小笠原の夏
著者 北原白秋
年代 1918
初出 『文章世界』13巻8号
愈々小笠原の夏がきた。
暑い、暑い、朝っからもう日中だ。今朝などは目が覚めると、溜らなくなって飛び起きた。空中が油煙臭くて思わず胸がむかむかする。昨夜、ラムプを消し忘れたのだ。頭がモジャモジャするので両手で掻きむしると大きな油虫が二三匹飛び出した。黒蟻までがポロポロこぼれ落ちる。油虫にも弱って了ふが、蟻から頭の毛に群られるくらゐ気味の悪いものは無い。蟻と言へばある内地の画家が島の農家に泊った夜中の事である。シュウシュウといふ音に目が覚めると、小暗い油果の下で、おかみさんが床の上に起き直って、長い髪の毛を逆さまにしてシュウシュウと櫛で梳いてゐる。驚いて何為たんですと声をかけると、いえの、蟻を梳いてますじゃあよと答へたといふ話を聞いたが、それは事実である。全く身顫ひがする。
蚊帳をまくると、油虫の羽音が雨の降るやうだ。バナナの腐った臭ひや饐ゑた甘蔗黍の汁の臭ひがいっぱいする。
階下へ下りてゆくと、この宿の白髪のお婆さんが竈の下にしやがんでブウブウと火吹竹を吹いてゐる。白い浴衣を朝つから肩肌脱ぎにしてゐる。俎板の上では包丁や甘藍がガタガタ動いてゐるのだ。動かしてゐるのは油虫の密集団だから凄くなる。
ところが、不思議な事には、この島には蚤や虱は一匹もゐない。蝿はゐる、それはすばらしいものだ。裁判所の書記のAさんの話に拠ると,未だ夜が明けない頃に、天の一方で、電車の曲る時にギイと音をたてるそっくりの音がするさうだ。それは蒼蝿の大円柱で、魚市場だとか、腐れ尽したバナナ畑とか何でも臭気の激しい個所を目がけて突進すると云ふのだから驚く。幸に私は朝寝坊で未だ一度も見かけない。
裏の井戸端へ出て、素っ裸になって釣瓶の水を頭からザアザアかける、それでやっと活き返るのだ。
空をふり仰ぐと、雲一つ無い瑠璃色の丸天井は南洋人の髪飾見たいな椰子の葉の上に恐ろしいほど澄み亘ってゐる。実に何とも云へぬ美しさだ。椰子の葉のてっぺんはさらさらと揺れてゐる。風は高い高いところを流れてゐるのだ。
檳榔葉葺の家の蕃瓜樹の花、紅い仏草花や棚の火のやうな碇草の花の群がり、凡てがまるで真空のやうに明るく、而も乾燥しきってゐる、光耀いてゐる。
全く小笠原の夏だ。今朝もまた昨夜の食べのこしの正覚坊の煮つけを、婆さんが食べさせるかと思ふとウンザリする。
木戸を開けて外へ出ると、道路の白い砂地は既に黄白く輝き出してゐる。下駄は穿いてゐるものの足の裏が熱くて燬けつくやうだ。
と、見ると、不可思議な魔法国の光景だ。幻覚の世界が私の眼の前に燦爛と、而も静謐と平和と微笑とを以って輝き出した。
T字形の街角の正面、挽物細工の店の前、其処には大きな護謨の木があった。その厚い油ぎった葉は原色の青だ。その新芽は犬の陰茎の如くまたは朱の蝋燭のやうだ。その下で、女が立ってゐる。手には荒縄でくくりあげた正覚坊の頭をブラブラさしながら白い麻の帽子を阿弥陀にかぶった白人の漁師と、何やら話している。呑気な話だと見えて、笑顔までしながら、何が何でおじゃるじゃあと、のろくさした古雅な八丈言葉で話してゐる。白人の奴は下向加減に大きなマドロスパイプを啣へて、煙をもやもやさしてゐる。
ブラブラの正覚坊の頭の綺麗さはまた格別だ。青、黄、緑、瑠璃、翡翠、寧ろ毒々しいほど鮮かである。
鶯が啼く。鶯が啼く。
