答するのを求められる、とすれば、小笠原の生徒はすきあらば待遇表現を外し、教員が無防備に乱暴な言葉で叱責すれば同様な乱暴な言葉で答えてしまう。この傾向は単に社会適応性の個人差とは割り切れない。メンタリティには甘えと信頼感とが交錯し、場合によっては矯正も必要となろうが、場合によってそれは信頼関係を壊してしまう。そもそも教員の言語は位相語としてかなり癖を持つものだ。自ら虚勢を張って露骨に生徒を見下す待遇表現を数多く持ち、また彼らはそれを修正する機会に乏しいので彼らの口からは標準語の耳には相当暴力的な発言が飛び出しうる。それは言わば待遇表現の虚の側面である。田村氏はすでにこの島のことばの敬語の欠如に言及し、教師の叱言が島のことばから敬語を欠落させたと厳しい批判を浴びせ、返還当初教員が叱らないスタンスをとったことに言及し評価している(田村紀雄 1968)が、現在の状況はそれにかなり逆行していると評せよう。本土にいずれ生活の場を移すなら、あるいは本土からの顧客を相手に生活するなら標準語の待遇表現を運用できる必要はあろう。しかし島出身の人同士の会話中に期待した待遇表現が現れないからと言って、それが野蛮だとか非文化的だとか相互尊敬心がないとか失礼だとか、というように本土出身の人間が判断すれば誤りの可能性がある。「英語に(敬語が)ない(のがこの島の敬語をだめにした原因)」などと不見識な意見が飛び出しかねない(東京都立小笠原高等学校1974:42)のには、恐怖さえ感じる。

ただし発生論的に興味深いのは、「島ことば」の日本語としてもっとも力を持ったはずの八丈方言は複雑かつ独自な敬語体系を持っているのだけれど、実際の島ことばの日本語はなぜそれを欠く方向で存在するのだろうか、という点である。待遇表現は人間関係と密接であるがゆえに、しかもその解明には戦前の言語史の記述が不可欠となろうから、アプローチは易しくなさそうである。あらぬ誤解を乗り越えるためにも、本土から島に住みに来る人には柔軟な言語見識を持ち続けていただきたいと考える一例である。

 

8. まとめ

今当面の教育環境については返還前後に大変苦労された世代を保護者にもつ子供たちが学齢期を占めるのが特徴である。子供たちが、学力差こそあれ日常的標準語運用に苦労していないのは、御家庭内での子供の言語に対する並々ならぬご配慮あるがゆえと了解すべきである。それは旧態依然とした日本人の標準語意識に島の方々が合わせてくださっていると考えるべきであり、返還時から始まる一方的なジャパナイズの路線となんら変わるものではない。返還30周年にあたり、遅きに失した非を認めつつ、しかし健全かつ新しい言語観に立脚し、保護者の方々だけでなく学校教育の現場も自らの言語観を振り返り、島の独自な文化に大いに心致し、その豊かさを正当に認識するとともに、その豊かさを後代に継承してゆくためにこれまでの教育内容をすべて点検し直す意気込みで鋭意工夫を開始すべきである。

いつの日にかこうした努力を通じて、父島の文化的豊かさとその独自性について島民の方々が自らそのプライドを再構築していただけるようになるのを強く希望して止まない。尚これらの課題について当事者でおられた方々の中には今もご活躍中の方々が少なくない。多くの証言をこれからの子供たちのために是非残していただきたいと切望しつつひとまず筆を置くこととする。

 

参考文献

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犬飼隆、橋本建 (1969.12)『小笠原 南洋の孤島に生きる』日本放送出版協会

小笠原高等学校 (1979.4)『びいでびいで 小笠原高等学校十周年記念誌』

小笠原高等学校 (1974)『びいでびいで 東京都立小笠原高等学校五周年記念誌』

小笠原村立小中学校 (1979.2)『十周年記念誌』

菊池武久 (1994.3.31)「アメリカ施政権下の高校生たちを訪ねて小笠原高等学校の前史の構築のために」『小笠原高等学校研究紀要』第8

木村正文 (1960)「小笠原混血者の配偶選択と人口」『人類学雑誌』67

倉田洋二 (1983.6.17)『写真帳小笠原 発見から戦後まで』アボック社

国立国語研究所 (1950.3)『八丈島の言語調査』

真田信治、ダニエル・ロング (1997.5.15)『社会言語学図集』秋山書店

清水理恵子(無刊記)『小笠原欧米系島民言語生活研究』小笠原教育委員会蔵

関口やよい (1988)「小笠原諸島住民の言語使用に関するパイロットスタディー」Sophia Linguistica 26

田中弘之 (1997.10.15)『幕末の小笠原』中公新書

田村紀雄 (1968.12)「小笠原の文化とことば」『言語生活』207、筑摩書房

津田葵 (1998)「小笠原における言語変化と文化変容」 Sophia Linguistica 23,24

東京総務局(無刊記)「父島に於ける就職希望者一覧表」東京都公文書館蔵

東京都小笠原対策本部 (1965.9)『小笠原墓参実施報告書』

東京都総務局行政部地方課 (1967.6)『小笠原諸島概況』

西野節男 (1988.3.13)「小笠原の返還と島民教育の変化 「帰国」子女教育の一つの事例として」『国際教育研究』 8 東京学芸大学海外子女教育センター国際教育研究室

延島冬生 (1994.3)「小笠原諸島母島列島における先住移民関係の地名」『地名と風土、日本地名研究所紀要』第1

長谷川肇 (1998.3.31)「小笠原勤務余聞(再録)」『小笠原高等学校研究紀要』第12

望月洋子 (1987.4.20)『ヘボンの生涯と日本語』新潮選書

山方石之助 (1906)『小笠原島誌』東陽堂

 



[1] 母島の言語については関口やよい(1988)と延島冬生(1994)を参照。

[2] 本稿の「7. ピジン」参照。

[3] なお彼ら先住者が近年までどのようにコミュニティーを形成していったかは木村正文(1960)に詳しいので以下これによるが、東京都小笠原対策本部(1965)や東京都総務局行政部地方課(1967)の文献も参考になる。

[4] 先住者の言語の記録としては倉田洋二(1983:14)参照。また田中弘之(1997)は太平洋諸島移民も含め初期コミュニティーのありようをよく描写し参考となる。

[5] 八丈島方言については国立国語研究所(1950)による。

[6] 青野正男(1978:143)、これを大正初期の状況とする清水理恵子(無刊記)に概ね賛意を表したい。

[7] 校長は日本語を理解したという記述はある。(小笠原村立小中学校1979

[8] 例えば、長谷川肇(1998)などに興味深い証言がある。

[9] ラドフォード提督小学校については、菊池武久(1994)が参考となる。

[10] 小笠原高等学校(1979:62)参照。更にここには教員がブリティッシュ英語の発音で通し、グアム米軍の英語の発音を必ずしもよいものではないと生徒に指導したという記述がある。

[11] 小笠原小中学校(1979:42)に「家では日本語でしたよ。でも今話している日本語と違う。」とあるのによる。