ペリー日本遠征日記(抄出)
 
著者 Perry, Matthew C.
原題 The Japan Expedition 1852-1854
年代 1868
訳者 金井圓
 
  小笠原諸島 一八五三年五月十六日〜十八日〔嘉永六年五月八日〜十二日〕
 
 快適な航海ののち、六月十四日、木曜日の明け方に、われわれは小笠原諸島 Bonin Islands を認めた。また、これより先サラトガ号の曳き網が解かれていたが、その際、ウォーカー Walker 中佐はポート・ロイド Port Lloyd〔二見港〕に向けて先頭を進むよう指示された。両船には水先案内人が出向いてきていたが、午前一〇時には同港にわれわれは投錨した。港に向かって走っている時、二隻の捕鯨船が島々の間を巡航しているのが見えたが、一隻はアメリカの旗をいくつも、他の一隻はイギリスの旗をいくつも、それぞれ掲げていた。この地は船を思うままに巡航させるのにうってつけの場所らしく思われる。周辺には他にも何隻かの船がいたにちがいなく、実際には、檣頭からさらにもう一隻の帆船が見えた。
 小笠原諸島は、北緯二六度三〇分と二七度四五分との間に、ほぼ南北の方向に伸びており、群島の中心線は大体東経一四二度一五分である。おもな島々、というよりすべての島々は、英国船ブロッサム H. M. S. Blossom 号のビーチー Beechey 大佐により、すべてのイギリスの探検家たちがもっているとの定評のある謙遜さと公平さとを以て、名づけられていた。彼は北にある島嶼群をパリー群島 Parry's Group と呼び、三つの大きな島から成る中部の群島を順次にピール Peel 島〔現在の父島〕、バックランド Buckland 島〔兄島〕、ステイプルトン Stapleton 島〔弟島〕と名づけた。また南の群島をベイリー群島 Bailey's Islands と呼んだが、そのとき彼は、自分自身次のように述べている事実をまったく無視していた(†)。
 
 南の群島が一八二三年にコフィン某氏 a Mr. Coffin の指揮する捕鯨船が停泊した場所であることは、明らかである。彼はその島の位置をわが国に伝えた最初の人で、しかもその港に自分の名前をつけた人である。しかし、群島にははっきりした名称がつけられていなかったので、私は天文学会 the Astronomical Society の前会長フランシス・ベイリー氏 Francis Bailey, Esquire にちなんで、その名をつけた。
 
† 手許にビーチーの著書がないので、私はフィンドレイの『太平洋人名辞典』(Findley, Directory of the Pacific)から引用している。
 
 ピール島の主要な港には、彼はロイドという名をつけたが、これはそれ以前からすでに知られており、しかも、すでに早く十七世紀の信頼すべき記述〔後述のケンプェルのそれを指す。〕さえある同群島に対する、一八二七年偶然にここを訪れたこの訪間者〔ビーチー〕による、まったく勝手な名誉の分配であった。
 この群島は明らかに火山性であり、地下ではまだ火山活動が続いている。いまでも生き残っている最古参のこの島への移民、ナサニエル・セイヴォリ Nathaniel Savory (*1)氏は私に、年二、三回は地震を経験している、と語った。島々、あちこちの岬、島の付近の離れ岩の数々は、きわめてグロテスクな形をしており、城や塔や動物などすべて、想像し得る限りの恐ろしい外観を呈している。これらの地質学的な岩層群は非常に古いものにちがいない。というのは、われわれは断崖のなかに多数の運河状の水路があるのを認めたが、これを人はノミを使って切り刻んであるかのように想像できるからである。これらは明らかに、溶岩が流れ出て冷却し、さらに雨期に山々のあちこちの側面から海に向かって激しく流れる奔流の浸食もしくは研磨によって滑らかにされてできた溝の数々なのである。
