日本語教育特別講議 学年末レポート ロング先生
火曜4限 ´99.4〜´00.1
提出者:国文二年 9811881 広辺貞子
中国帰国生徒(中国残留日本人二・三世)の言語適応
0.はじめに
発表者の広辺自身は中国帰国生徒であるため、このテーマに興味があった.そして、今回調べて分かったことであるが、二世の日本語教育に携わっている人は、我々のことを便宜上なのか、「中国帰国生徒」と呼んである.(これまで、広辺自身は引揚げ子女といってきた.)なお、今回広辺は主に二・三世や一世たちの日本語教育について話していく.
1. 中国残留日本人(邦人)とは
1-1 中国残留邦人の発生
(1)終戦前の中国東北地方
戦前,中国東北地方には,開拓団を含めて多くの日本人(日本人のことを自国の人という意味で邦人といいます。)が在住していましたが,昭和20年8月9日のソ連の対日参戦時には壮年男子の大多数は軍隊に召集されていたため,残っていた日本人は,老人婦女子が主体となっていました。
(2)ソ連参戦と避難
ソ連参戦後,中国東北地方の居留地(外国人が居住を許された特定の地域)を追われたこれらの人々は,混乱のうちに避難を開始しました。居留地の多くは鉄道沿線から遠く離れた辺境の地に在り,これらの人々はやむなく徒歩で,何日も何日も銃撃に逃げまどいながら安全な地を目指しました。その避難活動は,着のみ着のままに近い形で行われたため,避難の最中に戦闘や伝染病発生などの事態に遇い,飢餓に苦しみ,死亡者が続出するという悲惨な状況にありました。
このような混乱も昭和20年10月頃には鎮静化してきましたが,居留地を追われたこれら多くの人々は,避難行動は終えたものの,家も職も衣食にも事欠く中で,中国での厳しい冬を迎えることになりました。
(3)残留邦人の発生
居留地を追われた日本人は生活の基盤を根底から失い,加えて極限の生活の中で中国での厳しい冬に直面し,昭和20年8月の終戦から翌21年5月までの間に多数の死亡者を出しました。このような状況の中で,両親,兄弟と死別し,または生別し,孤児となって中国人に引き取られたり,生活の手段を得るため中国人の妻になるなどして,やむなく中国に残ることとなった子供や婦人等が数多くおりました。これらの人々を「中国残留孤児」「中国残留婦人」と呼び,「中国残留邦人」と総称しています。
1-2 中国残留邦人の帰国はいつから始まったのですか?
(1)日中国交正常化以前の帰国
中国からの邦人の日本への引揚げは,昭和21年から開始され,昭和24年に社会主義体制の新中国が成立した後一時中断しましたが,昭和28年に再開し,昭和33年までの間,日本赤十字社や中国紅十字会などを窓口に集団引揚げが行われました。
しかし,自分の身元さえ知らない中国残留孤児や結婚して中国に生活の基盤を築いた中国残留婦人等は帰国することができませんでした。
その後,昭和47年に中国と我が国との国交が正常化されるまでの間は,人の交流も文通もままならない時間が続きました。
(2)日中国交正常化以後の帰国
昭和47年,中国と我が国との国交が正常化されたことにともない,多くの中国残留邦人から帰国希望が寄せられました。特に近年,終戦から50年という時を経て,中国残留邦人の年令も高くなり祖国である日本を想う気持ちが強まるとともに,配偶者との死別や子供の独立などこれまで永住帰国をためらわせていた中国での家庭基盤が弱まってきたことにより,永住帰国を希望する傾向が強まっています。また,永住帰国は望まないが日本での親族との再会や墓参のための一時帰国を希望する中国残留邦人もいます。そして、国費で帰国が許される人には、その家族の中で、成人の人が同伴で来れないという制度があり、自費でその後呼び寄せてくるしかない。平成八年度からは55歳以上の残留邦人であれば未成年の子の他に成人の子とその世帯を同伴できるようになった。
これまでに帰国している中国残留邦人の数は年度別帰国状況を参照して下さい。
国交正常化以降の中国からの帰国者総数 5,929世帯 18,790名 [うち孤児2,285世帯8,264名(孤児2,285名)]
永住帰国のために家族を伴って来る人の数は、1987年(昭和62年)をピークに減少していたが、1992年(平成4年)に再び増加傾向を見せ始めた(資科1)。第二の帰国ラッシュである。中でも中国帰国者二世・三世にあたる人々とその配偶者の数は、1995年8月現在、中国国籍を有する人が約5万人弱、日本国籍取得者は約1万5干人いると見られ、総数約6万人が日本に在住していると推定されている(筑波大学社会学研究室,1996)。
「残留孤児」…ソ連参戦前後に日本人の両親と生死別した者で、当時12歳以下の者
「一般残留者(残留婦人)」…第二次世界大戦敗戦時、13歳以上の者
(厚生省中国孤児対策室)
1-3 残留婦人という存在もある
1-3-1「残留婦人」の定義
いわゆる「中国残留婦人」について現在までのところ明確な定義は確立していないようであるが、一般的には「中国の東北地区等において、終戦直後の混乱の中で生活の手段を失い、中国人の妻となるなどして中国に残留し、現在に至っている日本人婦人」を中国残留婦人と呼んでいるようである。なお、中国に残留している邦人は、婦人が大半を占めるが、男性も一部含まれていることから、中国残留婦人等とも表現されている。中国残留婦人が概念上、中国残留孤児と異なるのは、自己の身元を知っていることと、一般に年齢が高い(孤児は終戦当時概ね満13歳未満)ことの2点である。
残留婦人の大半は、戦時中、黒竜江省、遼寧省、吉林省の旧東北三省の開拓団に個人としてあるいは家族の一員として入植したり、また当地で日本の軍属として医療その他様々な職業に従事していた者である。
しかし、歴史をさかのぼれば 日露戦争後に日本政府が「南満州鉄道」を設立したのを契機に、中国東北地方への移住政策が進められており、昭和七年の「満州国建国」時には、大連、旅順や「満鉄」の沿線都市を中心にその数はすでに23万人に及んでいた。主として官公職や技術関係者、商工業に従事するものが中心であったが、これら先住移民達の子女として大陸に生まれ育った女性達も終戦後、大陸に残され今日にいたる点で、広く残留婦人の範疇に含まれることとなる。このように残留婦人と一言で言っても、中国へ渡った動機や経緯、また中国での生活背景は様々である。いずれにしろ平均年齢はすでに70才に達している思われる.
