黒人の夢
著者 北原白秋
年代 1917
初出 『新日本』7巻5号
蟻、蟻、それは恐るべき蟻の集団である。その大きな小笠原の蟻が一匹、乾ききったぼろぼろの赭土の間から、ちょいと出て引込んだと思ふと、今度は、胴長、手長、脚長、一本脚、捻ぢきれ頭、出るわ出るわ。まるで南蛮薬味の粉でもぶちまけたやうに、穴からわしゃわしゃと湧き出して来た。
時は未だ午前、外は眼も眩むやうな光の風である。
その下を今、彼等は右往左往に駈け廻るのである。或者は燬け沈んだ蜥蜴色の石ころを早速にぎらつかせ、或者は萎びた中年増の麝香草に匍ひ上り、又最も皮肉にして敏捷な奴は既に脹満病みの蜜蜂を捕へて銀砂の上にぢたばたさせた。のみならず、岩壁の襞から襞へと巧みに縫ひ走る者、又その頂辺へ出て逡巡する者、こけつ転びつ走り続くる者、又は細ごまと列を成す者、出会頭に物を言ひ、停まり、追ひ縋り、急に逸れて引返す者、凡てが全神経の蠢動を以て、活撥に、著実に、而も最も理性的に、密集し、直行し、四方に走る。而して、ああ其処に、音一つ立てぬ用心深さと人間以上の叡智と愛と秩序とがある。
その中で、最も大きな蟻、それは少くとも最も沈著で最も究理的熱望の所有者らしく見える。それに直覚力の鋭い者、激しく興奮し、又感情を極度まで光りつめた者、その二三が直ぐに続いて、とある岩角から、寧ろ冒険的に、そこにぴったりと盛りあがった或る怪しい肉塊のやうな物に匍ひ上った。それは驚くべき大きな物であった。而もそれは真黒で、何処も彼もすべすべしてゐた。而して張り切るほど円く深く彎曲してゐた。おまけに弾力があり熱があった。そればかりではない、その奥行も知れぬ全面から、又盛んに、異常な生物の臭気と、腐れた葉っぱや甘い果物の芬香とがした。そいつが深い心の心から凡ての表面に脈搏つ度毎に、蟻は弾き飛ばされさうになりながら、辷ってはまた匍ひ続けてゆく。一匹は内側の方に廻った。そこには思ひがけなく肉づけが円くなり、陰がめり込み、他の曲線とかち合ひ、めり込めばめり込むほど暗くなって行った。さうして少なからぬ横皺さへ彫刻されてゐる。それを一周りすると、又、光が彼を盲目にした。確かに何かの胴体である。
一匹は蹣柵として彼方此方と彷徨いてゐるうちに、その面が尽きて、いよいよ骨ばった硬い瘤の上に出た。それを乗り越すと、また円い肉の柱がにゅっと出てゐる。それはふくれあがって逞ましいものだ。こいつはしめたと又走り出すと、だらだらと斜に緩く伸び下ってゐる。だが其処には皺があった。而して下れば下る程、光沢がなくなり、細かな渦毛が巻いて、緊張力がなく、かぱかぱしてゆく。何処までも廻り乍ら走ってゆくと、段段細くなって、急に拡がった。又それが裂けて五つの枝になった。蟻はその分岐点で一寸考へたが、又その一本一本を突きつめずには措かなかった。すると尖端が円くなり、何れにも冷たい蚕豆のやうなものが劃然と白く光ってゐる。確かに何かの腕である。
真直に何処までも登って行った他の一匹は、終にもじゃもじゃの深い唐黍毛の渦巻の中に、殆ど昏睡しさうな自分を見出した。酸っぱい汗と脂と、頭垢とが、息もつけぬほど豊潤な(少くとも蟻には)香気に噎せてゐる。それが、ふっさりと日光を満たし、時として暑い熱風がそれを火花のやうに揺る。全く、これは人間の頭である。
三匹の蟻は暫らくして、喜び勇んで、狂気のやうに三方から引返した。さうして最も隆起した脊骨のある一点で出会すと、犇と人間のやうに頭を寄せて、何か首肯き合ってゐる。そこで彼等は各自の探険の結果を綜合して、全くそれは生きた人間の肉体で、前向きに深く俯伏した姿勢であった事を知り、それは黒人で、頑丈ではあるが、相当の老年者であるといふ委細まで推定したらしい。一匹は急いで引返すと、大きな奴と他の一匹がまた全速力で赤ちゃけた螺髪を望んで駈け出した。と見ると、早くも尻の割目から一直線に細かに細かに点点をうって、無数の赤蟻が蠢蠢と匍ひ上って来る。恰も黒七子の下地に赤い水引草の模様を染め出した如く、一列に幅広い脊中を走る。その声もなき美しさ。彼等は今や将に恍惚として走りつつある。
