ペルリ提督日本遠征記(抄出)

 

著者 Hawks, Francis L

原題 Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan

年代 1856

訳者 土屋喬雄・玉城肇

 

挿絵

 

 第十章

 

小笠原諸島の位置――同諸島最初の発見――ヨーロッパ人には発見者としての何等の権利もなし――在住移住民の雑然たる性質――ピール島(父島)の外観――地質上の組織――ロイド港(二見港)の調査――同島の産物(動植物)――捕鯨船の集散地――現住者の状態――提督同島を探険せしむ――探険隊の報告――カナカ族――ステープルトンの調査及びその報告――ロイド港(二見港)の調査――貯炭所として購入せし土地――小笠原諸島を出発して琉球に帰航――デサポイントメント島――その真実の位置――ボロディノ族――那覇に到着

 

 小笠原諸島は目本近海 Japanese Sea に横たはり、大体南より北へ北緯二十六度三十分と二十七度四十五分の間にまたがり、群島の中央線は大体東経百四十二度十五分である。同諸島は一八二七年にキャプテン・ビーチー Captain Beechey によって訪問せられた。彼は、イギリスの探険家達に共通な皆さん御承知の謙遜さと公平さとをもって、同諸島があたかもその時最初に実測されたものの如く名前を付したのである。彼は北部の群島にパリー群島 Parry's Group と名付け、三つの大島から成る中部の群島に各々ピール、バックランド及びステープルトン、南部の群島にベイリー群島 Bailey's Group と名付けた。その際彼は自分で次のやうに述べた事実をば、全く無視したのである。即ち「南部の群島は、一八二三年にコフィン某氏に指揮されてゐた一艘の捕鯨船の碇泊したところである。この人はその島と吾が国とを結びつけた最初の人であり、又同港に自分の名前を付した人であった。けれども同島群にははっきりした名称が付されててゐなかったから、私は天文協会々長故フランシス・ベーリー閣下の名前をとってそれに名付けた(*)」と。ピール島の主港にはロイド港と言ふ名前を付けた。

 

Findlay's Directory of the Pacific Ocean.

 

 かくして一八二七年偶然にここへ訪問した者が、すでに前から知られて居り、且つすでに早く十七世紀には信頼すベき記述もなされてゐた同群島に対して、全く勝手に名誉ある名称をつけたのであった。ケムプエルによれば、これ等の島々は遠く一六七五年に日本人に知られてゐたのであって、彼等によって ぶな島 Buna Sima と言ふ名前で記述されてゐた。それは人無き島と言ふ意味である。吾々が参照したこの旅行者(ケムプエル)の記述によれば、一六七五年頃偶々日本帆船の一艘が嵐のために八丈島 Fatscyo から流されて来て、一つの大きな島を発見した。八丈島から東方に、日本里程で三百里を距てたところと推測された。彼等は住民には出会はなかったが、新鮮な水の供給が充分で、草木殊にアラク樹(檳榔樹)が豊に繁ってゐる非常に気持のよい豊饒な国であることを発見した。尤もこのアラク樹は熱い国々だけに生長するものだから、この島は日本の東といふよりも寧ろ南に横ってゐるのだと推量する余地が残されてゐた。日本人はそこが無人の地であることに気づいたが、その海岸で信じ難い程多数の魚や蟹を発見した。「そのあるものは四呎乃至六呎であった。」ケムプエルの記述並に左の注に示した原作日本人の記述をペルリ提督が見つけたが、それは同島の現状に精確にあてはまるものである。次の抜粋文に述べられてゐるアラク樹、即ち檳榔樹はピール(父)島にある(*)。

 

*三国通覧のクラープロート訳よリ抜粋

 

 「これ等の島々の元来の名は小笠原島といふも、普通には無人島(支那語では Wu-jin-ton)即ち人無き島と呼ばれてゐる。そしてその名称は私がこの著作に採用した名称である。小笠原諸島(O-gasa-wara islands)と言ふ名称は、同島を最初に訪れた航海家にして、同島の地図を製作した人の名前になぞらへて付せられたのであった。これと同様に新世界の南部は約二百年前に初めてそこを発見した人なるマガラニア Magarania (マヂェラン Magellan)の名をつけられた。

 ボニン諸島(小笠原諸島)は、伊豆国の南東二百七十里の所で発見された。同領内の下田から三宅島 Myake に至るまで十三里、そこから新島即ち新しい島に至るまで七里、新島より御倉島 Mikoura まで五里、そこから八丈島( Fatsicio, Fatiho, Fatsisio )まで四十一里、最後にそこから無人島の最北まで百八十里と計算され、最南部までは二百里である。

 この群島は北緯二十七度に横る。気候は温暖にして高い山々の間には渓谷横り、渓流によって潅漑されて甚だ豊饒であり、かくて大豆、小麦、粟、あらゆる種類の穀物及び甘蔗を産す。ナンキン Nankin と呼ばれてゐる はぜ Faze 又は蝋樹 Stillingia Sabifera がここにはえてゐて、それは wax tree(蝋樹)といはれてゐるものと似てゐる。漁業は良好で非常に取獲が多いらしい。

 この島々には多くの草木がはえてゐるが、獣類は甚だ乏しい。一人では腕を廻し切れない程あって、屡々支那の尋で三十尋(即ち二首四十呎)の高さにも及ぶ樹々がある。樹質は硬くて美しい。

 Siou-ro-tsoung-liu に似た高い木即ち棕櫚、椰子、檳榔樹、即ち支那で Pe-couan-tsy と呼ぶ実のなるもの、桂、紫檀、tou-mou、樟脳、山無花果(tub figs of the mountains)つたに似た葉を有する高い木、肉桂、桑及びその他数種がある。

 草のうちには、支那種のサルトリイバラ属(即ち支那薬草)で、San-ke-rei 及び to-ke, と言ふものがあり、assa-ghion-keva と言ふ薬草その他がある。

 鳥類には、長尾鸚鵡、ロジ、石鶏の異種、白鴎に似てはゐるが三呎以上にも達するものがゐる。これ等の鳥は殆ど凶暴でないから、手で捕へることができる。

 この群島に於ける鉱物界の主要生産物は明礬、緑礬、種々の色を帯びた石、化石等々である。

 海には鯨が居り、巨大な蝦魚、厖大な貝、『海の胆』、と言はれてゐる海胆がある。この海洋には種々の産物が異常に豊である。

 延宝の第三年(一六七五年)に、長崎の住民三人、即ち島江左衛門 Simaye Saghemon びそ左衛門 Biso Saghemon 及び島江太郎左衛門 Simaye Dairo Saghemon が伊豆 Idsu 領に航海した。彼等は熟練した支那大工の建造した大船に乗り込んだ。これ等三名は天文地理に精通して居り、又江戸湾の船大工頭にして陋巷に仕んでゐた羽戸部 Fatobe を伴って行った。三十人の水夫が同船を操縦した。帝国海軍から通過証を得て彼等は四月の第五日に下田の港を後にし、八丈島に向った。そこから南東に航走し、八十の島々から成る一群島を発見した。彼等は地図をつくり、その島々についての正確な記録をつくった。それにはこの群島の位置、気候、産物に関する数多の珍らしい詳細な記事がのってゐる。同年六月二十日に下田に帰って来た。それから島江は航海の記事を公にした。

 この著者が、御念島人び八丈島の中間で通過した速い潮流即ち黒潮 Kuro-se-gaw について少しも述べてゐないことは不思議である。その幅は二十町 matze (約半里)を超え、東より西へ約百里(著者は潮流の方向を誤ってゐる)もある非常な速力で流れてゐる。この遺漏は、もしこの海流の速力が、冬及び春よりも、夏及び秋には遙に少くないとすれば、合点の行かぬことである。島江は小笠原島に向って航行する際四月に続く閏月の上旬にそこを通過したのであり、帰航は六月の下句だったので、彼は比較的速度のない海流を見たのであらう。そこで彼はこの危険な航路に注意をひかれなかったのであった。

