小笠原島概況

 

東京府発表

年代 1888

初出 官報1433号(明治二十一年四月十三日付)

 

小笠原島概況  今般東京府に於て調査せる所の小笠原島の概況は左の如し(東京府)

 

【時令】小笠原島の位置たるや温帯より熱帯に跨り気候は常に温和にして冬季霜雪を見ず。夏時の炎熱も亦堪へ難きにあらず。極暑は九十七八度極寒は五十四五度(華氏寒暖計)の間を昇降す。故に終歳百蟲蟄せず。四時鶯声を聞く。島人多くは病を知らず。但し冷熱遽に変ずる事あるゐは其冷を患へ易しと云ふ。風候は毎歳五月より八月に至るの間は概ね東南に吹き暴風を起す事少なきを以て海上平穏なりと雖も十月より四月に至る迄は概ね西北風にして波涛険悪ために渡航に便ならず。特に九十月の交は時として颱風起り樹木を抜き家屋を倒し野に青菜を留めざる事あり。又時雨は一定せず乍らにして雨乍らにして晴且つ変遷日に幾回なるを知らず。又其晴雨の際頓に気候を変じ人をして太だ不快を感ぜしむる事あり。

【戸口】戸数は二百八十一戸人口は九百九十九人内本籍人員五百三十九人寄留人員四百六十人なり(明治二十年十二月三十一日調査)村落は父島にあるもの十五、母島にあるもの三なり。

【人情風俗】本島人民は内地移民と帰化人とより成立つ者にして其数十年前にありては実に南洋に於ける弾丸黒子の無人島たるに過ぎざりしも輓近移住の数年一年より倍蓰し各所に一部をなすに至れり。而して其内地の移住民は伊豆七島及八丈島の人其過半を占め遠州信州の人之に次ぐ。島民の生業は更に一定せず。或は山に猟し或は海に漁し其稍可なる者は或は耕作牧羊等に従事し以て僅に各自の衣食を図るに過ぎず。故に資金を抛ちて開墾殖産の事業を拡張し以て遠大の計画を為さんとするが如きは絶無にして偶々奮発事に従はんとする者あるも資金の不充分なると日傭賃金(一人金三十銭以上)の高価にして得失相償はざるとに依り着手の事業も半途にして抛つもの此々見る所にして実に九仞一簣の嘆なき能はずと雖も抑々亦勉強耐忍の気力に乏しきの至す所なり。是を以て終には単に天産物に依頼し或は外国船の入港を奇貨とし僥倖の利を博せんとするに至る斯の如き懶惰浮薄なるは是れ父島に行はるる弊風なり。母島にありては大に其趣を異にし住民は伊豆七島の者多きに居り一般土着の目的を固守し開墾耕作に励精し其俗固陋質朴にして頗る愛すべし。今や文運聖代の恩波は遠く孤島に及び民人の知識知識も稍々発達し大に旧時の体面を一洗し或は羊豚を飼養し或は玉蜀黍を儲蓄し以て非常の予備に供せんとするあり。或は製糖菓物殊に海産物等を輸出して以て貿易を拡張せんとするあり。或は農談会を開き殖産事業を討究し或は余暇には子弟を胥率ひ庠序に入りて斯文に精励するが如き。亦昔日の観にあらざるなり。両島人民の服製は多少帰化人より感化せられ極めて粗なる西洋服の如きものを着し徒跣にして帽を戴けり。諸店の業を営むもの僅に二三に過ぎず。故に諸客は渡船の際米鹽器具等を携帯して自炊の労を執らざるを得ず。帰化の人民は在島数十年の久しき此土に棲息し自然土着の目的を固守するが故に子孫繁殖し壮年の者多くは此島に生れたる者なり。言語は概ね英語にして西暦を用ひ往々内地の語に嫻ふ者あるも其稍々文字を解し得るは酷だ少なし。之を約言すれば其俗固陋野鄙にして更に白哲人種たるの状態を存する事なきなり。然れども其蕃薯野菜等を耕作し又は山海に漁猟し以て其糊口に充つるに巧妙なるのみならず外国捕鯨船の至る毎に之に牛豚其他の野菜菓物等を売買し多くの利潤を得るに至る。故に万金を蓄積する者往々之ありと云ふ。然れども只管之を守りて活用するを知らず。而して其自己の土地財産を愛惜するの念深き内地人民の此にあらざれば将来恐るべきは実に此人種中にあるが如し。殊に近来は斯文に熱心し既に遠く内地に遊学するものあるに至れり。又現に島庁の吏属に班する者あり。人気は甚だ温和にして能く謙退の風に富み且つ忍耐勉強は遠く内地人民の及ばざる所なりと云ふ。衣服は男女を論ぜず。四季共に襯衣と狭袴を着け草帽を戴く婦人は欧装にして髪を束ね大櫛を挿み巾を蒙ふれり。而して男女共に靴を用ひず徒跣能く山河を跋渉す。食物は玉蜀黍甘蔗魚類鶏豚野菜等を最上の共膳とし或は海亀を鹽漬となし之を地中に蓄へ以て終歳の常食とし其油は燈火及割烹用に供す。又島民一般に火酒煙草を好む事甚しとす。宗教は神仏を信仰する者各々相半ばす。帰化人民は各其生国の聖教を遵奉す。家屋は皆地中数尺下より柱を建て棟桁等を組合せ四壁皆棕櫚の葉を以て之を覆ふ。蓋しサンドウィッチの建築に模擬せりと云ふ。屋内は居室寝室の二区とし厨庫は屋を異にす。卓椅及什具は欧米風を用ふるも其製甚だ粗悪なり。此等の器具は概ね鯨猟船に就き野菜鶏豚等を以て交換し得る所のものなり。又「カノー」と呼べる丸木船あり。幅凡二尺長一丈乃至二丈許にして片舷に板羽を施し「セール」を以て之を覆ふ。櫂は大さ杓子の如く馳行頗る快速にして島内の来往及漁猟の便多く之に由ると云ふ。