不意に、その時、黒人の大きな黒い手が背後に廻った、と思ふとぴしゃりと叩きつけた。蟻がぱらぱらと五つの指の間から滾れ落ちる。水引草の点点が一斉に擾れると、生き残った奴等は慌てふためいて、暫らく、万華鏡の麦藁屑の如く鮮やかに散らばったが、また、懲りずまに首筋へ廻る、耳の縁、頚窩に、辷り込む。しっきりなしに下から続いて来る。
空から又、赤い3の字が線香花火の様に乱れ落ちた。この時、両足の間に深く埋まった頭がむくりと持ち上ると、又、真黒い両手が上へ出て、やにはに螺髪の渦巻を掻きむしったのである。
黒人は始めて面を現はした。ポツポツペイである。人間が人間を喰ふといふ、この島きっての悪鬼ポツポツペイである。
人間を喰ったとか喰はぬとか、それは噂である。流石に食人種の血を統けた彼の面は、青銅色の、まるで閻魔大王を黒くしたやうな、見るから獰猛と醜悪とを極めてゐる。が然し、彼とても人間である。額に二本の角も無ければ、下顎に恐ろしい牙も尖ってゐる訳ではない。矢張り黒人竝の形相である。ただ非常に彼の面を凄く見せる訳がある。それは右の頬に蠑螈の赤い四肢みたいにこびりついた切疵の痕だ。それを除いては、ただ髭むしゃの、眉間や獅子鼻の両側に深く彫りつけた皺のいくつが、却て人間らしい温かみと、暗い多年の憂苦とを忍ばせる。
ポツポツペイはまんまるな白い眼王を刮いて、物憂さうに、ぢいっと地上を凝視めてゐたが、何思ったか、不意に大きな口を開くと、にたりとした。
と、同時に足ですっと一躙り、蟻を、ぎらぎらと揺らめき立った陽炎と一緒に踏み躙った。が又、静かにに両手の指を頭の中へ突っ込んだ。
蟻はまた光のやうに滾れはじめる。さうしてばうばうとした髪の毛を掻きむしり乍ら、彼はただ恍惚とそれに見入るのである。
ともすれば深い溜息が出さうになる。抑へても抑へきれない息のはづみが遣瀬なくポツポツペイを苦しめる。深い溜息、それは大地の底から盛りあがって来るやうな、どうにもしようのないものである。さうして何処からともなく、ゆったりとした鈍い波の音がそれに答へる。
彼の背中は今や火のやうにうだりはじめた。日が愈々天心に近づいたのである。
彼はふと、その手をとどめた。
茲に深い白日の光耀の中に、声もなく死骸になってゆく不幸な赤蟻の外に、もう一列蕭蕭と走ってゆく黒蟻がある。それらの蟻は何処から何時から続いてゐるのか、果しも無い。ただ随分の遠距離から来た事は確かである。時時疲れて立停まり、又足を疾めて、乱れず騒がず、全体に緊密な間隔を保って、後から後から続いてゆく。それにポツポツペイの大きな眼がピタリと吸ひつけられたのである。
彼は驚いたやうに、暫らく、凝視めてゐたが、その眸は次第に、それらの精勤な小労働者の行列に追ひ縋った。と、見ると、つい眼の前に節瘤だらけの木の根がくねってゐる。既に無数の黒蟻はその根元に辷りついて、其処から真直に、ただ一本の野椰子の幹を上ってゆくのである。それをずっと上へ上へと仰いでゆくと、凡そ三四丈の高さに、その先頭は見えなくなって、其処には鬱金色の鮮やかな花房が今を盛りに垂れ下って、その上から、八方に開いた長い裂葉が、幽かに幽かに日中の微風にそよいでゐるのである。さうしてそのしゃらしゃらと鳴りそよぐ髪飾の間から、恰度、女の眼のやうに潤んだ空が見える。見れば見るほど、碧く瑠璃色に澄み渡った天の一大円蓋が、円く高く無窮に、無際限に。