 八十の島々のうち一番大きいのは周囲十五里あって、即ちその大きさは壱岐島よりやや小さい。他の一つは周囲十里で、大体天草島の大きさである。この二つの島の外に周囲二里乃至六七里の島が八つあった。これ等の島には居住の出来る平坦な台地があって、そこには穀物が非常によく生えてゐた。気候は温暖で耕作に適し、地理上の位置から推測し得る通りである。そこからは色々の価値ある産物を産出する。残りの小島七十は、僅に険しい岩に過きず、何も産出しない。

 移民は刑に処せられた罪人でこれ等の島々に送られて労働をさせられて居り、彼等は土地を耕したり、数多の畑を栽培してゐる。彼等は集って村をなし、又日本帝国内の他の国々で見出されるのと同じ品物を採集してゐる。人々はこれ等の島々を訪れ、その年のうちに産物を持って帰国することができる。このやうにして同群島との通商を容易に振興し得るだらうし、又そこから汲み出される利益は著しいものだらう。このことはあらゆる人々に明かにされなければならない。

 安永の時代(一七七一年乃至一七八○年)私は命をうけて、肥前 Fisen 国に派遣された。同国で私はアーレンド・ウェーレ・ヴェイト Aarend Werle Veit と言ふ一オランダ人と知り合った。この人は、日本の南東二百里に横ってゐて、著者が Woest eiland と言ってゐる数多の島々についての記述がある地理書を私に見せてくれた。この Woest と言ふ言葉は人がゐないと言ふ意味であり、eiland (語源は yeirand )は即ち島である。著者は、これ等の島々には人が住んでゐないけれども、多種多様の草木があると述べてゐる。日本人は穀物その他の産物を繁茂させ得るやうな島の一つに植民地を建設するだらう。ここヘの航海は長いにも拘らず、その航海を確立することは、これ等の産物を手に入れるためには有用なことであらう。オランダの会社がその島々を利用するには、島が小さ過ぎるし離れ過ぎてゐるので、それを領有しても殆ど利益を獲ないだらう。

 私は右の言葉を操り返へすのを適当と考へる。この言葉は記憶に価するものである。又私は右の言葉を以て小笠原諸島に関して語らなければならないこと全部に対する結論とする。」

 

 多分この島に豊富にゐる緑海亀が蟹と間違へられたのだらう。これが誤りなることは、その動物をケムプエルが巨大なものだと記述してゐることによって明かだらう。他の記録によると、今引用したばかりの権威者の記述に記されてゐる発見の年一六七五年よりも、日本人による発見の年月は遙に早いものとされてゐる。兎に角イギリス人の発見は日本に先んじてゐると言って主張する権利はイギリス人に少しもない。日本船が偶然訪問して小笠原を発見したのだといふことを証明する為に、一アメリカ住民サヴォリー氏 Savory が提督に次のやうに報じたことを述べやう。即ち十三年前、約四十噸積みの一日本船が荒天のため日本沿岸から流されてロイド港に入港したと言ふのである。――同船は冬の間そこに滞在した後、春になって帰航の途に上った。同船は又小量の乾魚以外には何にも持って行かなかったので、移民達から無償で食糧品の提供をうけた。他の時期、即ちその約八年後、ステープルトン島沖を遊戈してゐた一フランス船が海岸に火を発見して、同地点にボートを派遣したとき、難破した一艘の日本船と、極めて心細い状態で僅に生存してゐた乗組員五名を発見した。それからこの人達を船に乗せてロイド湾に運び、次いで親切なフランス人達は、彼等を日本諸島中の一つに上陸せしめやうとの意向をもって輸送して行った。この記述を是認しし得るのは、サスクェハンナ号の士官の一隊がステープルトン島を訪問した時、偶々難破した同船の残骸を見たと言ふ事実による。同船の残骸は吾が乗組員が上陸した小湾で発見された。難破船には大きな銅釘と銅板の部分品がついてゐて、今でもバラバラになってはゐない。これ等の材料やその他の証拠品から推して、それが日本船であること及び板材の端が殆どすりへってゐなかったり腐ってゐないので、その難破船がそんなに古いものではあり得ないと言ふことを推量した。

 コフィン船長 Captain Coffin は、ビーチーによってベイリー諸島といふ甚だ奇妙な、且つ謙遜な名を付けられた同群島中の一部分を訪問して、自分の名前を付けたのであつた。このコフィンの国籍は記されてないが、その名前から推すと多分アメリカ人であり、又もしそうだとすると疑もなくナンタケト Nantucket 出身の人である。右の部分を住民達は南部諸島と呼んで居り、住民達は何時でも小笠原諸島に属するものと考へてゐた。それはロイド港の南約二十哩にある。一八二七年になって、イギリスの探険船ブラサム号を率ゐるビーチー船長が同諸島を訪れ、イギリス国王の御名で形式上の占領をし、それにイギリスの名称を付したのであった。その住民達は実は、イギリス王室に世襲さるることを拒み、イギリス船長自らが名付け親となってつけた名前を認めないのである。例へばビーチーは、北部諸島中のニつの島に対して、バックランド及びステープルトンと言ふ大変立派な名称をつけたが、住民達はそれを全く知らないのであって、彼等はそれを各々山羊島 Goat islands 及び豚島 Hog islands と呼んでゐる。イギリス人が来訪して小笠原諸島を領有した時、その来訪の年月と占有の行為とを銅板へちゃんと刻んで一本の樹に釘づけにしたのであるが、この銅板と樹とは最早存在せず、イギリス領有の証拠といふのは唯、付近に在る丘陵の一つに、時々イギリスの旗があげられることのみである。この国旗掲揚の勤めは元来、偶々同地にやって来た英人遊歴者に委ねられてゐたのであった。今では船が到着した時に掲げられる合図に過ぎないと考へられてゐる。住民は如何なる政府も認めず、又自治を行ひ得るのであるから少しも外国の統治を必要としないと宣言してゐる。

 ビーチー船長訪問の翌年、ロシア海軍の艦長ルートケ Lutke 某が到着し、先輩イギリス人と全く同様の方法でそこを領有して、別な名前をつけた。

 日本人が同諸島最初の発見者だったことは全く明かである。彼等は多分同諸島に植民をして、後に放棄したのであらう。昔のスペイン、ポルトガル及びオランダの航海家達が小笠原諸島をよく知って居り、又後代にはアメリカ、イギリス及びロシア人が時々ここへ来訪したと言ふことはあり得ることである。或るスペイン人が来訪したと言ふ事実は、同諸島が屡々 Arzobispo 即ち大僧正 Archbishop と名付けられてゐる事実から明かだと思はれる。住民の一人の報告によると、同地に彼が到着した際には、ロシア人が初めて来訪したことを記録する板が一本の樹についてゐたのを思ひ出すとのことだった。ヨーロッパ諸国民は何れも、従来同地へ植民を試みなかったのである。

