小笠原島夜話

 

著者 北原白秋

年代 1919

初出 『文章世界』148

 

  一

島の自然観、乃至はその住民の状態に就いて、何か話せとお仰るのですか。それなら差当り小笠原島のお話でもさしていただきませうか。

 『聞いて極楽、見て地獄』と申しますが、決してああいふ離れ島などに内地の人が、永く住めるものではありません。

 小笠原島も元は随分の極楽島だったと、生き残りの黒人の爺などが、ある晩深い溜息を吐いて私に話して呉れましたが、それは或はさうだったかも知れません。その頃あの島々もまた童のやうな生れた儘の島で、そこには紅い崖や緑青色の岸壁や、高い椰子や、林投樹や、モモタマの木の藪などが、澄み徹った瑠璃色の空と海水とに、強烈な亜熱帯の色彩を耀やかしてゐる外には、あの、図抜けて阿呆らしい信天翁や四時婉転として鶯や瑠璃鳥が啼き恍れているばかりで、毒虫一つゐず、太陽は大きく耀やかしく、月も大きく朗らかであり、星も大きく光芒を曳いて、昼も夜もただ燦爛とした自然相を折り続けてゐたのでした。

 たまたま、天明五年に土州の船頭四人、同じく八年に肥前船の十一人、寛政元年に日向志布志浦の船頭栄右衛門とその船子四人都合十七人が同じ一つの無人島に漂流して、永いのは十二年、短かくて七八年、辛さに漂人としての辛苦艱難を共にする内に、その中の幾人かは病死し、やっと残りの人数だけで、覚束ない小舟を造って、やっとの事で八丈島まで漕ぎついたといふ事もありました。その島は今でいふ鳥島かと思はれますが、ああいふ限りの無い麗光の中に在っても、人間は決して人間社会を離れて生きてゆけないといふ大事が痛切に感じられたに違ひありません。

母島の伝説に拠りますと、曾てその島に漂流した内地人のうちで、生き残ったはただ船頭とその妻と、若い船子との三人でした。無人島に男が二人と女が一人です。一人の女は自然と二人の妻になって了ひました。其処は無人島です。人間社会の外です。考へてください。その三人はその時、ただ一つの共同の火を守る事が何より神聖な、また痛切な緊要事でした。船頭とその妻とが洞窟に夜眠る時、若い船子は、一晩中その外に在って、その火を守らなければなりませんでした。そしてまた、若い船子と自分の妻とが夜眠る時、船頭は、しょぼしょぼと目をしばたたきながら、また一晩中、洞窟の外に蹲んで火を守らなければなりませんでした。船頭は老いてゐる。船子は若い。人間は終に人間です。船頭はある深夜、突然激怒と嫉妬に駆られて思はず、自分の守ってゐた薪火を岸壁にたたきつけて了ひました。火が消えて了ひました。その三人の生死の火が。

 所謂黒船の提督ペルリが浦賀へ来て、太平の島帝国を脅かして、一旦本国へ帰ると称して南へ去った後、再交渉の為め北上したその間は、彼は彼の艦隊を小笠原の父島に停めてゐたのだと云ひます。本国へなぞは帰ってゐなかったらしいのです。彼はその島を開墾し、石炭貯蔵庫を建て、部落を作り、後には整然たる三頭政治を布いたと申伝へます。さういふ風にささやかでも人間同士の社会組織が成立すると、ただ絶海の無人島として、人をして恐れしめ凄まじがらせたその島々にも初めて温かな人間の愛情と心音とが燃え立って来ました。人間もまた、その燦爛とした自然の麗光を初めて、安心して目にし耳にし、触れ、嗅ぎ、親しみ出した事も、非常に考ふべきことだらうと思ひます。無論、人間がゐなかった時も、一人二人漂流して来た時も、部落ができ一小社会を形作った後も、その自然の本体には少しの異動があった筈はありません。そこへゆくと寂しいのは人間です。大勢集まって、愛と道義と礼節と相互扶助とで寄り合はねば生きてゆけないのです。何ものの麗光をも感知する丈の余裕も持ちあはせないのです。

