小笠原島新誌
 
著者 大槻文彦
年代 1876
 
「人民」
 
天保元年、欧米の白人五人、布哇島より、其島人、男女十五人許を伴ひ、初て父島の洲崎に移住す。〔所属論を見よ〕後、各地に分住し、其後、欧米人、南洋島人等、鯨船に乗り、来り止まり、或は死し、或は去る者あれども、多く、島中の布哇(ハワイ)婦を娶て、子を生み、又、母島に移る者もありて、人口漸く繁殖す。其人口は、天保元年、初渡の時、二十人許にして、其十三年に至り、其多く殖するを見ず。嘉永六年の夏、父島に三十一人あり、皆、大村、奥村、洲崎、北袋沢に住す、内に、英米各四人、葡萄牙(ポルトガル)十人、南洋人二人、其他は、布哇人と島に生るる子女なり。文久二年は、父島の大村、奥村、境浦、洲崎等に、合計十戸、四十一人あり、内に英四人、米仏葡各一人、他は、其子女、及び布哇人、南洋人なり、其余、扇浦に、我移住人、二十余戸、四十余人〔八丈人、男二十三、女十五〕あり、母島は沖村に英、独逸人、各一人、及び其子女と、布哇人、一戸十四人なり。明治六年の春は、父島に、六十八人、大半小児にて、内に米英仏人あり、其他、母島に、米人、南洋人二人あり。〔是は、同年ピースが、横浜にての談にて尚、パアレ島にも、米人、布哇人、二人ありとすれど、疑わし〕明治八年の冬は、父島の大村、奥村、境浦、扇浦、洲崎、北袋沢、南袋沢、南崎等、合計、十四戸、七十一人あり、〔男三十七、女三十四〕内に英、仏、独、葡、各一人にて、三十余人は、島に生るる小児なり、内に、又、内地の婦二人あり、島人を夫とす、是は明治六年の頃、ピースが、横浜より、欺き携べし、六人の中にて、四人は帰れり、同時、母島の沖村に、独逸人と、布哇婦と、小児と、一戸三人あり。
布哇とは、サンドヰッチ島の本名にして、洋人、カナカ人と通称す、男女、皮膚毛髪黒くして、眼大なり、又、白人の子女も、其体格、南洋人に類せり、南洋人は、面に黥(いれずみ)する者もあり。白人は、皆欧米種なれども、無頼の徒多く、徒為に日を送るが故に、愚且懶惰なり、又、政府無く、法制なければ、自由に似て自由ならず、争論屡起り、教育無ければ、文字を知らず、然れども、気候の健康に好きと、沃土労少くして食を得るとに安じ、敢て、其地を去るの念なく見え、又、多年交易の利に、若干金を積む者もあり。一般に、英語を用ゐ、西暦に依り、洋銀を通用す。
家屋は、皆、地中数尺の掘建柱にて、棟、桁等を組み、外面、皆棕櫚の葉を以て覆ふ、蓋し、布哇の製なり、屋内を住室、寝室の二区とし、厨、庫、皆、屋を別にす、什器は、略欧風なれども、工匠無ければ、粗悪なり、鯨船に就き、纔に、器服を得て珍用す、白人は、卓椅を用ゐ布哇人は盤坐す。衣服は、男子、綿、毛等の襯衣〔シャート〕と狭袴〔トローゼルス〕のみを着け、草帽を戴く、婦人は、欧装にて、髪を結び、大櫛を挿み、巾を蒙る、男女、多くは跣足なり。食物は、甘薯、魚類、鶏、豚、野菜なり、又、ウミガメを塩蔵し、或池中に畜へ、その油を、灯火、及び割烹に用ゐ、終歳の常食とす、故に、島人、常に其臭を帯ぶ。
耕作の地は、今、二十町歩許あり、尚、多く拓くを得べし。最も多く甘薯を作る、土を二三尺に堆くし、其芽を春に植ゑ、秋に収む、自用の外、鯨船に売る、小児、乳に乏しければ、粉末にして、煎じ養ふ。水芋は根茎を切て、渓沢の水中に植う、一年にして、根一塊を為し、根塊、茎、葉、内地の芋塊の如し、美ならざれども、食ふに足る。又、ウミガメは、春夏の交、雌を繋ぎ、海に放ち、雌を誘ひ、鈎を以て、日に数十頭を穫る、夏秋の交、雌亀、子を産まんと、日暮に沙浜に上るを捕ふ、捕獲最も易く、性、遅鈍にして、噛む事無く、但し、前に向へば、力最も強けれども、尾より覆へせば、容易なり、仰げば、復た動く事能はず。