ポツポツペイはぼう然とそれを見上げて、暫らくは可笑しいほど野呂間な表情をしてゐたが、何時とはなしに、いっぱいに見開いたその眼の中には、涙が静かに溜って来た。
またしてもゆったりとした波の音がきこえる。その単調な、陶酔と憂鬱とに満ちた、緩やかな大管絃楽は、遠い遠い世界のはてから、物鈍い大きなうねりを織って、ただ、がう……がうと響いて来るばかしである。それは恰度、両手で耳を塞いだ時にきこえる何とも知れぬ大自然のどよめきを思はせる。
ポツポツペイは、放心したやうによろよろと立ちあがった。六尺ゆたかの大男である。腰には汚れた日本の褌をしめてゐる。
小手を翳して、うち見やったが、ただ彼の眼に入るものは、果しも無い幅広の波の連続であった。それはいい凪であった。明るい渺満とした大洋、そこには嬰児でも匍へば匍ってゆけさうな静謐と穏和とが全体に銀碧の光輝を平準して、何処までも何処までも続いてゐた。おお、而してその向うに広大無辺の蒼穹が辷り込み辷り込みつつある。
あまりに晴れわたってゐる。あまりに凡てが玲瓏としてゐる。
飛ぶ鳥の影、行く舟の煙、一つとしてその限界に現はるるものも無く、消ゆるものも無い。ただ満ち隘るるものは光である。光の堆積である。連続である。さうして光は代謝しつつ、陽炎ひつつ、笑ひつつ、喚きつつ、吐息しつつ、又苦しみつつ、闘ひつつある。――さうして眩暈しつつ一切が声を呑んで、鯨の汐噴く真昼を待つ。
ポツポツペイの眼は燃えた。さうして眶毛には露がこもる。
彼はただ遠い水平線の彼方を眺めてゐる。彼は足を爪立てた、伸び上った。野椰子の幹に手を高くあてた。
黒蟻の列が驚いて途切れると、又その皺くちゃの手の甲に匍ひ上った。さうしておどおどしながらつづいてゆく。手が顫へてゐたのである。
これは今日に限った事ではない。この島に来てから、もう彼是二十年の余、星は移り月は変るが、一日として、此処にかうした彼の姿を見ぬ事はない。言って置く、此処は小笠原島第一の高山朝日山の絶巓である。
と、標紗たる尺八の調が谷間に起った。
大きな小笠原の太陽は今しも野椰子の真上に、ぶん廻してゐる。正午になったのである。黄金色の雲が、いつの間にか、南崎の方から時雨山の嶺まで糶り上ってゐる。その山つづきの磽磽たる岩角に高くゆらぐ椰子やタコの木は、宛然、南洋土人の頭飾をつけ、槍や鉾を持ち、彼方に二人、此方に三人と、手を挙げ指ざし、さしまねくかと見られる。
それが一斉にてらてら踊り出した。さうして凹地や傾斜面の黒檀、アレキサンドルの鬱蒼たる中に、たまたま印度更紗の一二片を取り落したやうなのは畑である。無論山の畑は真紅である。それにバナナ、甘藍、茄子、トマトの類、色とりどりに列を正して、明るく、ただ明るく、しかも微風に揺られてチラチラする。その畑に尺八が鳴る。処もあらうに、時もあらうに、チョコレートやパイナップルの香ひのするこの熱帯風物のうち、しかも太平洋の真ん中に、あはれ、ほそぼそと心をこめて、おしょぉろぉ……たかぁしぃぃまぁぁ……と吹いてゐる。百姓家も見える。豆のやうな人間も地面に坐ってゐる。
ポツポツペイは深く頭を垂れ、眼を細め、耳を野犬のやうに開いて、ぢっと下を差覗いてみたが、ふと人影を見ると、くるりと後ろを向いた。
而して彼は椰子から手をはなすと、腹立たしげにぺっと唾を吐いた。
彼の手を越え、指の間を彷徨ってゐた蟻の幾つは、おかげで跳ね飛ばされたが、木の幹では下から又、新らしい蟻が奔りのぼって、忽まちに、その欠所を補った。さうして蟻は蟻とし続いてゆく。
