保科孝一(ほしなこういち) (1872―1955)
国語学者。上田萬年の弟子。山形県米沢(よねざわ)市生まれ。1897年(明治30)東京帝国大学文科大学卒業。同大学助手、講師を経て、東京高等師範学校、東京文理科大学教授、1940年(昭和15)退官、同大学名誉教授となる。国語教育不振の原因を国語問題の未解決にあるとみて、終生、国語改良のための国語政策に尽力した。文部省国語に関する調査主任嘱託、内閣国語審議会幹事長などを務めるとともに、雑誌『国語教育』(1917〜40)を主宰、国語教育のうえにも理論、実践両面にわたって数多くの業績を残した。
主要著書に『国語学精義』(1910・同文館)、『国語教授法精義』(1916・育英書院)、『新体国語学史』(1934・賢文館)、『契沖と仮名遣(づかい)』(1942・大日本放送協会出版部)、『国語問題五十年』(1949・三養書房)などがある。[1]
保科は文献研究に終わっている伝統的国語学を批判し、「国語」教育、「国語」政策の場を通じて「国語学」を体系化することを図った。「国語」の簡易化をはかり、標準語、標準文体を制定しなければ、「国語学」が確立しえないと保科は主張した。そのために、ヨーロッパの比較言語学に対 応する「東洋言語学」を構想した。
保科は戦前において、文部官僚として国内における「国語改革」を何度も試みている。そしてその度に「改革派」として山田孝雄・時枝誠記ら「保守派」と対立した。例えば、1905年に表音式仮名遣いの使用、1942年に標準漢字表(漢字節減を意図)の作成を提言するが、それぞれ「保守派」の猛反発(「国民精神の改革として気狂(きちがい)の沙汰」と反論)を受け、頓挫している。「改革派」と「保守派」の対立はそれぞれ、ヨーロッパ言語学(話し言葉、言語学重視)と日本国語学(書きことば、文学重視)との対立であったとも言える。
また、保科は同化政策にも着手している。彼は、ドイツの「ゲルマン化政策」に関する研究を行ない、朝鮮支配に利用しようとした。そこでは、異民族を同化する手段としての言語教育の重要性を説いた。
さらに、「同一民族の話すひとつの言語の内部での『人文的国語問題』と、それにたいして異なる言語を話す民族間の衝突から生まれる『政治的国語問題』とを区別」し、前者が「『その結果において政治上になんらの影響をも及ぼさない』ものである」のに対し、後者は「多民族国家や植民地統治において国家体制の存続にかかわるほどの政治問題となりうる」[3]と述べた。そして、『政治的国語問題』に対しては、民族語を絶滅させるなど、強圧的な政策は採らず、長期的かつ着実に実施し、政策変更が行なわれていくべきであると述べている。
さらに、保科は「国家語」構想を試みている。彼は、多言語多民族国家において統一的な言語体制を構築するために、4つの言語領域(公用語・教育語・裁判語、軍隊語)を統括する「国家語」を法的に規定することを提言した。これに対し、「国家語」が政治の場面に限定されることで、かえって「国語」の地位を揺るがすとして「保守派」のみならず「改革派」からも批判を受けた。
一方、実際の植民地における同化政策は「内地延長主義」を採り、非支配民族に対する同化政策を遂行していったが、一貫した「政策」と呼べるものを設け、それを組織的に遂行することはなかった。
しかも、そこには数点の問題を孕んでいた。
第一に、「国民精神」を自然主義的な概念で規定しようとしていたため、「国民精神」と言語による同化との論理的矛盾が生じた。
第二に「日本語」教育をめぐって国語国字問題の再来が生じたが、「国語」の簡易化に対しては「保守派」による批判が出た。「外国人」教育のために「日本語」を改革しようとするのは、「国語」の伝統への冒瀆であるとするのが「保守派」の立場であった。
第三に、現場の混乱があった。何語で教えるべきかという問題や、「国語」自体の曖昧さの問題は政策レベルにおいては浮上することが無かった。ノウハウが無い中、現場でこれらの問題を解決していくのは非常に困難であった。
結局被支配民族は矛盾が解決しないまま従属的な地位に置かれることとなった。[4]
参考資料
[1] 峰岸 明(1987)安田尚道「保科孝一」『日本大百科全書』小学館
[2] 保科孝一(1952)『ある国語学者の回想』朝日新聞社
[3] イ・ヨンスク(1996)『「国語」という思想 近代日本の言語認識』 岩波書店 p226
[4] 飯島要介 小熊英二研究プロジェクトI 『「国語」という思想 近代日本の言語認識』レポート