 島の至るところに見られるこのような溝は――そこには大気の助けでいつも流れている水の動きも何ら物質的変化を生じないでいるが――それでも独特な階段状の形を保っている。見る人は、山々の頂上へ登ったりそこから下りたりするのに便利なように、人間の手で堅い岩を切って作ったひとつづきの階段を見ているかのように想像できよう。
 たしかに、この群島が示す以上に地質学者の研究意欲をそそるところは、どこにもないだろうと私は思う。それらはもちろんトラップ質(*2)の岩から成っていて、もともと火山の起源と関係をもっているが、私にはこれらの岩塊を組成している数個の要素のちがいを区別するに十分な鉱物学上の知識はない。それでも、科学者の研究に資するためいくつかの標本を採取しておいた。
 ポート・ロイドは西側に位置し、しかもピール島のほぼ真中にある。船の出入りは楽であり、安全で便利な港であると考えられるが、艦船は深い錨地のうちでも通常一八〜二二尋のところで投錨することになっている。
 港は、ビーチーの海図では北緯二七度五分三五秒、東経一四二度一一分三○秒のところに記されている。この位置は誤りである、と私は思う。サスケハナ号の艦長〔F・ブキャナン中佐〕により二度行われた観測によると、経度は東経一四二度一六分三○秒であり、ビーチーのものよりざらに五マイル東寄りにあるからである(*3)。
 ルッシェンバーガー Ruschenberger〔その著書の四四○ページ〕に従えば、ビーチー大佐は六月八日から十五日までブロッサム号にとどまり、しかもこの港と全諸島を測量したとのことである。このような短期間では、かくも広大な海岸についてはほんのあわただしい観測以上のものはできなかったものと思われるが、それにもかかわらず、ポート・ロイドの海図は多くの点で正確である。
 もっとも安全な投錨地は、水の深さや、方向を転換したり錨索をゆるめたりする余地に注意しながら、船がぐあいよく入っていけるぐらいの港の奥に見出されるはずである。初めて来た人びとでも、調査することによって、船舶を曳き綱で引いて行ける格好な場所をたやすく見つけることができるのである。
 この港への進入に関するビーチーの指図書は充分に正確である。彼のいうキャッスル島は簡単に識別できて、よい目印となる。右舷の海岸すなわちサザン・ヘッド Southern Head を舷側に見ながらこれに沿って行けばよい。ただし、絶壁から一五○ないし三○○ヤードぐらいのところで海面下八フィートのところに横たわっているひとつの小岩を避けるためには、岸から一ないし二鏈(ケーブル:一鏈は一○○尋、約二○○ヤード)は離れていた方がよい。私はサザン・ヘッドの絶壁に、丸印で囲んだSの文字をペンキで描かせたが、それはこのSから真北にある岩を避ける方角を示すためである。
 薪と水とは豊富に入手できる。もっとも、薪は乗組員が伐採して、もちろん生木のまま船上へ運ばなくてはならない。水は流れている小川から得られるが、質は良好である。
 ピール島に今なお残っている少数の移住者たちは――他の島々は無人であるが――かなりの量の甘藷、トウモロコシ、玉ネギ、タロイモ、及びわずかの果物を育てている。果物のなかでもっとも多いのは、西瓜、バナナ、及びパイナップルである。わずかの豚と若干の家禽類も育てられている。これらの産物を彼らは、水やその他の供給を受けようと絶えずこの港に立ち寄る捕鯨船に、いつでも売る用意ができている。われわれがロイド港に停泊していた四日の間に、三隻の捕鯨船――二隻はアメリカのもので、一隻はイギリスのものだったが――が船用舟艇を使ってこの開拓地と連絡をとり、一般に〔船上の〕物品と交換して手に入れた多くの供給品を運び去ったが、そうした物品のうち、火酒 ardent spirits〔強い蒸溜酒〕は移住者たちの多くの者に一番受けがよい。
 もしも働き手が不足していないなら、現状よりもはるかに広大な土地が耕作されるだろう。現在島全体で耕作されている土地は一五〇工ーカー以上ではないはずである。それも遠く離れた地点、普通は新鮮な水をたたえた峡谷が海に面して尽きる末端のところや、あるいは港近くの台地にあるのである。