 一八三○年、数人のアメリカ人とヨーロッパ人とが、サンドウィッチ諸島から同地に居住する種々の土人――男女――を伴って小笠原諸島にやって来た。

 この冒険事業の指揮者は五人で、二人は合衆国生れ――マサーチューセッツのナサニール・サヴォリー Nathaniel Savory 及びアルディン・ビー・チャッピン Aldin B. Chapin であり、一人はリチャード・マイルドチャムプ Richard Mildchamp と言ふ名のイギリス人であり、一人はデンマークのチャールス・ジョンソン Charles Johnson であり、五人目は、マテオ・マザラ Mattheo Mazara と言ふ一ジェノア人であった。これ等のうちで、ペルリ提督訪問の際に同島に生存してゐた唯一の人は、アメリカ人ナサニール・サヴォリーであった。マイルドチャムプもまだ生存してゐたが、彼は住居をラドローン諸島 Ladrone Islands の一つなるガムに移してゐた。ジェノア人マザラは死んだが、その寡婦であった美しくて若いガム土人はサヴォリーと結婚して子を儲けた。サヴォリーは、甚だ豊饒な小さい農地の耕作に従事してゐる。彼は同地に屡々現はれる捕鯨船との間に、自分で牧獲した甘薯及び自分で甘薯から蒸溜したラム酒の取引を行ってゐる。そして彼の事業経栄は成功して一時は数千弗を蓄へた程であった。約三四年前一艘のスクーナー船がアメリカの旗を褐げてやって来、二三人の役に立たない無頼漢をつれて来た。この無頼漢達は大いに親切ごかしにしてこの老人の歓心を買ひ、老人に自分の成功について腹蔵なく喋らせ、成功の証拠たる貯金をすっかり見せて貰ったのであったが、その時この老人は数千弗の金を土の中に埋めてゐたのであった。これ等の悪党共は数ケ月の間、サヴォリーと非常に親密な、心を許し合った仲で生活した後、先づ恩人から金を全部盗み、その家から二人の若い婦人を奪ひ去って連れて行き、恩人の日記を持ち去り、その財産をメチャクチャにして島を立ち去ったのであった。幸にも正義は廃れず、罪人共はその後ホノルルで逮捕されたが、捕へられた女共は自分達の運命に全く満足してゐると語り、帰り度いとは思はないと言明したのであった。金について言へば、取戻されたかどうかは判らなかった。

 小笠原諸島は土地が高く、荒涼として岩が多く明かに火山型である。島々は青葉につつまれて緑色であり、熱帯植物が繁ってゐて、この植物は海岸の水際から丘陵の勾配へはひ上ってゐる。海岸に沿うて、あちこちに珊瑚礁がある。島々とその間近にある岩とは、昔あった自然的激変のために投げ出されて色々のグロテスクな形をなして居り、それを見ると、恐ろしい様子の城や塔の形をしたり、珍らしい動物の形をしてゐる。運河のやうになってゐる無数の水路が、峨々たる崖の側の所々に口を開いてゐるのが見えた。その崖は殆ど斧をもってきりとられたやうな形状をしてゐたが、明かに火山変動の最中に、液体熔岩と岩とが流れたとき形成されたもので、その熔岩は運河の中へ出口と見つけて流れ出したものであった。雨期に山々の両側から海へ流れ下る奔流のために絶えず摩滅され滑らかにすりへらされたのであった。これ等の濠、即ち運河のやうな水路のうちで、時の流れや水の流れのために冒されることの少かったものは今尚不規則な形を留めて居り、その形は階段に非常によく似てゐるのであって、人々がそれを見上げると、山へ登るために人の手で堅い岩に刻まれたのだらうと想像する。ロイド港内の所謂南崎には、非常に珍らしい天然の洞穴即ちトンネルがある。これは玄武岩の岩の中を南崎から向ふ側の海岸へ通じてゐる。入口の幅は約十五呎、高さは三十呎であるが、奥の方の天井は四十乃至五十呎の高さとなって居り、人工で建設したやうな形をしてゐて、建築家の言ふアーチと似てゐるのであり、楔石さへも見えるのである。そこには充分に水が流れてゐて、一端から一端へボートを通はすに足る程である。他にも洞穴又はトンネルが五つ六つある。その一つは長さ少くとも五十呎で、同港の境をなしてゐる一半島を貫通してゐる。絶えず住民の独木舟が通る。

 同島の地質学的性状は梯階石で、種々の外形を呈し、鉱物学上の諸特質を有するものである。即ち柱状の玄武岩が現はれて居り、角閃石及び玉髄が発見される。過去に火山活動のあったあらゆる証拠があり、ピール(父)島居住の最古老は、今でも毎年二三度大地の震れるのを経験すると述べたのであった。これは地震の多いと言ふ証拠なのである。

 ロイド港(ビーチーの名付けたところによると)は西側にあり、ピール島の殆ど中央に位する。出入し易く、碇泊所も深いにも拘らず安全で便利だと考へてよい。船舶は普通十八尋乃至二十二尋のところに碇泊する。ビーチーの海図によると同港は北緯二十七度五分三十五秒、東経百四十二度十一分三十秒に位してゐる。けれどもこの位置は間違ってゐると信ぜられてゐる。何故ならば、サスクェハンナ号艦長によって二度行はれた観測によれば東経百四十二度十六分三十秒であることが発見されたからである。即ちビーチーが決定したよりも更に五哩東である。最も安全な碇泊所は奥の方にあるが、方向転換したり綱をあやつったりすることができる位の深さと余地とに注意すれば、瓶を便利に航進せしめ得る。同港に入港することについてビーチーの記してゐる注意書は充分に正しい。

 薪炭及び水を豊富に手に入れることができる。但し薪炭は乗組員が伐採されて、生まのまま船に持って来られなければならない。水は奔流する小川から獲られ、水質良好である。建築用材には比較的乏しく、少しでも人口が増加して多くの家屋を建てることが必要となれば、直ぐになくなってしまふだらう。木林のうちで一番よいのはジャマナ jamana と野生の桑とである。ジャマナはブラジル及びメキシコのアメリカ杉に甚だ似たものであって、非常に耐久力がある。

 ロイド港及び付近の海にはすばらしい魚が豊富で、鈎又は網で捕へることができる。但し引網をあやつる場所は少い。海岸に沿うてたくさんに所在する珊瑚礁のためである。この引網に一番恰好の場所は「十尋穴」 "Ten Fathom Hole" 即ち同湾の深所で、海岸から突出した珊瑚礁にくっついてゐる個所付近の海岸である。魚の種類はそんなに多くない。サスクェハンナ号の引網で捕へたものは五種類であった。鯔、鱸二種、沖ざより及び普通の鷂魚で、鯔は一番豊富らしかった。鮫は甚だ多く、極く小さいときには珊瑚岩の間にある浅い所に出没し、鉄鈎で追ひかけ、それを掴んで岸に引き上げることができる。

 優れた青海亀も豊富で、船はそれをたくさんに捕獲した。海老も多い。有殻動物の種類も甚だ多いが、珍奇なものは見なかった。Chama gigas を除くといづれも食用に供せられない。けれどもこれとても非常に強靭で不消化である。甲殻類は分布広く、そのうちの主なるものは陸蟹であり、あらゆる種類の大きさ、形状及び色をして居り、そのうちで一番豊富なものの一つは、普通「やどかり」"pirate" と言はれてゐるものである。この動物は海岸付近のあらゆるところに、背へ醜い棲家をくっつけて歩いてゐるのを見ることができる。この棲家を手に入れるのはわざわざと言ふよりも、寧ろ偶然らしい。「やどかり」は自分の住家を持たないで他人の家を使用するのでこの名がある。buccina や悪鬼貝 murex や棗貝 bulla の貝殻を一番好む。それ等の貝殻は一吋半そこそこの長さで、感じのよい釣合を有してゐるのである。然しもし何かの間違ひで偶々このやうな思はしい部屋がないと、「やどかり」はすぐに、手近にある一番恰好な隣人の棲家に這入りこむのである。この動物にとっては、仮令自分の頭をいれられなくとも、兎に角その尾を押し込めることの出来るやうな気持のよい一隅が必要なのである。何故ならば、その尾は柔で、絶えず保護をする必要があるからである。かやうに「やどかり」が動き廻るときには、頭と足とは何時でも突き出してゐるが、尾部だけは借用した貝殻で覆うてゐる。この動物が他の動物の住家に入り込むときには、先づ住んでゐる住人を乱暴に追ひ出すのか、又は住人が自然死その他の凶事のために棲家を立ち退くのを待ってそこを所有するに至るのかは、今尚未決定の問題である。「やどかり」は大喰ひの動物で、途上にあるもので喰べられるものなら何でも非常な貪慾さでつかまへて喰ふ。