 ペルリの艦隊が去った後も、残るものは残ったし、それに船から逃げ上った黒人の奴隷、密漁船員の家族などが相変らず共同的な安楽な生活を続けてゐました。大統領もゐました。無論共和政治です。然しただ部落は小さな一つの部落に過ぎませんでした、それだけ山野の食物は豊富なり、大して開墾せずともバナナもあれば椰子の実もあり、自然の恩恵は少数の人々にとっては飽き足るほど充実してゐました。それに外界との小面倒な交渉は無し、不順な権勢からも圧迫されず、ただ自然と整って来る秩序と無文律の道義的体裁とが、その社会をおのづからな美しいものに育ててゆきました。それで人々もしぜんと珍草奇木を愛翫したり、畑を作ったり、互に遊楽したり、自由に恋慕し合ったりしたらしいのでした。空腹じくなる頃には、工合よくまたペルリの放して置いたのちに、しぜんと繁殖した豚の群集が山を下りては部落の檳榔葺の小屋近くに啼いて来たさうです。それも甘蔗焼酎を飲み合い乍ら、厨房から鉄砲で射ったものだと云ひます。正覚坊にしてからが、その頃は随分と湾内に遊泳してゐたものださうで、二時間も丸木舟で漕ぎ廻れば、三頭や四頭は無造作に手捕りにすることができたし、全くその頃の小笠原島は一種の極楽島だったに違ひありません。

 

 それが明治になって日本の版図になると、すっかり根柢から破壊されて了ひました。警察権と行政権とを一緒に兼ねた王様のような島司と云ふ者が来る。サアベルがガチャガチャ鳴る、小面憎い驕慢な小役人がのさばる。こすっからい喰いつめ者の小商人が入り込む、煩雑な文明の余弊と、官僚的階級思想が瀰漫する、島の民主的極楽境は一方から云へば殆ど目茶々々になって了ひました。それで今まで自由に開墾し得た土地も制限され、あまつさへ花畑も野菜畑も取り上げられ、押し縮められて、以前の島民は遂には島の一方に追ひつめられて、辛うじて生命をつなぐ丈の生活しかできなくなって了ひました。以前はただ物々交換だったのが、一にも二にも金で無くてはならなくなる。遠海魚猟が厳禁される。さうなると、優越人種としての彼らの倨傲心を満足さすべき、何らの生活をも保持する丈の自由さが全然失はれて了ったのです。彼等は帰化せねばならなくなりましたが、彼等帰化人位みぢめなものはありますまい。

 内地人が入り込み、人口が増えるとまた島全般に亘ってもいよいよ煩雑しくなりました。遊女屋も出来るし、警察も出来るし、裁判所も立てば、監獄も立つ、従って罪人も生ずる。

 それでもまだ初めの頃は呑気千万なものだったさうでした。たとへば、骨牌など引いて監獄にぶち込まれた者共が、夜になると抜け出して、浜へ出て卵を生みに上った正覚坊を引っとらへ、それを売り飛ばして、その金で遊女買をして、夜明には澄まして獄窓の中に帰ってゐる。まるでお話のやうですが実際だったさうです。流石に太平洋の真中だからそこは内地と違ひます。

 私がその島に渡ったのは、それから四十年も後の事です。その島へ上ると私は第一に亜熱帯の強烈な光と熱と、熾烈な色彩と、曾て見た事も無い南洋植物の怪異な形態とその豊満な薫香とで先づ卒倒しさうになりました。次いでは、南洋式の丸木舟に驚き、砂浜で