1-4 中国地方以外の残留日本人
1-4-1「樺太(サハリン)残留邦人」
(1)終戦前の樺太(サハリン)
明治38年(1905年)、日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南が日本領「樺太」となりました。豊原(現ユジノサハリンスク)に樺太庁が置かれ、豊富な資源の開発を中心に力が注がれ、多くの日本人が入植しました。また、朝鮮半島などからも多くの労働者が送り込まれました。
(2)ソ連参戦と避難
昭和20年8月9日のソ連参戦で戦闘状態に入りました。ソ連の攻撃は23日まで続き、軍人軍属2,500人、邦人2,000人が死亡したと言われています。 中国旧満州地域では数百キロにわたる逃避行の過程で数多くの孤児が発生しましたが、樺太では事情が違い孤児が発生するということはありませんでした。
(3)残留邦人の発生
終戦後、集団引き揚げによりたくさんの人々が本土に引き揚げましたが、戦後の混乱の影響で日本に帰れず、樺太に留まらざるをえない人もいました。これら樺太にとどまった人たちの多くは鉄道員や炭坑・製紙関係者、学校教師とその家族等で、中にはシベリア等へ送られた人もいます。終戦直後には密航というような方法で脱出した人々もいましたが危険を伴うものでした。 戦後も長い間樺太にとどまらざるをえなかった人々の多くは朝鮮半島出身者と結婚した日本婦人でした。日本人であることを隠し、日本語を使うことができないような暮らしを続けてきて現在なお、450人ほどが在住していると推測されます。これらの人々を「樺太残留邦人」と呼んでいます。
1-4-2 樺太残留邦人の帰国はいつから始まったのか
(1)日ソ共同宣言以前の帰国
米ソ引揚協定の締結により昭和21年12月より集団引き揚げが行われることになり、24年7月までに約29万人が引き揚げることができましたが、それ以後は引き揚げが打ち切りとなってしまいました。
(2)日ソ共同宣言以後の帰国
昭和31年10月の日ソ共同宣言にともなって集団引揚げが再開されました。昭和32年から昭和34年9月までに800世帯弱が引き揚げましたが、それ以後は個別引揚げとなり、ときたま年に1〜2世帯の引揚げがあるに留まりました。 平成に入って、年1世帯ぐらいが帰国するようになり、最近は増加傾向にあります。
1-4-3 これまでに帰国している樺太残留邦人の数
永住帰国者は、昭和31年10月の日ソ共同宣言以後平成11年1月まで、914名が帰国しています。 一時帰国者は、平成元年から平成11年1月まで、延べ863名です。
1-4-4 この他にも、朝鮮残留日本人がおられるが、資料が見つからなかった。
2. 一世や二世に日本語教育の現場状況
2-1 残留婦人の日本語教育
残留婦人たちは、日本語を随分と覚えているケースが多い.