 海陸両種の鳥が少いことは、不思議なことであって、あらゆる人を驚かせる。陸島の種類は四五種を出でず、そのうちで一番大きいのは烏及び鳩であって、他は小鳥である。鴎その他の海鳥は殆ど居ないし、同諸島に近づくと、普通の大きさで独特の美しい羽をもってゐる幾羽かの海燕を見るのである。

 四足獣のなかには羊、鹿、豚、山羊及び無数の猫と犬とがゐる。猫と犬とは純粋に家畜たる性質を幾らか失って密林の中を彷徨し、野獣であると言って住民達に畏れられて居り、従って犬を使って駆り立てられる。ステープルトン島では、昔移住者中の誰かがここヘ持って来た山羊が非常に増加して、豚と一緒に他の島々へも持って行かれた程であった。ペルリ提督はピール島の北側に二匹の牡牛と二匹の牝牛とを放した。増殖しやうとしてであった。又北の島には五匹の上海広尾羊――そのうち二匹は牡羊であった――と六匹の山羊を放した。

 ピール島は小笠原諸島中で唯一の人の住む島であって、提督が訪問したときは総計僅かに三十一人の居住者がゐるに過ぎなかった。そのうち三、四人はアメリカ土人であり、大体同じ数のイギリス人が居り、一人はポルトガル人で、残りはサンドウィッチ諸島人及びこの島で生れた子供達であった。移住者達は多少の小畑を耕作して相当量の甘薯、玉蜀黍、南瓜、玉ねぎ、タロ薯、数種の果物を収穫してゐる。果物のうち一番豊富なのは水瓜、バナナ及びパインアップルである。これ等の産物と飼育されてゐる僅かばかりの豚や家禽とは、水その他の供給をうけるために絶えずこの港に寄港する捕鯨船へ直ちに売却される。サスクェハンナ号が同港に碇泊してゐた数日中には三艘の捕鯨船、即ち二艘のアメリカ船及び一艘のイギリス船がボートで部落と交通して、かなりの食糧品を持って行った。普通これ等のものは船に積んでゐる品物と交換して手に入れる。そのうちでも火酒は、移住者中の或る者に一番気に入るものである。もし労働が乏しくなければ、遙に広い土地を耕作し得るだらう。現在開墾されてゐる土地は全島で、百五十エーカー以上はない。又その土地も遠隔の地点にある。即ち一般には、山から流れて来る小川の通ってる谷口の海に面した所にあって、新鮮な水を豊富に供給されてゐるか、或は港付近の台地にあるのである。土質は勝れて居り、同緯度にあるマデイラ及びカナリー諸島の土質と酷似してゐる。葡萄の耕作にすばらしく適して居り、又小麦、煙草、甘薯その他多くの価値ある植物の収穫にも適してゐる。事実、すでに移民達は自分達の消費に足る程の甘薯と煙草とを生産してゐる。

 ピール島に居住する僅かの人々は、幸福に満足してゐるやうに思はれる。ヨーロッパ生れの人達は、文明的な慰安物と備品とを代々受け嗣いで自分達の周囲に飾ってゐる。或る小屋には部屋が五つ六つもあるのを見た。そして壁に支那筵を掛け、一二脚の椅子を置き、テーブル一脚を置き、青色のペンキを豊に塗って幾つかのケバケバしい石版画を飾った部屋は、その所有者が自分の心を楽しめ度いがために飾ったばかりでなく、贅沢な趣味としてゐるのだとさへ思はれた。

 サンドウィッチ諸島人、即ち今日の航海家達や商人達に親しまれてゐる名によるとカナカ人達は、生れ故郷の島に於けると甚だ似た生活をして居り、又椰子の葉で葺いた小屋が群をなしてゐて、大体彼等の生れ故郷の村々のやうな様子をしてゐる。住民達は快適で心地よい気候のうちに、又極く僅かの労苦に報ゆるに飲食したいと思ふすべてのものを供給してくれる豊饒な土地に、静な安易な生活をしてゐるのであって、この境遇を変化させやうとは望まないのである。アメリカ人やヨーロッパ人は、性質がよくて信頼出来るカナカの女を妻にしてゐる。

 ペルリ提督は短い訪問期間中に、ピール島に関して出来るだけ充分な報告を得度いと思ったので、奥地に踏査隊を派遣する決心をした。そこで提督は目的を達するために士官と部下とを選抜して二隊に分った。その一隊はバヤード・テイラー氏の率ゐるものであり、他の一隊は中軍医フース博士が長となるものであった。

 これ等の諸君は、適当な武装をし用具を調へて、六月十五日の朝早く出発した。その日一日をば、提案された踏査に当てやうとの意向であった。テイラー氏の率ゐる一行は八人で編成されてゐた。先づテイラー氏の行程に従って旅行記を記すことにしやう。テイラー氏の報告は提督に託されたので、それを自由に使用することにしやう。一行八名と言ふのは即ちバヤード・テイラー氏、画家へ−ン氏、候補生ボールドマン氏、機関士補ロウレンス氏、主計長付司厨長ハムプトン氏、陸戦隊員スミス、水夫デニス、テリー及び支那苦力一名であった。ピール島は長さ六哩に過ぎないので、適当に按配すれば二隊でこの小地域を踏査するのに、一日で全く充分だと考へられた。港のすぐ周囲に横ってゐる同島の北部は、軍医一行にあてられた活動分野であり、一方その半分たる南部は、次にその行程を記述しやうとする踏査隊の活動に委せられたのであった。朝日の昇ると共に一行はサスクェハンナ号を後にして岸へ舟を漕ぎ出し、同湾の奥にある給水場へ赴いた。その地点に到着するや、各人に糧食と武器とが分配された。全部が出来る限り平等に荷物を担ぐためである。上陸した場所で出会った一人のカナカ人に、道案内として一行と行を共にするやうにとすすめたが、同意しやうとしなかった。但し小さい路を教へてくれた。彼によるとその路は丘を越えて約三哩を隔てた一つのカナカ部落に出るものであるとのことであった。直ちにこの方向を辿った。その路は熱帯植物の野生してゐる場所を通った後険しくて滑る道路になってゐた。椰子樹が一杯に生えてゐて、その中には売買用のサゴがとれるサゴ椰子も混ってゐた。梢から梢へと寄生植物が懸って花綵となり、又樹々はその緻密な網で縫はれてゐるので一歩毎に足が阻まれ、又朝早くに頭上を覆ふ密林の群葉から滴った露にぬれて各人は膚までびっしょりとなった。土質はロイド港付近及び同島の他の地方に普通にある土質なることが観察されたし、又玄武岩の破片及び草木の腐敗物から成ってゐるやうに思はれた。玄武岩質の岩は屡々荒い険岩となって、険しい丘の両側から突出して居り、その裂罅の所には、にぶいオレンヂ色の大きな花をつけた美しい一種の木槿がはえてゐた。その花辨の尖端はうすい色合の黄色になってゐた。高さ三十呎もある大きな一本の樹から降った白い花の雨は、あちらこちら地上に散ってゐた。

 道は丘の嶺に上り、頂上に至るに従って植物は益々多くなり、遂には拡がった椰子の天辺や参差たる樹々の幹や密生して垂れ下ってゐる つたの網が大陽を蔽ひ、路は深い陰に覆れて、どちらに眼を向けても暗がりを通して二三十呎以上の距離を見透すことは殆どできなかった。一行の登ってゐる分水嶺の向ふ側から流下してゐる数多の小川に一行が達した時、多数の陸蟹がバラバラと四方に走り去った。足音の近づいたのに驚いて隠れ家を出たのである。