世はさまざまである。麗らかな異郷のバナナ畑に古い日本の尺八を吹く男も居れば、ポツポツペイのやうにぽつんと山上に立って、蟻を相手に深い溜息を洩らすものも居る。蟻は蟻の社会に正しい道義と美しい均勢とを保ってゆくが、ポツポツペイのやうに人間が人間に激しい僧悪と怨嫉とを浴びせかける奴も居る。ポツポツペイは人間と闘ひ人間を殺し人間の肉も臓腑も思ふ存分啖らった男であるといふ。それだけ彼もあらゆる無道な侮辱と惨虐とに遭ったのに違ひない。偽られ、苦しめられ、呪はれ、鞭打たれ、幾度半死半生の間をさまよったかわからぬ。それは人間からばかりでない。禽獣から魚類から、卑怯な虫類から、恐る可き不意うちと毒毒しい敵対とを受けた。のみならず天変が彼を威嚇し、地異が彼を震慄させる。彼を見るとき、自然界のあらゆるものが、又一斉に総毛立って身構へる。彼は憤らざるを得ぬ、用心せざるを得ぬ、復讐せざるを得ぬ。彼は野蛮人の子であった。
彼は生れた侭で、生れた時から人間の赤い生血を啜った。彼は嗅ぐ事に於て犬より鋭く、彼の聴覚は又響尾蛇の如く微妙であった。彼の視野は又鷲の如く、彼の触覚は山あらしの如く粗くして鮮やかであった。彼は又七情の赴くが侭にかめれおんの如く、豹の如く、猫の如く、牛の如く、又虎の如く深く燃え、獅子の如く高く咆哮した。彼は淫蕩で、剛腹で、執拗で、痴鈍で、粗暴でしかも又子供のやうに無邪気で素直であった。
彼に道義を強ふる事は無理である。彼に愛を強ふる事も間違ってゐる。第一彼は愛されてゐない。始終恐れられ、憎まれ、避けられ、笑はれてゐる。彼はこの鳥に於ても退け者である。誰一人日本人で彼に好意を持つ者は無い。ポツポツペイといふ彼の名にしてからが、本来彼の名ではない。それは「無智」といふ蛮語である。彼はこの光栄ある渾名でかの猿より小さな脳味噌を高貴にされてゐる。彼は感謝せざるを得ない。
譬ひ深ひ智識と苦行とを積んだ人間でさヘ、心を空しくして人間を愛し得る事は至難である。彼が如きが彼の境遇にあって、人間を愛し得ぬ事は尤である、無論彼は文明人ではない。文盲である。何等の素養も無い。彼は又何等の体験無くして、一躍して愛の妙諦を捕捉し、演述し、蹈襲し得る程の聡明も血気も芸当も持ってゐない。彼は慾心の奔騰に乗じては、殆ど禽獣の如き所業も敢てするかも知れぬ。然し人真似はした事がない。彼はまた自身が何らかの天才者であるかないか一度だって考へたり、威張ってみたり、悄気たり、泣いたりした事が無い。今に見ろなどと、夢のやうな将来を予期してがんばるよりも、彼は今日だけを思ふ存分に生きさせる。
彼は無論今日流行の人道主義などを知ってる筈はない。若し茲に物数寄な人があって、この喰人鬼のポツポツペイに、トルストイ、ドストエフスキイの名を聞かしたら、彼は恐らく、これ等の高貴にして厳粛真摯なる哲人達を、馬鈴薯、大根、八つ頭の類かと思って一緒に頭から塩をつけてかじって了ふだらう。
然し、彼も年を老った。もう六十を越してゐる。気が折れて来た。人を喰ふどころか却て喰はれかかってゐる。眼が霞んで来る。耳が遠くなる。カが弱って来る。意地も張もなくなる。何か知らんが背後が振り返られて足が進まない。これではならぬといくら踏ん張ってみても、直ぐお腹の底からへとへとする。何でも空虚にしちゃいけねぇ、うんとこ食べさして置けば大丈夫だ、世話はねぇとなる。そこで鮹でもバナナでも海鼠でも何でも彼でも手当り次第に詰め込んだ、が矢っ張しすうと消えて了ふ。何かかう腹の底に蝦蟇みたいな奴がゐやがって下から大きな口を開けてすうとやるに違ひない。其奴が無性やたらに食べて了ふと、今度はぐうぐう鼾を掻き出す。と、又無性やたらに寂しくなる、寂しくて寂しくてたまらなくなる。何を見ても気に入りっこはねぇ。――そこでポツポツペイも愈々鬱ぎ出した。