髪毛の虱をむしりつぶしてゐる肥満した黒人の婆に驚き、紅い豆畑に大きな眼鏡をかけ灰色のジャケツに紅いスカートを穿いた白皙人の金髪に驚き、以前は人を喰ったといふ老黒奴の神妙に奉仕してうぃる魔法使ひのやうな西班牙貴族の癩病婆に驚き、丸木舟を大きなお尻で二つに割ったといふ山羊飼の黒坊娘に驚き、ヂョーヂ、ワシントンと云ふ久留米絣の単衣を着た黒ん坊の青年に驚きました。次いでは、また陽物の形した白檀の根っ株ばかり拾ひ集めたり、珊瑚や信天翁の羽根と一緒に、北斎や広重の版画の中に雑魚寝したりしてゐる伝説中の太平の老逸民を見て驚き、次ではまた廃れ果てた監獄の庭に咲き盛ってゐるビーデビーデの花や赤い碇草や仏草花の絵模様に驚き、二三寸も埃がたまって子供たちの芝居の舞台になってゐる裁判所の法廷を見ては驚き、それからすばらしく瀟洒な白尖塔の教会を見て驚き、それからまた完美した植物園と、堂々とした大理石の島司の頌徳碑に驚き、煙草だけは現金で願ひます、他は現金でお買ひ下さる方には二割引致しますと書いた商家の張札に驚き、質屋と乞食が見当らず、若い女と酔っぱらひの見えぬのに驚き、島全体が共産的なのにも驚きました。

 それにまた、蝮その他の害虫もゐず、蛙もゐなければ蛞蝓もゐずただ油虫と蟻の猛勢なのには驚きましたが、雀と鴉もゐず、鶯ばかりが内地の雀ほどに啼き競ってゐる麗明さにも驚きました。それに獣としては山奥にペルリの放した鹿の子孫とかが二匹ゐるばかり、あとは牛と山羊と猫と鼠の少々だと云ふのにも驚きました。

 かう云へばまるで極楽世界のやうですが住み慣れて見ると、流石に島は島でした。せせこましい小地獄。

 第一にみじめなのは帰化人の部落で、何もかもが幻滅の悲哀の底に陥ちこんで、生気も無ければ金も無く、食うや食わずで南洋のグワム島あたりに移住するのが相次ぐ有様でした。残ったものは殆ど日本化して了って、日本人の娘と結婚する事を何よりの光栄として、その鼻息ばかりを窺ってゐました。監獄と裁判所とが荒廃したのは東京のそれらと合併したので、罪人が一人出れば巡査が遥々一人は附いて上京するので、高が煙草の葉一枚発見されても東京地方裁判所に廻される。つまりは莫大な巡査の旅費だけが殖えて来るといふややこしい事になって了ってゐたのでした、それに島司の頌徳碑は島司自身が島民を強ひて自身を祭らせたので、いつぞやは巡検の侍従の前で赤恥掻いたといふ話もあります。

 島に若い娘がゐないのは、ただ一時の虚栄に走って都会の空に憧れて奉公に出払って了ったので、酔っぱらいがゐないのは金が無いので酒も飲まれず、たまたま夫婦喧嘩でもした小役人が、その晩すぐと遊女屋に飛びこめば、とくの昔にその喧嘩の次第が相手の女に知れて居り、質屋が無いのは質に入れれば、たちまち島中に知れわたる。乞食になりかけると、直様、内地に追っ払はれる。共産的で面白いと思へば、すべての利潤の多い生産業は殆ど島庁の事業で、うまい汁は島司が吸って、あとはただ辛い奉公といふだけだし、何さま島中の総現金が二千円といふ哀れさで、そのせち辛さは想像にもつかないだらうと思ひます。

 商店の現金二割引もつまりは現金が無いからです、殆どが物々交換の習慣が残ってゐるので、何もかもカケで、現金は船の入る時払ひ。だから買手が有っても品物が有っても、商人はただ有りませんの一点張、これでは繁昌する目当はありません。ですから諸商売が凡て痺靡して振ひっこは無いのです。

