日本語の国際化

―小笠原諸島欧米系島民の言語生活の歴史と実態―

ダニエル・ロング

 

日頃は私より若い学生を相手に話しをしているので、今日のように年輩の方を前にお話をするのは大変緊張します。

私は、アメリカの南部、テネシーで生まれ育った人間です。最初、中学で旅行した時、私の英語を笑われて「お前はどこの人間だ」と言われたことがあります。

その時、或いはその前からでしたが、言葉というものに興味を持って、言葉の美しさ、言葉の醜さ、面白さ、武器としての言葉、人を傷つける言葉、喜ばせる言葉等々、いろいろな側面に興味が湧いていきました。日本では、千葉から関西に行って、また、関東へ来て、再び関西に戻り、大学院に行って今の仕事に就いたのです。ですから、日本でも割合いろいろな地域に暮らしたので、その地方地方の言葉の違いに気付くようになりました。アメリカでの言葉の違いにも興味が湧いたのです。

こうして、日本の方言の勉強をしてきたのですが、数年前、小笠原諸島に住む欧米系の日本人―日本国籍を持っている―存在を知りました。彼等は日本語も使うが英語も日常生活で使っていたというのです。これは私の研究で面白いテーマになると思って研究を始めることにしました。

小笠原諸島というのは、東京から船で25時間(空港はありません)、東経142度、北緯27度ですから、与論島と同じで、熱帯の島、日本本土よりマリアナ諸島に近いわけです。1830年にハワイから白人男性5人、ハワイの男性5人、ハワイの女性10人、計20人が、父島に渡った。当時、イギリスもその他の国もこの島には関心がなかったので、生まれた子供も無国籍でした。日本も余り関心は示さなかった。白人の男性というのは、イギリス2人、アメリカ、デンマーク、イタリア各1人でした。

彼等の間では、英語が共通言語として使われたのですが、英語を母語とする人は3人しかいなくて、少数派でした。彼らが島に住みついて10年、1840年に日本人の船乗達が難船して父島にたどり着いたことがあった。彼等が帰国後提出した報告書から、英語とハワイ語の単語がまざって使われていたことが解ります。その後、世界中の人々が、ポルトガル、スペイン、ドイツ、フランス、アメリカ、グアム、イギリス、ハワイ、等々ヨーロッパ、太平洋から人々が集まってきたのですが、共通の言葉として使われるようになったのは英語だけでした。そうすると、推測するところ、一種の接触言語が生まれたのではないか。それはどういうものかというと、2つの言語を話す民族が接触しますと、お互いの共通語がありませんから、身振り手振りを混ぜながら、コミュニケーションをとるよりない。こういう接触が長期化すると、片方が相手の言語をだんだん覚えてゆきます。例えば、私と日本人が無人島に辿りついたとします。だんだんお互いの言葉がわかるようになる。自然に覚える。そうすると、相手の言語がだんだん上手くなる。間違えると相手が直してくれますから。しかし、民族が三つ以上になると、かなり結果が変わってくる。1人が英語、1人がハワイ語、1人がドイツ語しか知らないとすると、例えば、ハワイ人は英語を使えるようになる。ドイツ人もかなり、文法的に簡略化されたといわれる「ブロークン」なものでも英語が使えてくる。ハワイ人とドイツ人も英語で話し合うようになってくる。つまり、母国語以外の言語を使いますが、直してくれる人はいない。この小笠原―父島―でも同じ現象がおきた。英語が共通語になりましたが、英語を母語とする人は少ないから、彼等同士も「ブロークン」な英語で話すよりない。「ブロークン」とはすなわち、彼等の母国語に影響された英語を言う。ドイツ語に影響され、フランス語に影響された英語になります。こうした状況が続くと自然にある共通性がみられてくる。こうして生まれる言語を接触言語といっています。

それゆえ、この島では英語が使われていったといってもそれは標準英語ではなく、他の太平洋の島々で使われていた接触言語と同じようなものと考えられます。

このように世界各地からこの島に人数はすくないが、人々が集まってきたのですが、日本政府は、1862年、明治以前から本格的な入植計画をたてた。最初は失敗でしたが、1875年には再出発して日本人による入植が始まったのです。そこで、この島には、だんだんフィリピンや中国の人も住んでいたので、非常に国際性の豊かな社会が形成されたのです。まず、学校教育ですが、非常に画期的な教育が行われた。当時の日本政府としては不思議に思われるが、最初、英語と日本語で教育をした。明治11年に校舎を建てて、教室で英語でも教えるという方針をとった。これは、現実的だったのですが、欧米系島民と八丈島を中心に、内地からきた日本人と同じ学校で勉強する事になりました。そこで、若い欧米系島民との二重言語生活が始まったのです。二重言語生活とはすなわち、家で話す言語と学校で話す言語が違うことを意味する。そのうちに日本人の数が在来の人の何倍にもなります。学校では日本語、家では英語―或いは英語の一種―を使う事になる。彼等が成長すると、この島は、日本の領土であると認められることになるので、就職、出世の為には日本語を習得しなければならなくなる。そこでまた、父島で言語接触が起きたわけです。パターン化された文法が出来ていた欧米系島民の接触言語と日本語がぶつかって、父島特有な日本語が生じたのです。現在でもその欧米系島民が使う日本語は、内地の日本語と違う特徴的なものになっています。八丈島の言葉の影響も、英語など他の言語の影響も非常に強く出ている。これで第二段階の言語接触が始まった。日本語の文章の中に英語の単語を用いるという言葉が使われていた。大正・昭和になるにつれ、欧米系島民は徐々に日本語だけの教育を受けることになってきました。