 分水嶺の頂上は開けて、起伏のある幅一哩半そこそこの平地となって居り、深い谷があった。分水嶺の他の側にある傾斜――下には深い渓谷が口を開いてゐた――は非常に険しく、人々は木から木へとぶら下りながら降りなければならなかった。険しい山々の間に在るこれ等の渓谷は、あちこちにある裸岩を除く以外は密生した草木に覆れて居り、岩崖の上に生ひ繁ってゐる熱帯植物の叢と密生した籔との間を通って丘陵のあらゆる斜面から流れ下った小川が岩床の上を流れてゐて、荒涼たる光景を呈してゐた。

 一行は今やこの小川を過ぎり、著しく豊に繁茂してゐるタロ薯畑に出てそこを真直に突き進み、彼方の森に達した。けれどもその方向に進むのは不可能なことを発見したので、タロ畑を通って引き返して、再びその小川の所に出た。同じ路に再び戻ったのである。この路は住居のあるらしい谷を通ってついてゐるのを発見した。あちらこちらにある耕作された小畑には甘薯、タロ薯、煙草、甘蔗、南瓜及びシダ Sida 即ち印度すぐりが繁茂してゐることが明かで、それ等はすばらしく豊に生長してゐるやうに思はれた。その谷の中央には椰子で葺いたニつの小屋が見えたが、一行がそこまで行って中に入って見ると、人が住んでゐないことを発見した。但しその朝までは人のゐた形跡があった。そこで鉄砲の音が聞える所にゐるかもしれないと思はれる住民の注意をひくために鉄砲を発射した。その結果の良好だったことが忽ち明かになったのであって、それに答へて合図の叫び声が聞え、その直ぐ後で、顔を淡青で文身し、粗い木綿のシャツとズボンとを穿いた南洋諸島人が現はれたのであった。彼は自己紹介をする時に自ら「裁判官」と言ふ敬称を付し、マークェサス諸島にあるヌカワ Nukahwa 生れのものだと公言した。このマークェサス人は大層豊な境遇であるらしかった。彼は居住するための小屋を一つもってゐたし、耕作する農場も有してゐたし、家畜をみせびらかした。その中には犬や四匹の豚がゐた。この「裁判官」は大変愛想がよく、甚だ親しげに自分の知ってゐる知識を全部、自由に話してくれた。彼は来訪者に対して、この谷がどんな風に山の支脈を廻って西方の海に口を開いてゐるかを教へてくれた。その流れはここでは一見僅にささやかな流れに過ぎないのであるが、それでも充分独木舟を浮べるほどの深さがあって、その独木舟で今「裁判官」は海亀捕りから帰って来たばかりで、立派な海亀を一匹持ってゐた。彼は物欲しさうな四匹の犬達にまつはられながらそれを大急ぎで切り刻んだ。犬達は御馳走の分け前を貰へるのを期待しながら、肉片れをなめてゐた。

 「裁判官」に対して吾々は、一行を同島の南端に案内してくれるやうにと要求した。彼の言ふところによるとその南崎までは約三四哩を隔てて居るが、そこへ達する路は全然ないとのことだった。けれども道を知ってゐる仲間を呼びに行った。そして間もなく、殆ど英語を話すことのできない銅色のオタヘイト人が現はれた。彼は自分が道を熟知して居り、野猪の屡々現れるのもよく知ってゐるといふことを認めたが、「裁判官」が一緒に行かなければ一行と行を共にすることはいやだと言った。「裁判官」は暫く躊躇した後、出発前に海亀の肉を蔵ひ込むことを許してくれと了解を得てから、これに同意してくれた。この肉を蔵ひ込むことは勿論承諾した。

 踏査隊の入り込んだ谷は長さ約一哩、幅は一番広いところで約半哩であると推定された。その谷の主脈といふのは、一行の入り込んで来た谷ではなくて、それより東寄りの方向にあり、一つの小川が流れてゐた。南の部分は重畳した岩が壁のやうになってゐるので、通ることができないらしかった。「裁判官」の小屋から海までは約半哩隔ってゐると言はれてゐた。この谷の土質は豊な土壌であって、移住者達の植付けた野菜や穀物の繁茂してゐる有様から判断すると極めて豊饒である。特に煙草はすばらしく生長してゐて、その高さ五呎もあった。「裁判官」が帽子に入れて置いた数個のレモンは、この谷の北から産したものだと語ってゐた。

 さて、「裁判官」とその仲間に案内された一行は、東・南・東の順路をとり、谷間を通って小川について行った。小川の河床には所々に大きな玄武岩の玉石が群がって居り、互にごちゃごちゃと重り合ってゐた。植物といへば樹木や寄生植物や籔が相変らず熱帯らしく繁茂してゐた。樹木の密生してゐるためと、土質がネバネバして、滑るために一歩をすすむにも骨が折れて、苦しかった。一行中の殿り二名が登ってくるまで、先頭は或る断崖上で待ち合はせてゐたが、その間に野猪が飛びだしたので、通りすがりに一発放ったけれども、手ごたへがなかった。移住者の所有してゐる犬は余り役に立たなかった。何故ならば森を歩き廻って籔陰から獲物を駆り出すといふこともせずに、主人の足にまつはりついてゐるからである。

 踏査隆は水脈を離れて谷間の南側に登った。木の根や木々から垂れ下ってゐる丈夫な蔓にすがってやっと登ることができた。一行は路のついてゐない暗い森陰や横道で散り散りになった。そして先に登った人達は遅れた人達の来るのを、復た峰の頂上で待たなければならなかった。この地点には、繁ってゐる色々な椰子樹の間に或る種類の palma latina が生えてゐた。それは恐らしく広い葉をつけてゐて、長さ八呎に垂んとする茎をもち、枝の縁がギザギザになってゐるために、その森を突き進む旅人達は手に傷をつけた。露兜樹 pandanus もあった。屡々その数二三十にも及ぶ苗葉が真直な幹の下部から下の方を向いて外側へ出てゐて、地面の中に根を下ろして遂にはピラミド型をなし、そこから樹幹が細長い桂になってつき立ってゐるのであって、見事な群葉に覆れてゐる。

 一行中の数人が、遅れた仲間を待ちながら峰に休んでゐる間に、付近の谷から大きな犬の叫声が起った。それを聞いて一行中の二人が直ちに出発した。間もなく仲間の銃撃数発が聞えた。指揮者たるテーラー氏は音のした方へ進んで、殆ど入り込むこともできない密林の間を驅け抜けた後に、その途上で野獣の穴の所へ出た。それから、と或る小川の河原に到着したが、そこには猟師達が若い猪の周囲に群がってゐた。その猪はまだ一才とはたってゐなかった。長い鼻と、泥だらけな黒灰色の剛毛をもってゐて、支那豚にやや似た様子をしてゐた。さて峰に残ってゐた一行中の一人、ハムプトン氏を迎へにやられたが、間もなく彼を探しに行った「裁判官」が帰って来て、彼は病気でやって来れないと語った。けれどもハムプトン氏は間もなくカを尽してやっと後からやって来て、首尾よく一行に加った。但し疲労のために非常に困憊してゐることが判った。けれどもオタヘト人の案内者が同島の南端までは僅に二哩に過ぎないと言ふので、ハムプトン氏は皆に言はれたやうに「裁判官」と一緒に谷に帰らないで、仲間達と行を続けることにしたのだった。踏査隊は野猪の肝臓と腎臓とをとって、屍体が帰りまで残ってゐるやうにとそれを一本の樹にぶら下げて行を続けたのであった。