言語能力の回復がかなり進んでいるといえる。特に聞き取り力の回復が早い。話す力について個人差がある.ただ、青年時代までに獲得した日本語が基本になっているため、外来語など本人にとって未知の語彙・表現は総じて弱い。
所沢の帰国者センターでやった残留婦人に対する調査では、次のようなことが分かってきた。
・戦後日本の社会状況の変化、および現在の社会事情に対する関心が高い。 これに関しては、現在、テレビから多くの情報や日本語の語彙を獲得しているようだ。
・中国帰国者関連団体や自治体からの連絡文書の読み取りが不完全な場合がある。
・現在でも電話の利用(会話上のマナーを含め)には総じて不慣れである。
・日本語の表記の力(手紙など)にもケースによって差が認められる。
・日本語力を生かして帰国者のためのボランティア通訳を行ったりできる人が一部にいる。
・二世家族をサポートする立場として、特に就職や住宅探しに関する知識を必要とするケースがある。また自分自身の興味からも現在の日本の社会事情への学習動機が比較的に高いようだ。
・言語の回復を助ける意味からも、研修中に可能な限り地域社会に足を踏み入れ、一般市民として地域の人とのコミュニケーション体験が得られるような配慮が望ましい。
今後の課題
カリキュラム作成にあたって必要な留意点として学習者の特質の把握が重要である。すなわち学習者側の条件を把握することによって指導上の具体的な方策が検討される。
2-2 帰国生徒受け入れの状況
2-2-1 受け入れの流れと概況
帰国生徒*1)の親である帰国邦人(残留孤児)が国費で帰国した場合、帰国生徒は家族とともに一次センターで日本での生活に必要となる日本語と生活習慣について、約4ケ月にわたって指導を受ける。
修了後、帰国生徒はほとんどが公立の小中学校に編入される。一方、私費で帰国した家族*2)に伴われている場合は、一次センターのような教育機関を経ずに、直接小中学校に編入される。学校現場までのルートは国費か私費かで一定ではない上に、編入の時期も一定していないのが現状である。
編入学に関する問題は、中国と日本の学校制度の違い等から年齢と学齢が一致しない場合に多く見受けられる。本来の学齢より下の学年に編入された結果、発達の程度が同級生と合わなかったり、逆に年齢通りに編入された結果、中国での在学年より上の学年になり、日本語力だけではなく、学力も不足していて授業についていけなかったりといった事例が挙げられている。
文部省では受け入れと指導を円滑にするため、1967年9月から「海外子女教育研究協力校」を、1983年度からは「帰国子女教育受入推進地域」を指定し、実態調査から指導法研究、資料センター設置などネットワークの要として機能することを目指している。しかし、指定校や指定地域は首都圏・京阪・中京地域に集中し、部分的に制度が整ってきてはいても、地域によって差がある現状は否めない。受け入れ後の指導形態は現場の実状により様々であり、一斉指導では補いきれない点を個別指導や取り出し指導で補っている形、また、帰国生徒がセンター校へ通う形、巡回指導員が生徒の在籍校へ通う形などがある。この点に関しても、地域や現場によって状況が異なるのが現状である。
*1) 異なる文化背景をもって日本に定住し、将来、確実に日本社会に参入していくという立場から第二言語教育としての日本語教育の対象者となる。対象者が学齢期にあっても日本語を母語としない者なら、国語ではなく「外国語」として日本語を教えるべきである、との認識はほぼ共通になってきている.その呼称に「帰国」という語を持ちながら、実際には日本に帰って来たわけではなく、「移民」に近い存在と言えるが、だからこそ彼らに対する日本語教育は異文化適応の観点から考えなければならない。
*2)上村家のケース(『小蓮の恋人』より)
次男の友成は16歳になっていたため、15歳までの編入を規定している公立中学への編入学を拒まれた。彼は常磐寮やボランティアの人に訴え、その後常磐領を校区に含む江戸川区立葛西中学校に編入された。
一方18歳になっていた長男の和夫は、成人を対象とした日本語学校を三校、かけもち通学していた。
他方四男の貴雄は入学する前に体の関係で入院生活を半年あまり送っており、周りの同年輩の子供達から言葉を覚え、またたく間に社交性を身に付けた。それまで病気のために人間関係を半ば遮断されてきた貴雄は、こうして遊んでいくうちに情報収集能力を身につけた。しかし、その後、日本語学級のない学校に転校し、そこでいじめを受ける。貴雄にとって、学校にはたくさんの人がいるが、どんなにたくさんの人がいても、誰にも気持ちは通じない。誰も信頼できなくて、何かを言われれば、すべて悪口だと思った、という。
2-2-2 センターの児童生徒クラスの概略
センターの児童生徒対象のクラスは中学校編入予定の中学生クラス(Tタイプ・Uタイプ)と小学校編入予定の小学生クラス(低〜中学年クラス・中〜高学年クラス)に分けられる。
TタイプとUタイプの違いは年齢と学習適性の違いで、Tタイプは中国でも過年であったり中退して時間が経っていたりして学習に不慣れな場合が多い。従って、学習適性は概ね低く、また、年齢も学齢より高い傾向にある。Uタイプは中国では年齢相当の学年に在学していた場合が多く、学習適性も高い。
小中学生クラスの場合、ほとんどの授業は媒介語を用いずに行われる。
帰国生徒に対する第二言語教育としての日本語教育の役割は、前述のように、異文化適応を内包したことばの教育を実現することにある。ここでいう適応とは、「同化」ではない。親世代にとっては日本と肉親への強い思慕が帰国永住の動機のひとつであるのに対して、二世たちにとっての「帰国=来日」は、自分たちの意志とはあまり関係がない「移住」「移民」のようなものと言えるからだ。
2-2-3
小中学生クラス修了生の学校編入の現状
センターでは、児童生徒の情報を定着地に詳しく申し送りするために、退所時に日本語力、学力、中国で通学した学校の事情等について、修了書類を作成している。編入学年については、「本人希望」と「担任所見」を併記して、定着地の教育委員会に送る。そこで、編入学年が決定される。多くの場合、彼等は日本の生徒と較べて、学齢超過の傾向にある.