  これとは別に、キリスト教の教会が1865年代に建ててくれて、礼拝もあったが、日曜学校もあって、牧師が日本人―八丈島系―の若い人にも欧米系の若者にも英語を教えたのです。これは戦争が始まる迄続いていました。ところが、戦時中、だんだん戦場が近くなって、島民は内地に引き上げる事になったのですが、当然、八丈島系の和人だけでなく、欧米系の島民もその中に入っている。白人の顔つきで町を歩いていても島ではみんな知っていますから問題なかった。ところが本土へ引き上げて埼玉、千葉ですが、怖くて家から出られなかったといいます。顔つきは白人系で、自然な日本語を話しますから、さてはスパイと疑われたということでした。

戦争が終わると、暫くアメリカ軍の管轄下に置かれたので、内地で疎開していた島民は、帰れなかった。ところが欧米系の人達はねばり強く交渉して1946年に島に住む事を米海軍に認めさせた。それでも、大多数の人は島に戻れなかったのです。米軍は島に基地を作りました。軍人が数十人駐留することになりました。さっき言った欧米系の人達もそこで生活したわけです。全部で130人位でした。その人達もその先祖から日本国籍だったので、最初米軍も学校など作ろうとしなかった。島は秘密基地の相を呈していたのです。米軍が1956年に作った学校は、島にいた軍人の子弟のためのものですが、島民の子供もここに通うようになった。アメリカの学校で英語で勉強することになったわけです。元々、英語が使われていたこの島が日本領になって、また、アメリカの管轄下に置かれたため再び英語が使われたというわけです。こうした言語生活が23年続きました。家の中では日本語、学校では英語という二重言語生活になった。日本語といっても標準的な日本語とは少し違っていて、彼等の一人称は全部meで、meschoolに行くということになる。2人称は「お前」の他に、youも使われました。学校では、日本語を使うと先生にかなりきびしく注意されたそうです。

1968年に小笠原諸島は日本に返還され、八丈島系の島民も島に帰れるようになりました。そして、今度は日本の学校教育が行われるようになった。欧米系の子供達は、日本語に近い言葉を使っていたので話をするのには困らなかったが、問題は語彙力でした。単語の数は限られていたわけです。日本語の読み書きも難しくて、大きな問題になりました。もう1つ困ったのは、英語で、日本人の先生が英語を教えるといっても欧米系の子供達はなかなか承知しなかった。このように最初、英語社会だったものが、明治以来、日本語社会となり、また、英語になって、再度日本語の社会になったので、この人達は被害者でしたが、今年の6月に返還30周年になるわけです。

欧米系の島民と話しをしていて出てくる訴えは、日米両国にはさまれて運命を決められなかったという悔しさです。それに耐えてきた柔軟性も強く感じます。言葉の面でもそうです。日本語もできるし、家庭内で使ってきた混合言語もできるし、標準の英語も出来る。こうした三重言語話者もなかにはいます。

こういう言語社会が日本語の研究にどのように役に立つかというと次のような理由があります。

日本社会は孤立していると言われるのですが、言語の面では、接触の繰り返しできています。接触の面で生じてくる課題が問題です。漢字も、外来語も他の言語との接触によって生じたものですが、逆の現象もありますし、さむらい、芸者―最近ではカンバン方式―日産自動車やトヨタで使っている専門用語、或いは感性―知性に対するものですが―ふさわしい単語がないので、これが英語で使われている。相撲、歌舞伎、能と関係する言葉も使われているわけです。ですから、これも言語接触による影響というのは、したがって、言語接触は、一方通行ではありません。日本語も、漢字や外来語が入ってくる以前から他の言語と接触しているに違いない。ただしそれは三千年、五千年前の話になりますから、知るのは不可能に近いわけです。しかし、言葉の接触には、起こりやすい変化と起こりにくい変化があります。文法は変わらず、単語が変化してくることが多いのです。そして、文法も変わりにくい面、変わりやすい面もあります。

この父島、小笠原諸島で起きた言語接触はまだ比較的新しいものです。そこで、独特な日本語が欧米系の人々に使われている。その特徴を調べることによって日本語の「核」の研究も出来てくると思いのです。

数十年前から日本の方言の重要性を再認識する動きがありました。方言はそれを使っている話者の人格、地方の性格等を現わすにも重要といわれていますが、この欧米系の島民にとっても、父島の独特な日本語は自分達を表現するにも最も適したものだと思うのです。その記録、収集、分析はとても大事なことだと思っているのです。

                                        (大阪樟蔭女子大学日本語研究センター助教授)