カノーと呼べる丸木船あり、巾凡二尺、長一丈乃至二丈片舷に、板羽を施し、覆へるを防ぎ、小帆を用ゐ、櫂は、大なる杓子の如く、頗る、迅疾にして、母島等の往来、皆此に依る。婦人、木鱆の葉、及び幹の繊維を以て、席を織る、又蔓生の者を席とす、アンヘラの粗なる物の如し。鯨船の出入、常に絶えず、破損あれば、港内の沙浜に於て、修補する事あり、島人、皆、鯨船と交易す、売る物は、野菜、鶏、豚、ウミガメの甲等なり、求むる者は、衣服、器什等、最も酒類を望む、但し、少年は、絶えて酒を飲まずと言ふ。
天保初度の白人五人或は去り、或は死し、米人セーボレ一人存し、其同行マザラ氏の寡婦を娶る、此婦は、ラドロン諸島中グアム島の産なる美少婦なり、然るに、嘉永二年の秋両梔船〔スクーネ?〕、此に至り、悪漢数人、数十日滞留せしが、甘言を以てセーボレを欺き、後、襲ひて金銭日記等を奪ひ、其婦、及び一少婦を掠め去る、然るに、後、此悪漢等、布哇のホノルルに於て、捕へられしが、其婦女は此の難に安して帰るを望まず、セーボレ、後布哇婦を娶れり。此人、島人中、稍、事を解し、字を知り、自ら島長の如し、嘗て、甘蔗、甘薯を以て、酒を醸し、柚橘を以て、酢を製し、潮を煮て、塩を作り、又、鯨船と交易して、利を積み、賊難の後に、尚能く生を営せしが、明治七年、奥村に死す、年七十九、子孫、島に存せり。
英人ヱッブなる者、嘉永二年、父島に来り住す。同年英人シェオルシ・ロビンソンなる者も、亦来て、ヱッブと同居せしが、安政の初、母島の沖村に移て、其地を拓けり、後数年、妻孥を携へ、グアム島に移る、是より先き、英人マトシも亦父島に来往せしが、安政四年、代て沖村の地を占し、然るにロビンソン、再び、グアム島人数人を伴て帰り、初め、マトシと相和して住せしがマトシの婢キッテの煽動に依て忽ち争端を起しグアム島人は、却てマトシに帰し、マトシの食客英人ボッブは、却てロビンソンに帰し、時に文久元年、グアム人、先づロビンソンを襲ひ、ボッブを殺す、ロビンソン、時に、男女数児ありしガ、相携へ、一方に逃れ、通行の鯨船に救われて、今尚、布哇島に在り、然るに其の一男二女は、其婢と、一方に逃れ十一月間、海岸に潜み、貝肉桑実を食ひ、疲困を極めしが、後、亦鯨船に救はれ、二見港に移り、ヱッブ之を庇し、後其一女に婚し、次女は、米人ピースに嫁し、其一男、尚父島に在り。マトシは、慶応二年、母島に死し、婦人キッテ、尚、同島に存せり。又ヱッブは、嘗てピースに欺かれて、カロリン島に移りしが、今、帰て南袋沢に在り、島中、文字を知る者は、唯此人のみと言ふ。
英人ホルトンなる者、初め一船を持せしが、後、英国海軍に入り、コッペンハーゲンの戦、及ネルソンの尼耳〔ナイル〕の戦に出で、後、又、米国海軍に入り、嘉永六年、彼理に従て、此島に来り、廃疾を以て、自ら、請て止る。此人性暴戻なり、文久中、我鯨船、島に在るとも、嘗て、島人を雇ひしに、島人、賃金を取て、船を逃れ、尚、船中に在る其所持品を取らんとし、ホルトン、島人を助け、短銃を持し、共に本船に至りしに、船長之を制し、ホルトンの短銃を持するを見、乃ち縛して横浜に帰り、米国公使に送付せり、然るに、当時、外国交の情体、終に米国領事の枉断を受け、官、已む事を得ず、ホルトンの為めに、千円を償ふ、此人、時に年八十、後二年、横浜に死せり。英人ピースは、明治二年より、父島に在て、両梔船トリ号等二隻を以て、屡、横浜に往来交易し、又、布哇島にも、往復す、性、兇悪にして、島人、皆横虐に困みしが、明治七年十月、其扇浦の家より舟行中に、溺死か暗殺か、其影を失ふ、同時ネグロ人、スペンセルなる者、、ピースと同居せしが、其妻と通じ、ピースを殺すと疑はれしに、明年六月亦其跡を失ふ、蓋亦暗殺なり。
凡そ、鯨船中、無頼の徒、其労役を厭ひ、上陸して、山中に潜み、数日食はず、其船、去るを窺ひ、再び、他船に乗り、去るあり、或は止るあり、島中此等無頼の徒、多きが故に、屡論殺あり、嘗て、一島人の談に曰く、其在島、二十五年間に、非命に死する者、十一人を下らずと。