2-2-4
修了月による編入学年の違い
退所月の違いによる編入学年に関しては、6月退所生及び10月退所生は、すみやかに編入できているが、2月退所生の場合、ある調査では編入した27名のうち7名が4月まで待たされている。
文部省教育助成局海外子女教育課(編)(1991)『海外子女教育の現状』によると、「国内の学校への入学・編入学については、保護者の勤務に伴って海外に長期在留した後に帰国した子供と同じ扱いになっている。原則として、年齢に応じ小学校又は中学校の相当学年に編入学される。この場合、特に言葉が不自由である等の事情により、直ちに相当学年の課程における教育を受けることが適切でないと認められるときは、一時的に適宜下学年で授業を受けさせることもできることになっている。さらに、学齢を超過した中国帰国孤児子女については、市町村教育委員会の教育的配慮の下に、小学校又は中学校への編入学を認めている。また、中国の学校教育における9年の課程を修了した中国帰国孤児子女については、我が国の高等学校への入学資格がある。」
2-2-5 その中学生クラスの学習目標をみてみると
文字/平仮名、片仮名
50音図の仕組み、仮名表記の語の音読、訓読
『日本の漢字と中国の漢字』の書き
ローマ字仮名対照表
文法/日本語の文法についての基本的な知識を身に付ける (受け身、使役、授受、敬語、接続詞)
読解/中学校の教科書や読解教材を読んで大意を取り、内容についての簡単な質問に答えられる
作文/文型を用いた短い文や文例にならった作文が書ける
センターでの四ヶ月間を模擬の学校生活とみなし、様々な学級活動や学校行事のシミュレーションを行うことで、日本の「学校文化」への心構えを作ることはできる。生徒たちが中学校生活をイメージするために重要な、日本の中学校に関する知識を範囲としている。
<教科に必要な知識と技能>
従来、特に技能教科において、中国の学校文化との差異から「帰国生徒はできない」 「帰国生徒はやろうとしない」といった声が学校現場から聞かれていた。センターでの四ヶ月の学習期間ではとてもひとつひとつの技能に習熟することはできないが、一度でも体験しておけば、本当の学校で本当の場面に遭遇したとき、怖じ気づいたり拒否したりする心配は減るのではないだろうか。
また、教科においてその教科特有の技能が要求されるのは、技能教科だけではない。数学にも国語にも内容以前に了解しておかなければならない約束事がある。それらの約束事の中には、日本で幼児教育・学校教育を受けていればほとんど自然に身に付いているものも少なくないが、帰国生徒の場合、受けてきた教育の違いから抜け落ちているものもある。そこで、そうした約束事の中で日本と著しく異なるもの、中国では重点が置かれていなかったものについて知り、慣れることも達成目標とした。
<「学力言語」>
これは、CALP(Cognitive Academic Language Proficiency 認知・学習言語能力)を指していて、将来、中学校高校と進んでいくときに必要となる抽象的な知的・学術的活動を行うための言語使用能力を想定している。当然、センターでの四ヶ月では、将来の入試や進学に必要な言語能力、理論的な思考を支える言語能力等を押さえることはできない。しかし、この目標のもとに、言語構造の知識の導入、ドリルやトレーニングも、こうした言語能力が必要になってくることを視野に入れて、実施している。
上の「学力言語」に対し、「コミュニケーション力」がある。これは、BICS(Basic Interpersonal Communication Skills 基本的対人伝達能力)にあたる。センター修了直後に、日常会話に困らないことを目標にしたコミュニケーション力である。
また、学習適性に欠けると思われる学生には達成目標も増やし、「自己学習に必要な技能」を強化する。つまり、教科の内容をかなり易しくして学習者の負担を減らし、例えば「ノートの使い方」という「自己学習に必要な技能」のトレーニングをし、その技能だけを身に付けるといったことをいう。
センターでの、このサバイバルの初期を過ぎた段階では、CALPを意識した教材が必要となる。日常のコミュニケーションのためにはBICSが確立していればよいが、言語の構造も理解していないとCALPが疎かになり、「日常会話はできるのに、教科についていけない」といった問題がおきてくる。例えば、帰国生徒が学習に適応するために要求される読解力が前述の二言語の相互依存関係と深く関わっていることを考えれば、読解に先立つ先行情報の利用の仕方、予測や推測を伴う読み方等、読解ストラテジーを十分考慮した指導法と教材が必要となっている。
2-3 帰国生徒受入れ校
2-3-1 埼玉県岩槻市の場合
埼玉県岩槻市の県営団地に三十数世帯の中国帰国者家族が期せずして集まってきた。団地に隣接する東岩槻小学校。岩槻市周辺には比較的働きやすい中小の下請工場があって潜在的雇傭力が存在し、家賃のやすい県営住宅に余剰があったということが条件となっている。それまで日本語学級という前例がない。校長先生は学校法案(?)の知恵おくれの児童が4〜12名在籍する学校には、養護教員1名が配される。13名を超えた場合養護教員2名という規則をたてにとって、特殊学級の中国語の分かる教師2名を採用できる計算をし、中国語専任教員の特別配置の要望書を提出。