 土壌の質は耕作にはもってこいのもので、マデイラやカナリヤ諸島(後者は同じ緯度圏にある)のものと非常に似ており、それ故、ブドウや小麦、タバコ、甘蔗、その他多くの価値ある植物の栽培に見事に適している。砂糖やタバコについては、開拓者たちはすでに自分たちの消費に充分なだけ栽培している。
 建築用の林木は、どちらかというと不足していて、もし人口が増加して多くの建物の建設が必要となろうものなら、すぐに底をつくことであろう。最上のものはジャマナと野生の桑である。前者はブラジルやメキシコのアメリカ杉に似ており、非常に耐久力がある。
 私は二組の士官たちに島をくまなく踏査させたが、彼らの報告書は他の類似の書類と共に正式に綴じこんで保存されるであろう(*4)。本艦〔サスケハナ号〕の艦長もサラトガ号の艦長〔W・ウォーカー中佐〕もまた、港を調査した。
 海鳥も陸鳥も稀にしかいないのを誰もが不思議なことだと思った。ほんの五、六種類の陸鳥が見えただけである。なかでも普通のカラスとハトとが一番大きいもので、その他のものは小柄である。カモメやその他の海鳥をわれわれはほとんど見なかったが、カツオドリが数では一番多かった。島に着く前に、わずかだがウミツバメがいるのに気づいたが、この鳥は異常に大きく、しかも目立ってきらきらと輝く羽毛をもっていた。
 四足獣のうちでは、われわれは豚、山羊、鹿、去勢牛、羊、それにいくつかの犬と猫を数えることができる。ジャングルに迷いこんだ猫や豚の多くは、野生猫、野生豚の名で畏れられており、それ故、犬を使って追い立てられる。少数の鹿と山羊は、二、三年前、移住者によって北の島、つまりステイプルトン島に移されたが、山羊は驚異的にふえた。
 牡牛、牝牛、羊、そして少数の山羊が、繁殖させる目的でサスケハナ号から揚陸された。二頭の牡牛と二頭の牝牛は、ピール島の北側にあるサンド Sand 湾に、また二頭の牡羊、五頭の尾の太い上海の羊と、六頭の山羊は北の島に揚陸させられた。バックランド島にはかなり多数の豚がいる。移住民は他の二つの小さな島に山羊を入れたので、やがて幾千にもふえることだろう。
 ポート・ロイドの港やその付近の水域にはすばらしい魚がたくさんいるが、これは釣針や引網で採れる。しかし、海岸のあちこちに連なっている礁脈のため、引網を引くのによい場所はほとんどない。ポート・ロイドで引網を引くのに最良の場所は、十尋の穴 Ten Fathom Hole の砂浜で、そこには一つの小さなはっきりした地点がある。魚の種類は数えきれないほどではない。サスケハナ号の引網で採れた魚のうちには、五種類しか認められず、ボラ(これが一番多く)、スズキが二種類、ダツ、及び普通のエイがあった。サメが非常にたくさんおりほんの小さいころには、岸近くの珊瑚の岩の間の浅いところに出没する。そういった場所で、サメはつかみ道具で追いかけられ、捕えられ、そして岸に引きずり上げられるのである。
 食用具のうちではチャマ・ギガス Chama gigas(シャコガイ Tridacna)を除いて何も知ることができなかったが、それも非常に硬く消化しにくいにちがいない。その他の有殻類はたくさんいるが、珍しいものは何もない。もっとも、甲殻類は一層広範囲にわたっているが、その種類はおもに、さまざまの大きさ・形・色をした陸ガニに限られている。一番数の多い種類は普通「海賊」といわれているもの〔ヤドカリ〕である。これらは、背中にみにくい住み家をくっつけてうろうろしているのが岸近くの至るところで見られる。この住み家を使うようになったのは、彼らがわざわざ選んだというよりはたまたまそれになったものと思われる。これら巧妙なペテン師のお気に入りの住居は、長さ約一・五インチのラッパガイ、ホラガイ、及びナツメガイであるが、しかし、思わしい住居の見つからないときは、仕方なくどんな種類の家にでも住みつくのである。動き回るときはいつも、頭とはさみとは突き出していても、この動物の尾の部分は柔らかくて、隠れ家のなかにあることが必要なようである。この動物が、殻に住んでいた住人を攻撃し滅ぼしてしまってからその住居をとりあげるのか、あるいは自然の住人が事故のためか死のためか前以てそこから立ち退いてしまった殻に住みつくことで満足しているのかは、判明しない。