 漁師にしても、どうせ人口には限りがあるので、沢山漁れば値が廉くなる、それで慌てて少く漁ってすぐ引き帰す、早いが勝ちですから、漁業の盛んになるわけもありません。

 百姓の小悧巧と狡るさとも頂上です。冬の最中に茄子や南瓜が生っても、わざと小さいのを東京に高価で送って了ふ。だから島で買はうと思へば凡て東京相場で、目の飛び出るほど高いので、自分の畑でも持たない限りは、バナナ一つでも容易には口に入りません。

 正覚坊にしてからがすぐに殺して缶詰にして送り出す。島の者は漁師で無い限りお裾わけはしてもらへません。牛を一ヶ月に一匹殺しても殺した日に売れ切って了ふので、遅く市場へ行ったものは買ひ損う。一ヶ月に一度の牛肉がこれだから、市場はまるで餓鬼道の騒ぎです。

 鶏卵を食べようと思へば鶏からして東京から取り寄せねばならず。豆腐を食べようと思へば、一週間前に約束して置く。ランプのホヤが壊れれば、別のランプを買はねば、夜も真っ暗でゐなくてはなりません。

 商人の狡猾と奸譎とは、殆ど日本中捜しても、あれほどのところはありますまい。物価は東京の三倍以上だし、物資は欠乏してゐる。たまに予定に三日も遅れて内地からの船が来れば、その以前に早や、島には米も無ければ味噌醤油も無く、菓子も無ければ酒も無い。島民は半死半生です。

 

  三

 だから月に一度、内地からの定期船が入って来る日の騒ぎと云ったらありません。その船は新聞、雑誌、書簡、小荷物、流行唄、あらゆる文明の新消息をもたらして、この無聊で倦怠しきった島をまるで戦場のやうに緊張させ、亢奮させて了ひます。島民は物質的にも精神的にも餓ゑ切ってゐるのです。船がいよいよ着くといふ日の朝などは海抜一千尺の船見山の絶巓に登って、水天のかなたに一抹の煙の上ってから殆ど四五時間といふのは坐ったきりで凝視してゐます。近づいた船がその岬の一角を曲って、いよいよその湾口に入りかけて、ぼうと汽笛を鳴らす時の深厳さもありません。それをきくと、島中がまた、ただわあと声をあげる。

 島中の者が、白皙人も黒奴も顔の黄色い日本人も凡てが波止場に群って、巨大な万年青や竜舌蘭の陰から押しあひへしあひ、新来の客を覗見したり、批評しあったりしてゐます。

 船が出て行って了ふと、島はまたぐったりと疲れて、火の消えたやうです。さうして狭い離れ島の天地が、それからはまた一層、狭く小さく縮こまって了ひます。

 新来の内地人に向っては、その初め好奇と憧憬とを寄せてゐた心が、間も無く理由のない敵意となり反感となり嫉妬となり憎悪となり迫害的に推移して来るのも、一種の島人根性です。殊に島の官権は、それらの人々に向って、全然島の平和を害する擾乱者とし、侵入者とし罪人視し、極端に之を拒避しようとかかる傾向があります。

 私の連の女性の一人が紫色の羽織を着てゐるといふので、島の若い者の性慾を刺戟する怪しからぬとその筋に訴へ出た者もありました。

 殊に島民の『肺病』を恐るることは極端です。而してその恐るべき病毒の伝播者は凡てが内地からのそれら旅人にあるとさへ思ひ詰めてゐます。尤も肺病患者の多くが、南方の極楽島とし、理想郷として、充分の保養を目的に、その地の小学教員、郵便局員などに転任させて貰って来るのも多いのです。然し駄目です。その肺病患者が八丈島あたりに寄港する頃は、もう電報が小笠原島まで飛んでゐます。

  ハイビョウナンニンチウイセヨ

 だから堪りません。その人が島へ上がる頃にはもう島中に知れ渡ってゐて、宿屋でも断れば飲食店でも断る、理髪店へ行っても『肺病お断り』と書いてある。仕方なく泣きの涙で磯浜や、洞穴の中にバナナの葉でも藉いて夜を明し、木の果をあさり、遂には三日とゐたたまれずに帰りの船で追っ払はれて了ふ。さういふ時、島中が眼です。中には宿屋から断られ、困って、土地を買ひ家を買って、いざその家へ這入らうとすると、周囲から立退請求です。自分の家へ自分の身さへ置くに置かれず、草に臥し、荒磯に寝ね、やっと次の便船で帰るには帰れたが、その途中で血を吐いて死んで行く人もありました。さうなると島民の惨酷性も頂上です。