東岩槻小学校に、中国語の非常勤講師が特別配置され、ようやく日本語教室が開設されたのは、1980年3月のことだ。
2-3-2 江戸川区の場合
東京江戸川の葛西小・中学校には、近接して東京都の引き揚げ者施設常磐寮があるため、日本語学級が特設されている。また、東京に住む帰国邦人(二世、三世)に関しては、生活の場が、江戸川、墨田、葛飾などの下町に集中しがちだ。
東京江戸川の葛西小・中学校の日本語学級は、元来、江戸川区に住む韓国からの引き揚げ者子女のため特設されたもので、それがいつしか中国帰国者子女のためのものに発展したものである。
2-3-3 日本語学級
今のところ、日本語学級は、現場からの悲鳴によって初めて実現するような仕組みになっているが、それが実現すると、教材や教育機器の費用が文部省から出て、「引き揚げ子女教育研究協力校」という名が与えられる。
「引き揚げ子女教育研究協力校」に指定され、中国語の専任教員のいる学校はどのくらいいるのか。
小学校でわずかの5校、63名、中学校で7校、109名。(1991年まで)1万人近い帰国者がいると伝えられるなか、特設学級の恩恵を浴している帰国者二世はその一割程度である。
<日本語学級は必要>
広辺も同感を寄せた井田真木子氏の考え方(氏は前出の葛西小学校のことを言っている)をここで引用したい。
――中国から、または韓国から引き揚げてきたという共通体験を中心軸として、日本語学級はひとつのコミューンを形成していた。そのなかにおいて、引揚者の子弟は、彼らのオリジナルな文化と言語に十分な誇りを持つことができる。その心理的な余裕は、`日本´との遭遇に際して必要以上の摩擦を防ぐ効果がある。前出の上村家のケースでいうと、日本語学級のあった公立中学を卒業した次男の友成と、その設置のない学校へ飛び込んだほかの三兄弟との日本観には、如実な差があらわれている。――
2-4 地域の日本語教育支援状況
市役所から派遣された日本語教師、中学高校の教師、中学の同級生を学習のリソースとして利用しているケース。
Aさんは特に、市役所から派遣された日本語教師を中学校編入時から調査時点の高校3年まで長期間、リソースとして利用している。この日本語教師は中国人で、中学では週に2日、日本語を主にみてもらい、高校に進学してからは週に1日、学科を中心に教えてもらっている。相手から(行政から)働きかけているリソースではあるが、高校受験時は、Aさん自身が入試対策として、自分で題名を決め作文を書き、日本語教師に添削してもらう方法で積極的に学習した。高校に進んでからは学科の内容でわからないところを、自分から質問する形で教えてもらっている。
Bさんは中学では日本語教師と並行して、校長と教頭から個別に教えてもらう機会を持つ。校長室で日本語、数学、国語の個別指導を受けた。
Cさんは高校での取り出し授業の他に、学習のリソースとしては主にボランティア学習グループを活用している。この学習グループでは日本人大学生が中心となり教えている。中学の時は日本語、高校になってからは学科の補修が中心。知人を通じて自分から参加した。中学校では編入時に学力の補充のために、各教科ごとに教師がついて、毎日放課後、5教科を勉強した。
Dさんは中学では日本語教師が週に2回学校に派遣された。担任教師が学科を個別で教えてくれた。高校に進学してからは、1年の時、国語と社会の取り出し授業があった。
練馬区では、日本語が不十分な生徒が入学した場合、生徒の学校へ日本語講師を派遣して、4ヵ月間、1回2校時×40回、全70時間程度の取り出しによる日本語指導を行っている。その中心は「中国引揚げ」と称される生徒たちで、残留婦人の3世にあたる子女が多い。原則的に個別指導であるため、教室活動が制約される。そのため、生徒はクラスの仲間になかなか入れないということもありうる.
指導で注意した点は、否定の形の導入として、教科書では『ではありません』があげられているが、子供どうしでは『じゃない』をたくさん使うと判断して先に教えるなど日常の学校用語を意識したことである。また、同じ観点から、丁寧体にこだわらず、普通体も早めに導入した。「いつ、どこ、なに、なぜ/どうして」、については大事な言葉なので、それぞれ中国語の訳を教えて確認した。「いつ」が「一次(イーツー)」(中国で1回の意味)に聞こえるようで、混乱していた。チャイムがなった時、「大きな声だ」というので、声と音との違いを説明すると、「声は人だ!!」と、すばやい理解を示してくれた。
「過去の学習経験」との関係でとらえれば、漢字圏の出身で、(中国の漢字と日本の漢字は違うところが多々あり、発音も違うが)意味が推測できるだけでも学習の理解を大きく助けている。それだけでなく、中国は算数学習が日本の同学年のレベルより高いので、算数の時間は日本人児童よりよくできるため、自信につながっている。
一般的に1年生から日本の学校に入学すれば、日本の子供たちと同様な過程を経て、文字を覚え学習に馴染んでいくのではないかと考えるむきがあるがそれは事実ではない。入学以前から日本で暮らし、ある程度の語彙を獲得していなければ、「ありの『あ』」と教えられても、記憶の助けにはならない。日本人児童は文字言語の学習を開始する以前に大量の言葉、文章を日本語でインプットされているわけで、幼児期に獲得される語彙は約2000語と言われるし、ひらがなの読みについては、現在多くの1年生が入学以前に習得している。同じ1年生でも外国人児童と日本人児童では出発点が全く異なる。