 ビーチー大佐が「徒渉者」"Walkers"の湾と呼んだところに上陸したとき、私はこれらのかぶとをかぶった小柄の動物が食物を求めて四方八方歩き回っているのを見て、大変愉快であった。われわれ一行はこの地で食事をしたが、食事の残りものはこれらの「海賊」たちの大変なご馳走になったにちがいない。料理のひとつは蒸焼きの豚であった。誰かが、まだ食べるところのある前足の肉を取りあげて後へほうり投げた。二、三分後に、これを見張っていたアダムズ中佐は、このまぎれもない骨が神秘的な方法で動いているのを見たのである。調べてみると、一ぴきの「海賊」が目方の重い殻にもかかわらず、骨をつかまえ、これを背にのせて、せっせと引っ張ってゆくところだったことがわかった。「海賊」をつかんでみると、彼は頑固に首をにぎりしめていた。
 小笠原諸島の水域にはりっぱなザリガニ crawfish がたくさんいる。また同じようにアオウミガメもたくさんおり、われわれはこれを船に十分貯えた。
 ケンプェル Kaempfer によると、これらの島々は早くも一六七五〔延宝三年〕には日本人に知られていた。そして日本人はブネ・シマ Bune Shima〔無人島〕の名前で、魚やカニ――カニのなかには長さ四ないし六フィートのものもいる――がたくさんいるところとして記述した。このカニの記事から、彼らはこの地でありふれている巨大なアオウミガメとカニとを間違えているものと考えさせられる。その他の記事でも、日本人がこの諸島を発見したのはもっと初期のころであったと記している。とにかくイギリス人は、彼らが発見したのだと主張するだけの微塵の権利も持っていないのである。
 
  ケンプェルからの抜粋〔一七二七年英語版、六九ページ〕
 一六七五年ごろ日本人は偶然にも非常に大きな島を発見した。日本のバルク船の一隻が嵐のためファツェヨ Fatseyo 島〔八丈島〕からそこへ押し流されたが、彼らはその島が八丈島から東方三〇〇マイル離れたところにあるものと計算した。住民には出会わなかったが、島はたいへん快適かつ肥沃の地で、真水の供給が充分で、またたくさんの草木、とくにアラック樹〔檳榔樹〕が繁っているが、この木は島が日本の東方というよりはむしろ南方にあることを、当然推量する余地を与え得ることに気づいた。これは暑い地域にだけ育つ木だからである。彼らはこの島をボニン・シマ Bonin Shima と呼んだが、島には人が住んでいないことを知ったため無人の島という文字でそれを表わしたのである。海岸で彼らは信じがたいほどたくさんの魚とカニを見つけたが、カニのうちには四ないし六フィートの長さのものもいた(†)。
† 疑いもなくカニをウミガメと間違えている。M・C・ペリー。
 
  クラプロートの翻訳した『三国通覧図説』からの抜粋〔二五六〜二六二ぺ−ジ〕
 これらの島々の本来の名はオガサワラ・シマであるが、世間一般にはムニン・シマ(シナ語ではウー・ジェン・タオ)つまり「住民のいない島々」と呼ばれ、これが本書のなかで私が採用している名称である。オガサワラ・シマすなわち小笠原諸島の名は、最初にこの島を訪れ、その地図を作成した航海者にちなんでつけられたものである。同じ方法で新世界の南部はマガラニアと呼ばれたが、その名になった人〔マゼラン〕はほぼ二○○年以前にその地を発見したのである。
 ボーニン諸島は伊豆国の南西二七○里〔原典は辰巳三百七十里――訳者〕のところにある。同国の下田よりミヤケの島〔三宅島〕までは一三里あり、そこからシン・シマ〔新島(にいじま)〕つまり新しい島までは七里、シン・シマからミクラ〔三倉島、いまは御蔵島〕までは五里、そこから八丈島までは四一里、そして最後にそこからこの住民のいない島々の最北端まで一八○里、最南端までは二〇〇里ある。