千年に一度しか咲かないと云ふすばらしい蘇鉄の花が咲いたと云ふ、山から見つけ出して切って来たと云ふ。見に行って御覧なさいと人が云ふので、日中だったが、つい近所なので見に行った。恰度、Mといふ雑貨店の向ふの家で、平常はあまり見すぼらしいので、何を為る家かとも気がつかずに通り過ぎた檳榔葉葺の陰気な平屋だが、今日は何だか家の中が光り耀くばかりに明るい。
板張りの座敷に(此島には畳を敷いた家は官舎の他には一軒も無い、宿屋でも板張の床の儘である。偶には其上に莚だけ敷いてある。壁なども内地のやうに土では無い。板か檳榔葉かである。)大きな大きな恐ろしく大きな蘇鉄の花が之もまた驚く程大きな素焼の鉢に、まるで神様の様に祭られてあった。
花ばかりだと云ふが、高さが一間の余もある。鳳梨を何百と積み重ねたやうな茶褐色の花だ。それを黒ん坊の婆や真黄色ろい日本の娘や白人の漁師共が掌を合はせるやうにして蹲踞んで覗き込んでゐる。
肩と肩とをすり合して、眼を皿のやうにしてゐる。
よく見ると、まるで生き物だ。生不動のやうに燃え上がってゐる。香気と云ったら悶絶しさうだ。むしろ苦しいくらゐの芳香である。
それに、蕭々として黒蟻の幾千万が密集して匍ひ上ってゐる。
蘇鉄の花にも驚いたが、凄まじい黒蟻の密集団体には全く身体がガタガタ顫へえるほど驚いた。
黒人のアレキサンダア・イサベラ婆と云ふ名ばかり西班牙の女王らしい婆がゐる。その婆のお喋舌ときたら、天井のお星様おりお喋舌だ。この暑熱にこのお婆さんにつかまったが最後、誰でも死ぬほどの苦患を嘗めなければならない。
それにもう一人、ママの海岸といふところに、今は癩病の西班牙の老貴族の婆さんの僕で、昔は人を食ったと云ふ黒人のコペピイ爺の娘にアギネスと云ふのがゐる。この娘のお尻の大きさときたら二擁へもある。このアギネスがある時独木舟に乗って、あの大きな飯杓子のやうな櫂でガボッガボッと漕いでゐると、何でも大きな岩礁にドシンとぶつかった、その拍子に、驚いた事にはお尻の力で舟が二つに裂けて了ったといふ話だ。(尤も小笠原の独木舟は底だけ刳ってあって、両側は板張である。)このお尻ではこの暑熱には全く溜るまい。
小笠原の夏は全く此の二人で象徴してゐると云っても差支えない。
ただでさへ光沢の強い色々の樹の葉が、夏になって愈々油ぎって来た。浜桐の葉などはてらてらしてゐる。それに護謨やモモタマやの豊麗で、部厚で肉太な樹の葉の色の深さったらないのだ。
七月になって、又島中のタマナの白い細花が咲き盛った。香水の原料になる花だと云ふが、全くその花の満開する頃には島中が香水の島になって了ふ。
山上の枯草にしろ、両手で揉みにじると、掌が香水に涵したやうになる。西洋にも枯草と云ふ名の香水があるさうであるが、恐らくかうした草の匂いがすであらう。
夏は、殊に、日中は対岸の山の向うから湧き出する入道雲がまるで金色になる。荘厳な仏画に見るやうな金色の雲だ。
光線の鋭さと云ったら無い。道路の白い砂(それは人間の脊髄骨のやうな砂ばかりだが。)も、椰子や護謨の樹の幹も全く金色に反射する。
裸の人間の身体もだ。
今日はO湾の浜辺へ行って見た。
海の色の麗らかさ、それは何とも云へぬ澄み亘った瑠璃色だ。濃厚で豊麗で光輝に満ちてゐる。裸の子供どもが二三人泳いでゐたが、その肉体が鮮やかな紅色になって見える。こんなに美しい人間の肉体を見た事は無い。