2-5 大学における帰国生徒
<勉学上の問題>
東京農工大学に在籍する帰国孤児子女(農学部4名、工学部5名、ほかに外国人留学生として入学した者1名)との懇談会やアンケート調査の結果、彼らが抱えている勉学上の問題を拾い上げれば、以下のようになる。
まず英語については、基本的には中国でも中学3年間、高校3年間文法を中心とした学習をするが、それらをすべて受けて来日したものは少ない。また、いきなり日本の高校で受験英語を教えられても理解できないものが多い。また英語を日本語に翻訳するのは両方とも不十分であるため骨が折れるという。こうした現状にかんがみ、英語の特別補講を実施している大学もある。
第2外国語については、日本語はもちろん英語も不十分な状況で、その上に中国語以外の単位をとるのはきわめてむずかしいようである。こうしたことから東京農工大学のほか数大学では外国人留学生と同様に、第2外国語や人文・社会科目を日本語・日本事情で振り替える措置を実施している。(都立大もそうである)
2-6 中国帰国生徒の日本語能力
2-6-1 基本的対人伝達能力と認知・学習言語能力の違い
流暢に話せることが必ずしも認知行動の手段としての言語能力を示す指標にはならないことに注意しなければならない。これは、BICS(基本的対人伝達能力)とCALP(認知・学習言語能力)の問題である。日常会話は難なくこなせるのに、簡単な文の読み書きがおぼつかない、話が抽象的になったり込み入った内容になったりすると理解が不完全になる等の例はBICSとCALPの発達過程が必ずしも同様ではなく、BICSはかなり速い速度で発達するのに対してCALPはより緩やかであることに起因する。指導に際しては、この点に十分留意しておく必要がある。
もし、思考力が母語で十分育っていなければ、第二言語での思考力を育てる基礎を欠くことになるので、何らかの方法で第一言語の力を強める努力をすることが肝要である。母語をうまく保持発達させ、バイリンガルを促進するためには、教授者の資質や指導法などの要因以外にも、次のような要因が重要となる。
・第一言語が家庭や地域社会でも使用されていること
・親がバイリンガル教育に対して積極的で動機付けも高いこと
・少数派言語・文化に対して、一般社会のイメージが積極的であること
しかし、少数派言語の対する一般社会にイメージは決して積極的だとは言いがたいような気がする。清田(1995)では人前で中国語を話すのにおっくうだと感じている帰国生徒は半数以上に上った。ちなみに、日本語を人前で話すのがいや、または恥ずかしいという人も同じような集計結果になったが、清田氏はここで次のように分析している。
『日本語の場合、うまく使えないので、人前で話すのが恥ずかしいことが理由として考えられるの対して、中国語の場合はその能力に関係なく、日本社会において中国語を使用すること自体に、帰国生徒が問題を感じていることが理由として考えられる。』
2-6-2 母語保持の必要性と困難さ
子どもが母語を話さなくなると、世代間のコミュニケーションの断絶が起こる。*3)これは、ことばだけではなく文化(考え方、感じ方、行動の仕方)の伝達も途絶えることを指し、結果として、子どもは自分のアイデンティティに疑問を感じてしまうことになる。
母語保持の必要性は帰属意識の問題に関わるだけではない。子供が二つの言語を習得する際に、表面的に明らかに異なる二つの言語の差異の深層に、二つの言語に共通する言語能力が存在するという仮説がある。これはカミンズによって提案されたものである.つまり、第一言語で培われた抽象的概念は第二言語で新しく学習する同義の語彙の理解に直接転移させて使うことが可能だということである。(教科の知識、高度の思考能力、読解能力、作文能力なども第一言語における能力が第二言語に転移可能であるとされる。)この第一言語と第二言語がともに共通の深層言語能力の発達に相互にかかわり合うという「相互依存仮説」は、多くの言語のケースについて実証されている。下の図を見よ。
第一言語の 第二言語の
表層構造 表層構造
共通深層
言語能力
子どもが二つの言語を習得する際に、表面的に明らかに異なる二つの言語の差異の深層に、二つの言語に共通する言語能力が存在するというカミンズの仮説である。この能力の領域は、子どもの第一・第二言語のいずれを通してでも高める可能性があり、十分な動機や刺激を与えられれば、一つの言語で培われた能力が二つの言語に共通の深層言語能力を高める結果を生むというのである。例えば、第一言語で培われた抽象的概念は第二言語で新しく学習する同義の語彙の理解に直接転移させて使うことが可能である。第一言語と第二言語がともに共通の深層言語能力の発達に相互に関わり合うという「相互依存仮説」は、多くの言語のケースについて実証されている。