 八丈島とボーニン諸島との間の海域には他に五つの島があり、そのうちの一つはむき出しの岩である〔原典は五つとも「一大石山ニシテ産物ナシ」〕。ミクラの島と八丈島との間にはクロ・セ・ガワ、つまり「黒い深海の海流」〔黒潮のこと〕と呼ばれる非常に流れの速い海流がある。これが非常に速く流れるために、舟人たちは、ここをこの海域で乗り越えるのにもっとも困難な航路とみなしている。それは地図に見られるとおりである。
 この群島を構成している大小さまざまの島や岩は総計八九あり、そのうちで大きいものが二つ、中ぐらいのものが四つ、そしてこれより小さいものが四つある。これら一〇の島々は土地も広々としており、草むらや樹木に覆われ、その高地は人間に快適な住居を与える。残りの七○の険しい岩々は、人が住めるかどうかを確かめるための調査はまだ充分に行われていない〔原典は、人が居住できず、ただ「産物ヲ探ルベシ」とある〕。
 この群島は北緯二七度のところに横たわり、気候は温暖で、高い山々の谷合いは渓流で灌漑されて非常に肥沃であり、そのため豆類、小麦、粟、すべての種類の穀物、及び甘蔗を産する。ナンキン・ファセ〔ハゼ〕つまり蝋の木(Stillingia sebifera)と呼ぶ木がここで育ち、また蝋樹も育つ。漁場はりっぱで、非常に生産力のあるものにすることができよう。
 たくさんの草木・大木がこの島々には生えているが、四足獣はほとんどいない。ひとりの人が両手を伸ばしても抱えきれないほどの大きな喬木があり、この木は高さ三〇尋(つまり二四〇フィート)もあり、材質は硬く美しい。またシウロ〔シナ音ツォウ・リウ、棕櫚すなわちヘンプ・パーム〕つまり Chamaerops excelsa に似た非常に丈の高い木が若干、椰子の樹、檳榔樹、その実をシナ語で自欒子(ペクアンツィ)という木、カツラウ〔原典は「カチャンノ木」〕、紫檀、ツム〔榎木の誤り〕、樟木(クスノキ)、山のイチジク〔原典は「山柿」〕、背丈が高くその葉が蔦〔原典は「藤」〕に似た木、肉桂の木、桑、その他数種がある。
 草には山帰来(サンキライ)と呼ばれるサルトリイバラ Smilax china(つまりチャイナ・ルート〔土茯苓〕、当帰、アサガオ花という名の薬草、及びその他のものが数えられる。
 島にはインコ、ウ、ヤマウズラそれぞれの異種、及びシロカモメに似ているが長さは三フィート以上もある鳥がいる。これらすべての鳥はほとんど獰猛でないため徒手で捕えられる。
 この群島の鉱物界のおもな産物は明礬、緑礬、五色石、及び諸種の石化物である。
 海には鯨がおり、また巨大なザリガニ(†)、大きな貝類〔原典は大牡蛎〕、及び「海のきも」と呼ばれる海胆(うに)もいる。このあたりの大海は異常なほど豊かで、さまざまの産物がある。
 
† シナ語で大海老つまり「海の老人」という意味。日本語ではオオエビである。エビはザリガニを意味し、シナ語の hai hai〔海亀?〕と同義語であるが、この名は普通には竜蝦と呼ばれている大きな海ザリガニにつけられた名前である。ケンプェルもまた、その第一巻で、時には長さ四、五フイートのものもいる大きなザリガニがムニン・シマにいると述べている――クラプロートの原注。
 
 延宝 Ghen-fo〔一六七三―一六八○〕の第三年(一六七五)に、三人の長崎の住人シマエ・サゲモン〔嶋谷市左衛門〕、ビソ・サゲモン〔中尾庄衛門〕、シマエ・ダイロ・サゲモン〔嶋谷太郎左衛門〕は伊豆国へ航海した。彼らは熟練したシナ人大工によって建造された大型ジャンク船〔原典は「唐船仕立」つまりシナ型の船〕に乗り込んだ。これら三人の者に天文学と地理学に精通していたが、さらに江戸港の船大工頭で網の小路に住むファトベ〔江戸小網町ノ大工八兵衛〕を伴った。この船は三〇人の水夫によって操縦された。帝国海兵隊から通過証を得て〔原典「御印ノ旗ヲ賜テ」〕、第四月第五日〔原典「閏四月五日」、従って五月六日に当る〕に彼らは下田港を出帆して八丈島へ向かった。そこから南東方へ進み、八〇の島々の群を発見した。彼らは地図を作成し、これについて正確な記事を書き、そこにはこの群島の位置、気候及び産物に関して詳細が入念に記してある。
