小笠原島の話

 

著者 中村留二

年代 1914

初出 『郷土研究』26

 

 小笠原島への船路は四日かかる。其中一日は八丈へ寄る。有名な黒潮海流は八丈より手前で、誠に乗切るのに骨の折れる場処、郵船会社の船長さんにはよき鍛練所である。船便はバナナのある季節は月に二度、其他は月に一度である。

 総面積は父島母島兄島弟島姉妹嫁聟等の家族全員を合せて僅かに六平方里、而も列島の中、父母と南の硫黄島とを除く外は、今以て無人島である。岩山の上に些しく草のある位の所が多いから、どうしても民居が起らぬのである。此島文禄年中に信州深志の人小笠原貞頼が官許を受けて探検し、島の名は之に基いたと云ふことになって居るが、単純なる伝説と云ふに過ぎぬらしく、古来往復した人はあったらうが明かな記録は無い。近世に及んでの最初の居住者は、奥州の沿海所謂金華山沖の辺まで臘虎を捕りに来たで外国人あった。天保初年の頃の事である。彼等は臘虎猟の帰りに小笠原島へ寄り、今の二見港に入ってゆるりと休養し、それでも猶疲労して居る者は上陸して小屋を掛け、次の猟季まで此島に越年した。此徒の中には来がけにマリアナ群島からカナカの女など連れて来て共棲した者もあった。それが第一期の島人であつて、其子孫は今も現に父島の奥村には住んで居る。彼等が壮丁は相変らず傭はれて北海の密猟船に乗込むので、昨年米国の官憲に捕へられて獄に入った日本人某など云ふのも実は此連中である。

 日本の政府が始めて此島に手を着けたのは文久二年頃の事である。米使彼理は浦賀に入港する前先づ琉球より小笠原に廻航し、よほど此辺の地理には通じて居た。幕府も大に之に啓発せられて、文久二年には始めて奉行を送り、我領土であることを宣言した。尤も其以前にも外国人が持って来て立てた銅製の標柱があった。今度の大正博覧会の小笠原館に出陳せられて居る。幕府が此島に注意したのも全く此警報に接したからで、伊豆七島から此島に掛けて土民にも鉄砲を持たせて自衛させ全体に防御には手を尽して居った。

 二見港は港の入口に伊勢の二見浦のやうな大小二つの岩があった。(一巻四七一頁参照)此は自ら神の御意であって、日本人の来り住すべく予定せられた地だと云ふ信仰から、斯の如き地名も起ったのである。

 列島は何れも突亢として海に迫った磯山で、渚に沿うて僅かに平地がある。砂糖黍は急傾斜地を畠に拓いて之を栽培する。産物も肥料も皆背負籠を以て運搬し中々の骨折だ。道路にも険岨が多く、念仏坂念仏峠などと云ふ地名が処々にある。民家は何れも山腹の畠の中に散在し、父島の二見、母島の沖港北港などの外は、邑落として群居する者は絶えて無い。港の村には労働者もあるが、畠中の家に住む者は皆自作農である。島には盗が無く甘蔗もバナナも豊富である為に他人の侵害が少なく、隣保相祐くる必要が比較的少ないから、斯して孤立の生活が出来るのである。此等の農家に入って見るに、座敷には八角時計、上り口には立派な茶釜などを懸けたまま、家の者の皆留守なことも稀で無い。家の構造は柱は檳榔樹、屋根はシュロッパ(蒲葵)で葺き、葺き方最も巧である。家は必ず二棟に分れ、一方は拭縁にして休息の処とし他の一棟は土間であって、真中にテーブル傍に炊事場あり、跣足で畠に往来し帰りてはテーブルで飯を食ふ。此等は先住のカナカが遺して置いた便法である。島の者は多くは八丈から来て居る。彼等がカナカの生活方法を真似して便宜を得て居ることは、恰も在満州の日本人が露西亜人の残して往った二重窓ペチカの家屋に於て愉快に冬を過すと同じである。朝鮮などでは温突の不便な方法をも余儀なく学んで居る。台湾在住の内地人はどうしたものかあまり先住民の経験を利用して居らぬ。

 小笠原の子供は常に満腹して居る為か、至って鷹揚な無邪気な生活をして居る。近頃東京市の不良少年を移つして見たが、此亦成績の甚だ宜しいのは、やはり食物の豊かな故であらうかと思ふ。又試に島人に聞て見ても、如何に淋しい山道でも浜でも、幽霊又はお化の出ると云ふ噂は全く無い。歴史が新しく且つ生活が安楽で、悲惨な事跡がとんと無かった為であらう。同じ離島でも沖縄にはヰネン火又はマジ物の話などが、頗る少なくないのである。(六月十九日郷土会席上)