 その後約半時間にして、同島を横断してゐる分水嶺を横ぎり、南側傾斜面の頂上に達した。この地点からは海が見えたし、又やや西寄り南の方遙に水面に屹立してゐるベイリー島も眺められた。さて順路を変へるのが必要であることが判った。何故ならば案内人が一行を余りに南につれて来たのであって、降りることもできない険しい崖際につれて来られたからである。今や一行は足を廻らすのにやや困難を感じたのであった。何故ならば一行は余りに断崖に近づいたので、勢ひ絶壁の縁に生えてゐる強い草や潅木につかまりながら、非常に用心して逼はなければならなかったからである。このやうな行動をとりながら、二百碼そこそこの間を通過して、首尾よく断崖の尽きてゐる個所に到着したが、ここもまた下りが険しく、下りるときには各人が背を地面につけ、地面やつき出してゐる潅木等に時々つかまって速度を調節するやうに気をつけながら坂をすべり下りる必要があることを発見した。遂に下の谷間に達したのであるが、悪い事情がまだなくなってゐないことを見出して、著しく失望した。何故ならば、予期の如く静かに海へ流れてゐる水脈には出ないで、十乃至五十呎の高さの峨々たる路が続いてゐるのを発見したからであった。その路を下るには逼ふ必要があった。とうとう海岸に達した。そして先発の者達が、或は崖際に立ったり或は険しい斜面にぶら下ってゐる遅れた仲間を見上げたときには、自分達が今やり遂げたばかりの仕事が、困難で危険な骨の折れる大変な仕事であると思はれた。

 さて一行は案内人が南東湾と称してゐる場所に出たのであった。捕鯨者が屡々この湾にやって来ると言はれてゐた。その捕鯨者の或る者は、ここに来た証拠を木株に残してゐるのであって、それは大きな斧でうまくしるしを刻んであるのだった。放置されたままに雑草の繁茂してゐるトマトー畑が、小川の両岸に横ってゐるのも見えた。そのトマトー畑は確に人の手で植え付けられたものであった。殆ど疲れ切ってしまひ、又極度の暑熱のためにいたくなやまされた一行が全部集ったので、火をおこして猪の肝臓と腎臓とを程よく料理し、持って来た豚その他の食糧を加へて大変立派な即席の饗宴を設けて、それを貪り喰った。一行は御馳走と休憩とを得て元気を回復したし、又すでに遅く二時になってゐたので帰ることに決めた。案内人達から今来た道を又引き返す必要があると語って聞かされたときには、今克服したばかりの危険に復々さらされることと、同じ労苦を再びしなければならないこととを考へて全くがっかりするやうだった。けれども変更することはできない。そして一行は足を廻らさざるを得なかったのだが、前の困難を新に経験しながら、且つ極度に疲れ切った後に、遂に「裁判官」とその仲間たるオタヘト人を伴って出発した地点にあたる前の谷に首尾よく到着したのであった。

 「裁判官」の寓所に到着したのは夕方の六時であった。休むためにそこで極く僅かの時間を費したが、すぐ行を続けた。一行中の一人は疲労のために非常に弱ったので、独木舟でオタヘト人に案内されながら、海上をロイド港の南端に在るカナカ人の部落に行かなければならなかった。残りの人々は来たときと同じ道を帰らうとして陸上を歩いた。けれども、その道は容易に発見されなかった。そして踏査隊は森の中や険しい岩の上で再びつらい経験をした。一行はゴチャゴチャした籔の中で殆ど行きくれてしまび、地面がデコボコなので、ひどくへこたれてしまった。一行中の一人がまた倒れたが腕を貸して連れて行き、峰の頂上にある安全な場所へ部下の一人を見張りにつけて体ませた後、残りの人々は突進した。ロイド港の南端にあるカナカの部落に到着するや、同湾を俯瞰してゐる岸の上に足を止めた。そこからは立ち篭めた暗の中にサスクェハンナ号の偉容をかすかに見出すことができた。合図に一斉射撃をすると、すぐそれに答へて艦のカッターが到着した。一行中の疲労した人達を呼びに戻った後、皆が艦に向ってカッターを漕いだ。到着したのは夜の十時その日一日の困難な事業のために吾々はひどく傷き疲労してゐた。中軍医の率ゐる他の一行も大体同じ時刻に帰艦した。ファス博士によって報告された観察の結果を次に記録しやう。

 同島が火山から生じたものたることは、古い火口が存在することによって、明瞭であった。杏仁岩と緑岩とを混へてゐる玄武岩は丘陵中で最も高い峰々の基礎をなすのであるが、同時に同島の基礎をもなしてゐるのであった。玄武岩質の岩盤が砂、熔滓又び燃屑の地床を通ってゐることも観察されたし、古い熔岩の層は海岸に沿うて散在して居り、他の数多の地方には又岩石の深部までが露出してゐる所も在った。硫化水素瓦斯に普通な特徴たる強い臭気と味とを有する硫黄泉が谷間の一つから奔ってゐるのを発見した。黄鉄鉱 iron pyrites も多くの場所に豊富に所在してゐた。植物も亦小笠原諸島と同じ緯度の火山国で一般に見出されるものと同じやうなものであった。嘗てロイド港は活火山の火口であったらしい。その活火山によって周囲の丘陵が吹き飛ばされたのであるが、現在の同港入口は火口丘の側面にあたる深い裂目によって形成されたのであった。この裂目を通って熔岩の流れが海に注いだのであり、その沈澱後に、一つの空隙が残ったのであって、後にそこへ水が充満し、水のために普通の堆積物が運ばれて来て、今では同港の水底と四壁とを形成してゐるのである。

 同島の地表は様々である。野原が丘陵の麓から発して海岸まで延びてゐて、その野原は黒い植物性の肥土から成ってゐる。その深さは屡々五六呎に達し、海棲動物の殻や玄武岩の破片を混へ、珊瑚岩を基底として散布されてゐる。これ等の野原は非常に豊饒で、現に耕作されてゐる野原からは巨大な甘薯、玉黍薯、すばらしく生長した優良な甘薯、やま薯、タロ薯、メロン及び菜園から産出する普通の産物が豊に収穫される。馬鈴薯 Irish potato の栽培も試みられたが、まだ充分に時間がたってゐないため、多分これで成功と言はれるだらうと評価せらるるまでにはなってはゐない。今までに耕作されてゐるのは湾に沿うてゐる野原だけであるが、あらゆる点から見て、他の野原も同じやうに豊饒であって多数の人口を維持するに足る程の産物を産出し得ると信ぜられる。

 丘陵はあちらこちらにゆるやかな傾斜をして野原から聳えてゐたり、又は、険しい坂になって突然聳えてゐたりする所もある。これがために、段丘が一段一段と屹立してゐるやうな様子をしてゐる。同湾の奥は、他の峰を圧してニつの峰が聳えてゐる。それはパプス Paps の連峰と言ふ名で知られてゐる。そのうちの一つは一千呎の高さに達し、他の峰は一千百呎ある。この二つの峰は入港する際にはっきりと見えて、航海家にとって重要な目標となる。吾々が今調査を行ってゐる区域にあたる同島の北半分に所在する泉の数は少く、そのうちの二つだけが清らかな飲料水を供給しつつ絶えず流れてゐるのである。谷の中には他に数ケ所の泉があるが、非常に黒ずんでゐるか、或は涸れてゐることも非常に屡々であって、頼るに足る給水の源ではない。雨期には小川が峡谷の間にある小さい谷を通って海に流れ込むが、その河口にはあちらこちらに玄武岩の大きな塊が群をなしてゐて、乾燥期には殆ど水気がない。

 同島の花卉は熱帯的であって、同緯度に当る何処にでも見られるやうに美しいものである。渓谷や海沿ひには、同島に住んでゐる人がクルメノ Crumeno と呼んでゐる大きな木がおびただしく生えてゐる。それは太くて短い樹幹を有し、灰色の樹皮と非常に密生した群葉とをもって居り、表面が滑かで色は萌黄色の大きな楕円形の葉をつけてゐる、その葉は葉柄の周囲に群をなしてついてゐて、その柄の端から美しい白い花の房がついてゐる。