 同じ年の第六月第二十日〔八月十一日〕に彼らは下田に帰帆し、同地で彼らの航海の報告書を公けにした〔原典は「此ニ記ス所ハ彼ノ嶋谷家ノ記録ニ拠モノ也」とある〕。
 三倉島と八丈島との間にある黒潮という速い海流について、この著者が少しも指摘していないのは奇妙である。この海流の幅は二〇町(約半里)を越え、約一〇〇里という非常な速さで東から西へ流れる〔原典は「東西百里ニ渡リタル大急流」とあり、速度ではなく距離を示す〕。もしこの海流の速さが冬春よりも夏秋に一段と少なくなかったら、このことが省略されていることは説明がつかない。シマエはボーニン諸島への航海中、第四月の次に来る閏月の初旬にこの海流を通過した。帰路には、第六月の下旬に当り、彼は比較的速くない海流に気づいたにちがいないから、彼の注意はこの難所に向けられなかったわけである。
 八〇の島々のうち、最大のものは周囲一五里で、その大きさは壱岐の島よりもやや小さい。もうひとつの大きな島は周囲一〇里で、ほぼ天草島の大きさである。これら二つの島のほかに、周囲二ないし七里の島が八つある。これら一○の島々には、平らな台地があって人が居住できる。しかも、そこには五穀が非常によく育つ。天候が温和で耕作に適していることは、地理的位置から推論される通りである。これらの島々は、さまざまの価値のある産物を出す。残りの七〇の小島は単に険しい岩々で、何物をも産出しない〔原典「少ク物ヲ産スル也」〕。
 有罪を宣告された罪人の一群がこれらの島々に送られ、そこで働かされた。彼らは土地を耕し、畑に種を蒔いた。彼らは集められて村をなし、そして帝国内の他の国々で見出されるのと同じものを持参してきていた。人びとはこの島を訪れ、同じ年にそこの産物を持ち帰ることができる。このようにして貿易は容易に起るだろうし、そこから引き出される利益は相当額であろう。このことは万人に明らかにされなくてはならない〔この段、原典とはかなり相異がある――訳者〕。
 安永年中(一七七一〜一七八○)私は委任を受けてフィセン(肥前)国に送られ、そこでアアレント・ウェルレ・ヘイト〔アレント・ウィレム・フェイト Arend Willem Feith〕というオランダ人と知り合いになり、彼は私にある地理書を見せてくれたが、その本には、日本の南東二〇〇里のところに、著者がウースト・エイラント Woest Eiland と呼ぶいくつかの島々があるとの記事があった。ウーストとは人がいないということで、エイラント(原文の読み方はヱーランド)とは島のことであるとのことである。著者はまた、これらの島々には人は住んでいないが、さまざまな草や木がそこにはある、と述べている。日本人はこれらの島々のひとつに植民地を建設してもよく、そこには五穀その他の産物が育つであろう。そこへの航海の長さにもかかわらず〔原典は「海遠カラザル故」〕植民地の建設は、彼らにとってこれらの目的のため有益であろう。オランダのコンパニヤ〔会社〕がこの島々を領有したところで、彼らが使用するにはあまりにも小さく、しかもあまり遠すぎるので、ほとんど利益を引き出せないであろう。
 私はこれらの〔へイトの〕言葉は記憶されるに値するので、これを繰り返すのが適当だと思うし、またこれらの言葉を以て、ボーニン諸島に関して私が言わなくてはならないすべてのことの結論とする。
 
 この島々の初期の発見という問題について私が言うべきことはもっとたくさんあるだろうが、いまはただ、右の二つの抜粋に書かれている記述は現在のこの諸島の外観と正確に一致している、と一言するだけで足りる。アラックすなわち檳榔樹は他の多くの熱帯の木や草と同様、ピール島にある。