*3)中国からの帰国者の多くが里帰りのための一時帰国は最も幼い児を一人さけつれて来日し、とりあえず三ヶ月なり半年なり滞在し、永住帰国に際して全家族が来日する。当然一時帰国の際、末の子が最も早く日本語に慣れ、両親や兄姉の通訳を務めることになるのだが、語彙の不足と語意の不明確さから、うまく教えられるはずがない。両親や兄姉の日本語修得は遅遅として進まず、逆に末っ子は急速に中国語を忘れていってしまう。一家の中で複雑な言語構造の落差が生ずるとともに意思の疎通が途絶えるという現象がうまれる。
2-7 中国帰国生徒の日本語習得
二世の日本語学習上の困難点がほかの留学生と基本的に変わるところがないということは研究で明らかになっているそうである。
下は二世と中国系留学生を対象に、その日本語力の比較を行った実験の結果を引用したものである。
日本語を母語とする子どもにとってやさしい表現とおとなになってから学習した人にとってやさしい表現は違うということである。たとえば「目方、重さ、重量」の中では「目方」がもっとも話しことば的でやさしい単語だと母語話者なら感じると思う。
しかし多くの理工系の留学生にとっては「重さ、重量」のほうが身近な単語だろう。また、外国語ではニュアンスに富む表現を理解するのは難しい。「むずむず、はらはら、こっそり」のような擬態語はおもにニュアンスを伝えるためのことばであり、母語話者でなければ理解しにくい。
<聞き取り練習テスト>
中国語を母語とする人の中には、日本語のパ・バ行、タ・ダ行、カ・ガ行の子音の区別が苦手な人がいる。日本語と中国語では破裂音の区別の仕方が違うからである。日本語では破裂音は有声か無声(声帯が振動するかどうか)で対立している。中国語では有気・無気(空気が出るかどうか)の対立である。
破裂音/p、b/、/t、d/、/k、g/の最小対「先輩/千倍」「船体/先代」「旋回/選外」のセットでテストを実施した。全体としては/k、g/の聞き分けがいちばん成績がよいようであるが、苦手な音も苦手度も人によって違う。二世は概して聞き取りが不得意なほうである。外国人学習者にとって聞き取りの難しい日本語の音には、このほかに母音の長短、促音の有無がある。これに加えて破裂音の有声・無声の区別ができないと「ちょっと・ちょうど、とくに・とっくに、また・まだ、ただ・たった、きた・きった・きいた、していた・していった・しっていた」などがみな同じように聞こえることになる。聞いた話の理解がおぼつかないばかりでなく、語形の確認が困難なので単語も増えないのである。
結果的に、読解力や文法力では中国系留学生のほうがいくぶん平均点がよい。外来語の聞き取り、漢字の読み方、サ変動詞になる漢語・ならない漢語の区別のような知識量が問題になるところでは二世のほうがすこし成績がよい。
<では、運用の面ではどうだろうか>
まず、発音について、上手に聞こえるのは二世のほうである。たいがいの留学生は一年のうちは話し方がたどたどしくても四年生くらいになると日本人的なイントネーションで話すようになるから、これは慣れの問題だといえよう。
次に、話す能力について、その場で文を作って自分の言いたいことを言うという点では、だいたいにおいて二世のほうがうまい。長く話せるし表現も豊富である。しかし、「です・ます」の有無を相手によって使い分けられるかというような点では個人差が大きくどちらがどうとは言えない。
書くのはどうか。二世のほうが日本語らしい表現をたくさん知っているようであるが、助詞の使い方、他動詞・自動詞の区別、する・している・したの使い分けなどの誤りは中国系留学生と共通している。中国語は「独立語」的であり、助詞や動詞などの活用がなく、日本語とは性格が異なる。待遇表現もそれほど複雑なものはない。「共通」と思われがちな漢字でさえ、意味が異なるものがかなりある。
中国人の日本語アクセントは最後の音節が低くなりやすいということが分かり、何故そういうアクセント型になりやすいのか、その原因について、中国語の軽声の影響と、重軽音の影響の二つあるようだ。(中国語の軽声;一部の音節が軽く、短く発音されるもの。重軽音;説明したり、強調したりするために、ある音節を軽く、ある音節を重く発音すること。)
<困るのは場面にふさわしい表現が分からない場合である>
例1
(教)きょうは皆さんが苦手な「れる・られる」「せる・させる」「あげる・もらう・くれる」の復習をします。
(留)だいじょうぶです。みんな分かります。
例2
(二)かぜひいたの?
(日)うん。
(二)あ、そう。
(日)「あ、そう」じゃないよ!
「ある言語社会のコミュニケーション行動のルール」といっても、言語社会の成員がすべてのルールの存在を意識しているわけではない。ルール違反がおきたときに変だとか不快だとか感じるのである。敬語の使い方、断り方、謝り方、賛成・反対の仕方、お礼の言い方、依頼・要求の仕方などなど、留学生や帰国生徒がトラブルを起こしそうなところは多い。そのために日本語教育でも日本語コミュニケーション行動について教える必要性が叫ばれているが実のあるものにするのはなかなか難しい。
2-7-1 その誤用例を二、三あげよう
<誤用分析>
(1)格助詞「の」の誤用
これは美しいの花です。
私はご飯を食べるの時、
のように日本では形容詞、動詞を連体修飾語として用いる、連体形を使うのに対し、中国語では<的>を使う.それから、この<的>は日本語の<の>に大抵の場合において<の>に置き換えられるものである.従って、<的>の類推でそれに当たる<の>を使ってしまうのである.