 私は肺病だった私の前の妻と、その友人の同じく肺病だった女性と、その妹とを連れて、殆ど命懸けに身を投げ出して、保養の地を求めに行きました。ところがさういふ風です。私たちは心の底から顫へ上ってただ面と面とを見合せました。秘密! 秘密! どうにでも極秘にしなければ四人とも生き死の残虐な目にあはねば済みません。その間の私の心労といふものは無かったのです。私の妻ともう一人のも幾度か血を吐きました。そのうちに健康だったもう一人のも肋膜炎になって了ひました。丈夫なのはたった私一人です。医者にも診せられません。診て貰ったら、すぐに肺患者だと云ふ事は島中に知れて了ふのです。空気は乾燥する、島中は白眼を以て意地わるく追求する。病人はわるくなる、それを極秘にしなければ命にかかはる。――この間に私たちはまた一文なしになって了ひました。私の小笠原渡海をただ詩人の好奇的遊楽と思って、色々に笑ってゐた人々も内地にはありましたが、今だからすっかりお話しします。そんな呑気な事では無かったのです。

 そのうちに同じく肺患を秘密にしてゐた小学教員が、その病の重くなると一緒に露見して、追っ払はれる。同じやうな郵便局員が死にかかる。それを内地から看護に遥々と来た母親が死ぬ。――目も当てられぬ悲劇が次ぎ次ぎに私達の周囲には起ります。今日は人の身、明日は自分の身の上といふ、その恐ろしい絶望が刻々に私達を青くして来る。たまらなくなって、やっと金の工面をして二人だけは内地に帰し、一旦は妻と居残りましたが、その妻をもまた二ヶ月の末に帰し、いよいよ最後の一人となって踏み止まった時、私はそれこそ一文なし。処は絶海の離れ島です。人情は冷酷、金は無し、これからの苦しさは全くお話はできませぬ。そののち一と月経って私はまたやっとの事で帰航の船に逃げ上がりました。さうして帰って来ると、妻はもう貧乏がいやになったから別れたいと云ひます。何の為めに私はその二三年命を投げ出して苦しんだか。――その後の私は全く、一時は全世界の女性を呪って了ひました。

 この事は追って、私は書きます。

 私が島を立つ頃に、その粟粒ほどの小天地にも、恐ろしい一騒動が起りました。島司排斥の爆発です。それが為めに私までがその渦中に巻きこまれて、殆どその煽動者かの如く島司一派から憎まれました。暴虐と圧政と自派擁護と、それらを、鼓を鳴らして駁撃する所謂正義派なるものも、矢っ張り離れ小島の正義派です。佐倉宗吾郎気取りの某々の如きも結局は哀れな小名誉心の傀儡です。と思ふと気の毒でもあり、をかしくもあり、迷惑でもありました。

 恐ろしい事には、反対派の一人二人がただ何気なく山路で行き遇はして一言二言、何かささやいた、それさへ、その日には役所へも島中にも知れ渡ってゆく事です。

 それそればかりでなく、その朝電報為替が何円誰それに送って来たと云ふ事もその昼には島の商家にはチャーンと知れ渡ってゐます。私もやっと金を送って貰って一息つけるともう、片っ端からせびり取られて了ひました。そしてまた元の一文なしで煙草一つ吸へなくなりました。

 島は浮世離れてゐるやうで、却て、浮世それ自身を、縮図してゐます。

 島の自然の麗色など悠々と鑑賞してゐられるものですか。かうなると自然は人間から思ふさま踏みにじられて了って来ます。

 文明と云ふのも中途半端ではよしあしです。