 なお一六七五年に日本のジャンク船が偶然訪問したという、ケンプェルの説明をさらに確かめるものとして、私はセイヴォリ Savory 氏から、約一三年以前四〇トンぐらいの小さい日本の船が、日本沿岸から風の勢いで追いやられてポート・ロイドに入港したことを教えられた。船には乾した魚しかなかった。その冬じゅう島にとどまり、その船は春になって帰路についたが、そのとき定住者たちによって食糧が無料で供給されたという。
 約五年前にもまたあるフランスの捕鯨船がステイプルトン島の沖を遊航している時、陸上に煙を発見し、その地点へ小舟一艘を送ったところ、困りきった状態で日本のジャンク船一隻とその乗組員五人――それだけが生存者であった――が難破しているのが発見された。彼らは船上に引き取られてポート・ロイドに運ばれ、そしてその後、彼の言明するところでは、その親切なフランス船が彼らを日本列島のひとつに上陸させる意図をもって運び去った、とのことである。
 サスケハナ号の士官たちの一隊が、ステイプルトン島を訪れる途上、偶然にもこの船の残骸を見た。以下はその士官たちのひとり、ハイネ Heine 氏の報告である。
 
 われわれが上陸した小さな湾で、われわれは一隻のジャンク船の残骸を見つけた。船体は大きな銅の釘ではぎ合わされ、そして、その上に幾片かの銅板を釘づけしてあった。これらの材料からそれらは日本のジャンク船だと私は断定した。その残骸は甲板の両端がほとんど擦りへったり壊れたりしていないので、そんなに古いものではあり得ない。
 
 一八三〇年にサンドウィッチ諸島〔いまのハワイ群島〕から同諸島の男女の原住民少数を連れてやってきた移住民たちのうち、いまも残っているのはきわめて少ない。この冒険の指導者であった白人たちの名前は以下の通りである。ジェノアの人マッテオ・マザロ Matteo Mazarro, a Genoese、マサチューセッツ州の人ナサニエル・セイヴォリ Nathaniel Savory、及びアルディン・B・チャピン Aldin B. Chapin、英国の人ジョン・ミリンチャンプ John Millinchamp(*5)、及びデンマークの人チャールズ・ジョンソン Charles Johnson。
 彼らのなかでナサニエル・セイヴォリが現在この島にいる唯一の人である。マザロは死んで、セイヴォリはこの人の未亡人と結婚しているが、彼女はラドロン群島 the Ladrone Islands のひとつグアム Guam 島の原住民の美人で、しかもまだ大変若くて二五歳である。ミリンチャンプはまだ生きているがグアム島に住んでいる。
 この諸島の貿易上の重要性を長い間確信していたので、遅かれ早かれカリフォルニアと中国との間に設けられるに違いない蒸気船航路のための停泊地としてピール島を推挙することを考慮して、私のこんどの訪問は、かねて自分自身でこの島々を調べてみたい欲望にかられてのことであった。この目的のため、前にも述べたように、私は島内を踏査させ、〔港を測量させ(*6)〕そして将来の需要に応ずる補給を始めようと、この群島中の二島に少数の動物を入植させた。私はまた、いまいる移住者たちにあらゆる種類の園芸用の種を配布し、かつ彼らに農業用具やもっとたくさんの動物を提供できる、との希望を彼らに持たせてやった。実際、私は事務所と波止場と石炭倉庫を作るのに適当な場所を入手するところまで進んだ。
 この興味深い島々にもっと長く留まって、南の方の群島へも探検範囲をひろげることができなくて、私はほんとうに残念であった。けれども、琉球へ戻る必要は至上のものであったので、私は気乗りしないものの、二隻の船とともに、すなわち本艦がサラトガ号を曳航して、六月十八日土曜日の朝、帰航の途についた。そして港を出たのち、ディサポイントメント Disappointment 島へ向けて進めるように命じた。この小島についてはすでに多くの書かれたものもあるので、琉球からの航海の途次に私はその所在を確かめ、これを測定したいと思っていた。幸運にもわれわれはポート・ロイドに到着する前の日の十三日午後に島影を見つけたのである。そしてわれわれはその島に面して位置したが、そのときちょうど夕闇が迫っていたため、目測で測る以外にその正しい位置を確かめる時間はないのであった。