 丘の中腹や谷間には密生した椰子の林が群生してゐて、非常にくっついて生えてゐるので充分に成長することができないのであり、又そのために他の植物も生長することができない。扇葉棕櫚は六種の棕櫚のうちで一番豊富なやうに見えた。色々な木のうちには著大な一種の掬や、山々の上に繁茂してゐる大きな樹でみづきに似たもの、時には周囲十三四呎にも及ぶ巨大な桑木が目に映じた。小さい草木の中には月桂樹、杜松、黄楊、羊歯、バナナ、オレンヂ、パインアップル及びみやますの木があった。菌類、苔及び種々の寄生植物も豊富だった。草の種類は少くて、大体牧畜に不適当である。未開墾の地方にはえてゐる籔草(ジャングル・ウヰード)が非常に密生してゐるので、この種類以外の殆どあらゆる草は繁ることができない。

 同島の動物は大部分輸入されたものであるが、森林の中を彷徨ってゐる?得慣のために野生的になってしまった。土着の鳥の中には鳩、鵬、烏及び千鳥が居り、同島に土着する主なる動物で眼にふれたものといへば亀、たてがみとかげ及び小さい蜥蜴であった。二隊にピール島を踏査――その興味ある結果は右に記録したばかりである――せしめたのとは別に、提督は一人の士官を派遣してステープルトン島の一般状勢とその特質について報告せしめた。彼の記述から幾つかの価値ある事実が判る。ステープルトン島は、小笠原諸島中の残余の島々と同じやうに、その起源は火山であって、地表には原野、丘陵及び谷等種々のものがあり、広くて豊饒な土地もある。水深の深いらしい小湾をその西側に発見した。この湾は八百乃至千五百呎の種々の高さの岩や山々で囲まれてゐて、そのために南東台風が防がれてゐる。

 小さい岬と珊瑚礁とがこの湾を区画してゐるのが見られた。北辺にある土地には、冷くてよい味の水をたたへた泉があって、とある岩から流れ出して居り、一分間大体三ガロンの水を供給してゐる。ステープルトン島の産物は他の島々の産物と同じであるが、移入された山羊がすばらしく増殖して数千匹の数に達してゐると想像された。又この山羊は同島上にある僻遠の渓谷を通ったり、誰にも妨げられることなく荒い岩石の上を彷徨ってゐるうち、非常に野生的になってしまったのであった。

 提督は長い間、同諸島が通商上重要であると確信してゐたので、自分が主となって同諸島を調査したいと思ひ又カリフォルニアと支那との間に遅かれ早かれ確立されるべき汽船航路上の停泊地としてピール(父)島を勧め度いと思って、そこへ訪問したのであった。この目的のために彼は同島を踏査せしめ、港を測量せしめ、同諸島中のニつの島に数匹の動物を放たしめたのであった。将来の需要に応ずる供給の路を開くためである。あらゆる種類の野菜の種子をも、現住してゐる移住民に分配し、今後耕作器具を供給し、もっと多数の動物も供給し度いと言ふ希望を提督が申し出たのであった。蒸汽船の待合港に必要な役所、倉庫、石炭置物場その他の建物を建設するための適当な地点も選択された。提督の希望してゐる目的とすばらしく合致する一画の土地に名前もつけられた。それは同湾の北側にあって、その奥に近い位置を有して居り、前面は深さ一千碼の水に臨んでゐる。又その海岸付近の相当深いところは五十呎に及ぶのである。五十呎突出してゐる埠頭を建設すれば、最大の船舶も容易に近づき得るやうになるだらう。

 海軍省に宛てた書翰に於てペルリ提督は、駐船所を建設するには結局ピール島が便利であると言ふ見解を述べたのであった。その通信では次のやうに語ってゐる。

 「与へられたる指令に従って、余は遙なる海洋を横ぎる船舶のための避難港及び休養港を求め、且つそを確立せんことを命じられたるものなれば、余は航海の当初より、現在余等が碇舶し居る港(*)及びボーニン(小笠原)諸島の主要港をば、主要汽船航路にとりての集散上全く便利なる港にして、錨鎖を与へ得る港即ち適当なる停泊所なりとの見解を絶えず有し続けたり。その主要航路は間もなく、吾が太平洋諸港中の孰れか一港と支那との間に確立せらるるならんと信じ、又そは大いに希望さるべき事柄なるべし。而して若し達成されたる暁には今日の如き重大顕著なる時代に於てすら、そは合衆国及び世界の通商上に最も重要な出来事と認めらるるに到らん。

 

*提督は琉球那覇より書いてゐるのである。

 

 合衆国及びヨーロッパより発してエジプト、紅海及び印度洋を通過し来る船舶は、殆ど一日も違はず規則的に毎月一週二回香港に到着す。香港より上海に達するまでを航行するには五日を要すと認めらる。もし吾が国が右の航路に就航してカリフォルニアまで続航することに至らば、疑もなくイギリス政府は航路を上海まで拡張するならん。

 汽船によりて、小笠原諸島及びサンドウィッチ諸島を経て上海より桑港に至る運輸は、石炭その他の積込のために三日間の停泊を許すとして三十日を要するならん。かくて桑港よりサンドウィッチ諸島中のホノルルに至る距離は概算して二千九十三哩、ホノルルよりピール(父)島まで三千三首一哩、ピール(父)島より揚子江、即ち上海河口に至るまで一千八十一哩。総計六千四百七十五哩。一日二百四十哩を航行するとして、海にあること二十七日港にある時日三日ならん。即ちサン・フランシスコよりニュー・ヨークに至るまで二十二日を要するとせば、上海よりニュー・ヨークに達するまでは五十二日とならん。

 普通マルセーユを経てイギリスより香港に至る(最短距離)航路を運輸するに要する時日は四十五日乃至四十八日なり。香港に於ける二日間の停船を加へ、上海に至るまでの五日を更にそれに加ふれば、上海に達するまでに要する時日は九十二日乃至五十五日となるべし。

 上海はイギリス航路の終点にして、アメリカ航路の起点なりと見らるべし。若しヨーロッパ経由にて西へ書状原本を送り、カリフォルニア経由にて東にその複写を送りたりとせば、原本がリヴァプールに違すると大体同時にその複写本はニュー・ヨークに達するなり。

 然し諸々の便益及び――付言すれば――偉大なる計画を完成するの名誉を論外とするも、この汽船航路が商業上に利益を与ふること大なるべし。すでに年々数千の多数支那人がその航海に各々五十弗を支払ひ、食物調理のための水及び燃料を除くあらゆるものを携帯しつつ、カリフォルニアに向って船出し居れり。

 これ等の心掛けよき人民達は最も忍耐強く、且つ勤勉なる労働者にして、又彼等日頃の習性によりてカリフォルニアの農業に利益を興ふること大なる筈なり。然しながら、現在上海は支那の偉大なる商業中心地となりつつあり。すでに合衆国との通商上広東を凌駕し、又精茶、生糸及び支那に於ける同地方の珍奇にして価値ある他の商品を汽船にて輸送するに、カリフォルニアに五週間、ニュー・ヨークに八週間にして可能なることを考慮する時、この甚だ迅速にして確実なる交通より生ずべき諸利益を予め評価することは不可能なり。(*)」

 

*東洋に於ける通商上の利益増進に関して小笠原諸島の重要なことは甚大で、提督が帰還後もこの問題は多かれ少かれ彼の心を占めてゐた問題であった。又この重要性については、この章を書いた後にペルリ提督が編纂者に与へた次の文書のうちに極めてよく表れてゐる。

 

  小笠原諸島についての覚書

 

 余が小笠原諸島を訪問したるときは、同諸島の横る太平洋付近を航海する船舶の集散地点として、殊にこの地帯を航行する捕鯨船の避難港及び供給港をなすところとして、並に日本を経由してカリフォルニアと、支那間に疑もなく遠からず確立さるべき汽船航路上の貯炭所として重要なる所なりとの観念を強く抱きたりき。

