小笠原島通信

 

 

著者  岩崎一舟

年代  1895

初出  毎日新聞(1895) 明治20年3月24日付

 

小笠原島母島にて 岩崎一舟

 

御地はなほ余寒去りやらずと察せられ候、如何その後おん変りも御座なく候や、弟は十二日横浜出発二十四日正午頃無事当母島に着仕候間、御安神被降度候、当地昨今の気候は案外寒く、島民は単衣に袷重ね居候が一般なり、弟も昨今綿入れを着け居候、しかし足袋を穿くほどのさむさでもなく、内地でいへば先づ四五月の心地せられ候、着島匆々、彼所此所逍遥候へば、眼の及ぶ限り樹木茂り緑の色濃く、樹木のなきところには苔むして千年も経たらんと思はるゝ巌岩つっ立ち居候壮観、その合間々々を縫ふて鶯の谷渡り行き、あるは友になり呉れとや人間を怖もせですぐ手の届く樹上に悠然と楽しく謡ひ居候を見ては、恰も身は仙境を辿る歟の思ひあらしめ候、最も此は当母島のみならず父島も同様、四島其声絶ゆるとあらず候、何地も子供の罪など為るは同じく、快然と打ち囀り居る鴬の人怖れせぬをよいとにして、小石を放って打ち落とし候段、無法な所為と見る度毎に胸騒がし申候、当島に於て鶯の人と接近いたし居事実想像せらるべく候、小笠原の小鳥は鶯を外にして、目黒(眼の周囲黒きを以て斯く名く)瑠璃、雉の数種に過ぎず候、

民情は父島より一層葛天氏の民に近きを覚え候、是れ一は大陸(内地)とかけ離れ居る父島より涼きと船舶出入に便なる良港なきが故なるべし、且つ母島の輸出物産は砂糖を措いて他に是と指すべきものなければ、出入の頻繁ならぬも故あるべく候、但し砂糖の輸出高は随分多く当年は二万余噸位輸出いたす見積のよしに有之候、島民の種類は十中の九までは八丈島人にして、他の一部は遠州人に有之候、帰化人は僅に一二戸あるを数るのみに御座候、

若島候て最も遺憾と覚え候は、新聞紙を持参せざりしことに候、今頃戦争は如何ばかり●み行きけむ、内地に在りしころは斯くまでにてもあらざりしものを、波の音を聴くのほかそよとも世間の噂を知ることの得ならぬ孤島に入りては、無闇に世の中が●しく、特に戦争の成り行如何やらむと気になり候事不思議な位に候、島民もわが内地より来りしといふを聞きて、会ふ者語る者、孰れも戦争の詳細を●し候を見ては、扨ても帝国の民なりけりと床しく且つ嬉しく感涙に咽び申候何卒四日便には是非共毎日新聞なり御恵送願度候、

約束仕候事なれば、出来べき丈け委曲報道可申上積なりしが、着島以来俗務繁忙遺憾ながら今回は是にて筆とり申候、次回は屹度詳細通信致すべく候、

山野を散歩候時最も奇妙を覚え候は、炎天の時にても秋時の憶ひいたし候事往々あり、そは二丈余もあるべく見ゆる檳榔樹(棕梠と略ぼ同じ)の下葉枯れたるが互いに摺れちがひ摺れ合ひ軋る声凄じく愕然冷汗をいだす候事も有之、是の裡油然として秋情催すと与に天の一方を眺めて老ひ玉ひし母上が事共瞑にちらつかせ申候、