どう見ても元気がない。昔は人さへ見れば食ひつきさうにしたが、この頃は直ぐに避けさうにする。逃げ出す。でなければ恐る恐る身構へして窺ふやうに寄って来る。この有様を見て誰やらが、麒麟も老ゆれば駑馬に如かずと嘲つたが、まさか麒麟でもありますめぇと頓狂な声を出した奴がゐて、それから大笑ひになった事がある。ポツポツペイも全く耄碌した。さうして愈々憎人より厭人に、彼の思想が変って行ったらしい。恐らく今は彼自身をすら荷厄介にしてゐまいものでもない。
ポツポツペイはまた、元の岩角に凭れかかったが、今度は前と反対に俯伏に、その赤もじゃの頭を南海の海胆のやうに巌の割れ目に転がした。さうして暫らくは吸ひ附いたなりである。それでも今は先程のやうに、背中の蟻をさへ一一に数へ得る程の、静かな心持にはどうしても、返る事ができないとみえて、また苛苛と匍ひ上った。魔気を吐く妖術の蝦蟇が手をついた恰好である。
而してぎろぎろと下を瞰下すのである。
この島たるや、全周僅かに十里にも足らぬ小島である。それが恰も珊瑚礁のやうに中をまん円な湾によって刳り抜かれてゐる。それが大村湾。善くいへば山中の潮、悪くいへば盆景の池のやうな、その綺麗な瑠璃色の波の上を、白い帆を掛けた玩具の独木舟が走ってゐる。陸地はそれで環に成って新月のやう、それも殆ど巌山ばかり、たまたま畑があるかと思ふと真紅で、黒人かとみるとタコの木が彼方此方で揺れてゐる。ただ左手の汀つづきに僅かに平地があって、其処に日本人の部落がある。それが大村。その防風林の燦爛たる、色は紫、瑠璃、青磁、茶褐。樹は浜桐、メリケン松、護謨、モモタマ。その間から檳榔葺の屋根や、ペンキ塗の瀟洒な教会、千木高く秀でた神代風の裁判所、島庁、角砂糖のやうな郵便局、それに測候所のくるくる廻る風見や何かが、まるで極彩色の簿葉鉄細工の模型その侭である。さうして日蓮宗の題目の太鼓までが、明るい墓場山の下から、とろんことんとんと鳴ってゐる。其処には黄色い日本人共がうじゃうじゃと油虫のやうにゐるのだ。先づ、自己の頌徳碑を巡視の侍従に見られて赤面した暴虐な島司、それを見様見真似の小役人、洋剣、又それに阿諛する者、怨嗟する者、排斥運動をする前科者、奸黠な商人、布哇帰りの百姓、正覚坊より愚かな漁夫、それに怠惰で傲慢な白人、意気地なしの雑種児、(この中にお喋舌のアレキサンダア・イサベラ婆、黒人のヂョウヂ・ワシントン、アレキサンダア・ゼセ・アカマン・ツウクラブといふ長い名の日曜学校の先生、ノラといふ娘等、西班牙の女王はさておき、亜米利加の大統領やイブセン劇中の主人公、其他名ばかりは異人豪傑雲の如し。)これに天文学者に駈落者、肺病みと十二指腸患者、江戸は吉原から流れて来た三人の娼妓、継母の幽霊を怖がる牧師、感化院お預りの不良少年、卍巴と入乱れて相鬩ぎ、淫むれ、利用し、欺き、争ひ、相陥れんとして日も之れ足らずである。
『ちえっ、』
天竺徳兵衛の大蝦蟇が、メフィストフヱレスの身振りをして、ひらりと岩から飛び下りた。と、眉間に深く皺を寄せてぬっくと黒く突き立ったポツポツペイ爺の姿となる。
ポツポツペイはぢっと腕を拱いた。頭の上に高く椰子の葉がしゃらしゃらと鳴る。しゃやらしゃらと鳴ると五色の光が細かに細かに降り注いで来る。滴る光を頭から浴びて、彼は汗をたらたら流して立つ。而して静かに身の周囲を振り返る。其処には彼の外に誰一人も居なかった。
山は高い。
が、島は小さい。
宇宙は広大である。
大海は涯しがない。
ポツポツペイは深く頭を垂れた。而してしをしをと、傍に投げ棄てた銛を取り上げると、さながら、沙翁劇に出て来るヴェニスの猶太人のやうに、蹣跚き躓き下ってゆく。海へでも出てみようとするのであらう。
椰子の葉が、さらりんさらさらと鳴る。
扱又、蟻は、確実に、沈著に、各自の規律を守って、相扶け、相愛し、相苦しみ、相励まし合ひ乍ら、更に野椰子の幹を一直線に、なほ高く高く登り続けて行きつつある。恐らく彼等は天までも。