 小笠原諸島とアジア沿岸との間に横る海洋には数種の鯨豊富にして、又日本付近にはその数多し。かの独特なる(日本)帝国との条約確立に至るまでは、捕鯨船の船長達は日本人の手に捕はれ、その結果として投獄せられて残酷なる待遇をうくべきことをよくよく知り居りしが故にその沿岸に近づかざるやう警戒しゐたりき。かかる恐怖も最早なかるべし。条約の規定によりて、沿岸に近づきたるアメリカ人又は事故のため海岸に打ち上げられたるアメリカ人にして従来冷酷に待遇せられし人々に対しては、親切なる待遇をなすとの保証を与へられたるのみならず、あらゆるアメリカ船に対し、荒天の厄を蒙りたる場合には一時の修繕のために如何なる港にもせよ入港することを許すとの規定をなし、保証を与へられたるがためなり。又あらゆる修繕及び給糧のために函館港及下田港も開港せられたり。

 即ち日本近海の自由なる航海に対する障害は最早なきが故に、吾が捕鯨船は安全に、妨害されることなく、便利なりと思ふ限り海岸に近づきて遊戈し、又はより東方に在る諸梅湾を遊戈することを得るなり。然し乍ら、この地方の太洋をあらゆる点にて吾が捕鯨船に便利ならしむるためには更に何物かを必要とす。即ちあらゆる点にて出入に自由にして、排外法と国民的偏見とを有せざる港これなり。何故ならば、すでに述べたる如く、条約によりて日本の函館、下田及びそれに加ふるに大琉球の那覇がアメリカ諸船のために開港せらりたりとは言へ、従来これ等の港の人々が外国人に対して懐きゐたる猜疑を振り棄てたりと思はるるまでには長き時日を要すベきが故なり。且つ太平洋の諸港を訪問する捕鯨船の乗組員が秩序ある振舞又は温和なる行状をなすと認められざるは、充分に明かなることなり。それ故に小笠原諸島に備をなさんとの余の主張が強き意味を有することとなるなり。余の計画は小笠原諸島の主島ピール(父)島内のロイド(二見)港に一植民地を建設することにして、その主権についての問題は今後の討議に付せらるべきものなり。余はすでにこの旅行記に於て同諸島についての記述をなせり。さて続いて同諸島全部に亘って繁栄せる植民地を建設せんとする余の計画を述べん。

 さて第一には商人の一団と数多の手工業者とが連携して、ピール(父)島に植民地を建設せんがために株式会社をつくるべし。この実験にはさのみ大なる出費を要せず。先づ各々三四百噸にして、捕鯨に適するやうに艤装したる船舶二艘を、倉庫と二三の小住宅との建設に必要なる材料、倉庫を充すに必要なる物資、即ち雑貨、航海具、食料品、並に捕鯨船その他の船舶に普通に必要なる物品を同島に運輸するために使用すべし。旅客及貨物を上陸せしめたる後、この二船舶は付近の海洋及び日本近海に於て捕鯨に従事しつつ遊戈を続くべし――休養等々のために時々植民地に帰航しつつ。二船の獲たる鯨油合計が一船に積み込むに足る程のものとなりたる時、その一船は修復のため及び更に植民と倉庫用並に植民用の新鮮なる物資とを積み込むために故国に帰航すべく、右の如くにして二船は交互に合衆国に帰航することとならん。かくして短時日の間に植民地は建設され、あらゆる関係当事者にとりてこの結果の利益あるものたることも明かとなるべし。多数のアメリカ、イギリス及びフランスの捕鯨船が休養及び供給をうくるために同港に往復し、船舶に必要なる商品を購買する顧客となり。植民地の手工業者及び農民に仕事を与ふるならん。もしも同港を訪るる捕鯨者が、?穫たる労働又は物資に支払ふための金銭を必要とする時は、正当なる価格にて油を買ひ取るべし。右の会社によって送らるる移民は、若き夫婦以外のものたるべからず。水入らずの居所として自らの住居を建設し得るまでは彼等は現住植民の家に宿をとる。かくしてこの植民地は恐らく宗教的にして幸福なる共同態の核心を形式することとならん。又ここに牧師の駐在地をつくることも何等妨げなし。適当なる時期に宣教師をここより日本、台湾及びこの地方に在る他の暗黒諸国に派遣せん。現在サンドウィッチ諸島と日本との間に横る海洋を遊戈する捕鯨船は、修復のため及び物資を得るために屡々同諸島又は香港に往復せざるを得ず。即ちその捕鯨地の或る地点より数千理を隔てし所までなり。かくの如き航海と止むを得ざる港内の滞在とのために多大の時日を要す。又それ等の諸港にて支払ふ莫大なる料金は当然故国の船主に対する重き負担となるものなるが、それを論せずとも、乗組員等が遊蕩に耽りて病気となり堕落するなり。さて父島に設立さるる倉庫が中心をなすべく、又多分同所は、少くとも長年月中には、不当なる浪費をなさしめざるところとならん。前述の諸港は名高き浪費地なり。その主権は疑もなく、同諸島の最も早き占有者として知られ居る日本に属するものなり。この権利を別にすれば法律上の優先権は現住民に属すること問題なし。

 

 小笠原諸島に四日間滞在したる後サスクェハンナ号は錨をあげてサラトガ号を曳き、六月十八日土曜目の朝琉球へ帰航の途についた。ロイド(二見)港を掃海したる後、航路をデサポイントメント島に向けた。琉球から小笠原諸島への途上に提督はこの島を見て、その位置を確め度いと思ったのであったが、サスクェハンナ号がロイド(二見)港に到着する前日、すぐ眼の前を通過した同船からその島影が見えたのであったけれども、暗くなるところだったので、目測で見積りをする以外には全然観測されなかったのである。そこで提督は帰航の途中特にデサポイントメント島を見度いと思ひ、また今まで目にされ筆にされること多かった同島の位置を正確に決定し度いと思ったのであった。そこで、正午少し過ぎに目の前に同島が現はれ、三四哩隔ててそこを通過したので、太陽観測 noon-day observation によって獲られた計数から、同島の真実の位置が正確に決定されたのであった。

 同島は、島の突端から一二鏈(*)ばかり飛び出してゐる二つの子島をもった低い島であって、北緯二十七度十五分、グリニッチ東経百四十度五十六分三十秒の所に横ってゐる。

 

*一麓は一○○―一四○尋(訳者註)

 

 デサポイントメント島とロザリオ島とは、同一の島であると思はれる。乗組士官の航海観測に添へて、一人の画家がその島の外観を描いた。それは付録に載せる。

 航路をデサポイント島から真直に、普通の海図に書かれてゐる名称によるとボロディノ諸島 Borodinos と言はれてゐる諸島へ向った。この諸島は六月二十二日になって船の直ぐ前に現はれた。同諸島は互に五哩隔てて位置して居り、北=北=東及び南=南=西の方向に横ってゐるニつの島であることが発見された。この二島は珊瑚質の島であるらしいが非常に古いものらしい。高い所には相当に大きな樹が繁ってゐたからである。一番高い部分は海抜四十呎あったやうである。同島の間近を航海するのは危険でないやうに思はれたがその周囲の海岸には安全な碇泊所となるべき出入部分が一つも見えなかった。人跡も発見されず、同島は無人島と思はれる。南部に横ってゐる島の南端の位置を計ると北緯二十五度四十七分、東経百三十一度十九分であった。

 帰航中は穏な軟風が南=南=西乃至南西から始終吹いてゐて、気候は温かった。又実に最初に那覇を出発して以来ずっと風が南及び西から吹き続けてゐたのであって、南西モンスーンが、船の航路に当る緯度と平行して、そのずっと北の方に吹いてゐることが想像されるのであった。サスクェハンナ号とサラトガ号とは、六月二十三日の夕方に那覇湾内の碇泊地へ到着した。そこにはミシシッピ号、プリマス号、及びサプライ号が碇泊してゐた。