その子供どもが海から上ると、正覚坊の生洲に飛び込んだ、引汐時なので、十幾頭の大きな正覚坊は甲羅も何も干からびたなりだ。のろのろして重なったり、離れたり、眼をほそくしたり、首を延ばしたり、匍ひ廻ったりしてゐる。その甲羅の上を子供どもが、ちんちんもがをしたり、飛んだり、走ったりする。まるで飛石見たいに思ってゐる。
正覚坊こそ災難だと思ふ、それでも呑気なものだ。相変らず恍惚微妙の体をしてゐる。殊に交尾して重なった奴は、その下の雌は流石に苦しいだらうと思ふ。それでも重なった儘だ。
この砂浜からメリケン松や竜舌蘭の防風林を抜けると、人間の背丈ほどの万年青が路傍に並木をしてゐる。それに四五尺の茎が一本づつ出てゐて、大きな花魁のかんざしのような白い花が盛りは過ぎたが、まだ咲いてゐた。蟻がやはり根本から上り続けてゐるのは驚く。
前の女郎屋の井戸端には、浴衣がけの怪しい女どもが何かべちゃくちゃ喋舌くりながら、だらしない風をして、洗濯したり、歯を磨いたりしてゐる。もう彼是お午なのに。随分寝坊もあったものだ。
隣の缶詰工場では、大釜に正覚坊を煮つめる臭ひがぐらぐらしている。黒人のヂョウヂ・ワシントンといふ名ばかりの大統領が相変らず、杓子で大釜の中を掻き廻してゐることだらう。
此頃、何処へ遊びに行っても、赤いトマトばかり出す。小笠原のトマトは全く新鮮で、鶏肉のやうないい味だ。
トマトと云へば、私はある時、とある人の気も無い山坂を登って行くうちに、急に折れ曲ると、向うから赤いトマトを竹の籠に山盛りにして、それを両手で擁へてよちよち上って来る六つばかりの子供にパッタリと行き当った事があった。
その子供の神々しさ、まるで頭から御光がさすかと思った。思はず掌を合せたが、あれこそ仏の童子といふのだらう。
それほどの天上の光が強く、トマトが燃え上ってゐたのだ。
正午。――下の座敷で、昼餐を一人でポツリポツリと食べながら、何気なく、板塀の上の空を見てゐた。何が私の眼に這入ったか。
其処には檳榔葉葺の向ふの屋根だけが見えた。その上にてらてら光ってそよりともせぬ護謨の喬木が見え、肉太の大きな葉の無数が寂寞たる白日光耀の中に葉と葉、枝と枝とを垂れかぶさしてゐるだけだった。その間から、梢の上から空が見えた。麗らかな瑠璃色の夏の空が。
と、ピカピカ光ったものがある。それが光っては上り、光っては下りする、とまた葉に留っては急に落ちかけたり、空へ飛んで行ったりする。それは翡翠玉のやうな一点光である。
表の通りは閴寂として物音一つしなかった。
ふと、しくしくと歔欷きする声がした。
驚いて、立って、庭の木戸を開けて見廻はすと燬けるやうな白い道路の真ん中に金髪の眼の碧い色の白い、まるで護謨人形のやうにくりくりして可哀い小さな白人の子供が、涼しい色のシャツを着けて、裸足のままで、両手を眼に当ててゐた。泣きじゃくりしてゐるのである。
『どうした、どうした、』と云ふと、急に声を高め乍ら“Want”と泣く。『泣くな、泣くな、何が欲しいんだ』と、頭を撫でると、
“I want Dai-fuku-mochi,”と云ふ。
見ると、眼に当てた両手の一方の小指に細い糸がついて、その糸が真直に天上さして登ってゐる、それが些かのたるみも無く緊張する丈緊張してゐるので驚いて、眼を空へあげてゆくと、これで解った、その糸の尖端に青い玉虫がゐるのである。
子供が泣くたんびに両手が眼から上げ下げする。そのたんびに糸を引っ張り下ろされ、落ちかかると、また飛んで行っては護謨の葉へ縋りつくのである。そのピカピカだ。
夏はいよいよ酣である。