 この理由で私はもう一度、もっと詳細にこの島を見るつもりであった。そして正午過ぎ間もないころ再び島影を前方に認めると、三、四マイル離れたところを通過し、島の正確な位置を正午の太陽観測によって得られた資料に基づいて精密に決定した。いろいろな方向から見たその外観のスケッチも画家たちの手で行われたが、これはその両端から一ないし二鏈のところにある二つの孤立した岩を伴う低い島である。北緯二七度一五分、東はグリニッジから一四〇度五六分三〇秒のところに位置している。ディサポイントメント島とロザリオ Rosario 島とは同一の島であると考えてよかろう(*7)。
ディサポイントメント島、またの名ロザリオ島の位置を確認し終ると、私は琉球への帰航の途中で、ボロディノス諸島 the Borodinos を見たくなったので、海図ではそうなっている位置に従って、同諸島へ向けて直行するように命じた。
 六月二十二日、われわれは真正面にその島々を見つけたが、その近くまでいくと、それは二つの島であり、互いに約五マイル離れて北北東と南南西の方角に横たわっていることがわかった。これらは珊瑚で構成されているが、非常に古いものであるらしい。なぜなら相当大きな木々が高台の頂きに生えていたからである。島の一番高まったところは海抜四〇フィートはあったかも知れない。まわりの海は危険もないように思われた。しかし、海岸には出入りが多いにもかかわらず、安全に投錨できるような場所を見つけることはできなかった。
 人跡は見受けられなかったし、この島々には誰も住んでいないと推測される。南の方の島の南端の位置は北緯二五度四七分、そして東経一三一度一九分であると見積られた(*8)。
 ピール島から琉球へ戻る航海の間じゅう、南南西から南西までの程よい微風が吹いていて暖かい天候であった。実際、那覇を出て以来、風は南と西とから吹き続けており、これによって、われわれは南西の季節風が北方はこの緯度圏まで広がっていることを推測できるのである。
 
*1 セイヴォリ氏は一七九四年七月三十一日マサチューセッツ州ブラットフォード Bradford で生れ、父島には一八三〇年六月二十六日に到着し、一八七四年四月十日にこの地で死去した。S・E・モリソン少将と一九六六年に父島を訪問したとき、私はナサニエルの孫ウィルソン Wilson(一八八七年、ホレイス・ペリー・セイヴォリ Horace Perry Savory の子として生れた)と曾孫ナサニエル  Nathaniel(一九○八年生れ)に会った。
*2 Trappean はトラップもしくはトラップ・ロックのこと〔語源は階段を意味する北欧語にあるが、玄武岩など火山岩で道路工事などの石材となるきめの細かい岩をいう――訳者〕。
*3 けれども、合衆国海軍海洋局 V. S. Naval Oceanographic Office によると、ロイド港(現在の二見港)は北緯二七度五分、東経一四二度一一分としており、ビーチーの方がペリーよりももっと正確である。
*4 この報告書はホークスの『遠征記』に要約されている。〔岩波文庫本(二)一二四〜一三八頁参照〕
*5 この航海日誌では、この人の名はリチャード・マイルドチャンプとなっているが、ここではチョモンデリーによって正した。L. B. Cholmondely, The History of the Bonin Islands(London, 1915)一七ページ参照。
*6 角かっこ内の句はペリー提督によって挿入されたものである。
*7 現在は西之島と呼ばれる。海洋局は東経一四〇度五三分と記している。
*8 現在は南大東島と呼ばれ、海洋局はこの南端を北緯二五度四八分四五秒、東経一三一度一四分二〇秒と記している。