上の誤りは低学年にはよくみられるが、高学年にはあまりみられない.そのかわり、形容動詞の誤りが目立ってくる.それは形容動詞語幹の多くが漢語であることによるのであろう.そして「な形容動詞」もあれば、「動詞の完了形で表現される形容動詞」もあるのである.例えば、
・「具体的問題」___<具体的な問題>
・「具体地説」___<具体的に言うと>
・「安定的生活」___<安定した生活>
・「矛盾的心情」___<矛盾した気持ち>
そして、次のような例もある.
「私は独学で二ヶ月間の日本語を学んだ」(<我自学了両個月(的)日文>)
「二日間の雪が降った」(<下了両天(的)雪>)
「今日は四時間の本を読んだ」(<今天看了四小時(的)書>)
というふうに、「の」を除いて数量をあらわす語を副詞的用法にすれば正しい文になる。
助詞「的」を用いてももたなくてもいいので、<的>の干渉と考えられる。
(2)「と」の誤用
「要学好外語、需要朗読和背誦課文。」
<外国語をマスターするにはテキストを朗読と暗唱することが必要である>(誤訳)
原文の「和」はたいていの場合、日本語の「と」に相当するものであるため、短絡的に訳されやすい。中国語の、並列関係の標識である<和>によって、体言と体言、用言と用言を結びあわせることができるところに由来した誤用である。日本語では体言と体言との間に「と」をもちえても、用言と用言の間「と」で結びつけることはできない。それには、中止法をとったり、形式体言「こと」を用いたりなど<和>の枠を抜け出して日本語らしく表現することになる。
(3)「に」と「で」の誤用
先生は黒板で字を書いている。
あの喫茶店にコーヒーを飲みましょう。
「に」も「で」も中国語になおすと、いずれも「在」に当たるから、使い分けは難しい。
(4)「から」の誤用
私は去年北京大学から卒業した。
李さんは会社から退職してから町内会で活躍している。
それぞれ中国語では、
<我去年从北大卒業>
<老李从公司退休以後、……>
と<从>という「から」に当たるものを使うため、こういう安易なものになってしまう。
(6)「へ」の誤用
先生は彼の方へ眺めている.___<老師向他那辺看>
彼はじっと前へみていた.___<他一直朝前面看>
「みる」「眺める」は方向かく「へ」と共起せず、直接対象格「を」とだけ共起する。しかし、一方、中国語では、上が示すように、直接対象格と共起するだけでなく、方向を示す<向、朝、往>とも共起することができる。ちなみに、この種の間違いは教師に注意されたら、すぐなおるようである。
(7)「より」の誤用
私はより彼背が高い.__<我比他個子高>
この椅子はよりその椅子大きい.___<這把椅子比那把椅子大>
これは初歩段階の間違いである。<比>が比較される対象の前に来るのに対し、日本語では助詞「より」は比較される対象の後にくるようになる。
2-7-2 二世の実際の作文を二、三紹介して、その間違いを考えてみたい。
1.きょうは、わたしたちの勉強は君の祖先は魚だったを勉強しました.おもしろかったです。しかし、わたしは人生のことがべんきょうがとてもすきです。
わたしのかんそうがあります。
ゾウリムシは自分のかんかくがあります。アメーバーもおなじです。ゾウリムシはかんかくはとてもいいです。わたしはびっくり[し]ました。むずかしいです。めや口やはながありません。ほんとうにすごいです。(中略)どうして、む生物から生物がうまれたのですか。オパーリンさんはじっけんしました。む生物から生物がうまれたのです。しかし、げんいんがありません。(中略)どうして、ゾウリムシは自分の体に二つをわけました。人間はだめです。どうして、猿は人間に変化しましたか。
わたしの問題おわりました。どうぞ、おしえてください。先生のもんだいにこたえます。なぜ、生物はこのように変化したのですか。
【・「〜について勉強しました」/ ・「でも」や「けど、けれども」よりも「しかし」を一番最初に習う傾向がある/ ・「私はこう思いました」とか「わたしには次のような感想があります」/ ・「わけ」や「なぜ」を教科用語として知るのは遅い傾向にある、それだけその使用法についてはマスターするのに時間かかるのかもしれない/ ・「こ、そ、あ」は割と速く身についても、「あ」は遅い】
2.きょう、みなさんは脳死についての勉強しました、どうして人間はしんだ[ら]はかの中に入っていいです。かそうばの中に入っていいです。ぼくは自分が死んだ。心臓と肝と肺だれもあげません。ぼくは自分が死んだら全部の体はいいです。心臓がないはきれいでないです.だから移植だめです.ぼくのお母さん悲しいです。あなたはどう考えますか。人はしんだら体はぜんぶしろくなります。てがかたくなります。めがあけて神経はない。心臓は動きません。これは死んだの人です。
【・「勉強をする」と「勉強する」の用法/ ・「〜していいのか」の用法/ ・「もし」仮定の用法/ ・「提供する」という客観的な言葉よりも、「あげる」という主観的な言葉を使っている】
3.きょう、ぼく[た]ちは《どうして人間は死ぬの》をべんきょうしました、きょうのべんきょうはとてもおもしろかったです。ぼくはきょうのべんきょうを大部分わかりました。ぼくはとてもうれしいです。しかしべんきょうはむずかしいです。世界のすべての植物と動物ははじまりが終わりがあります。すべての植物と動物は死なないがありません。だから考えました.どうしたらいいでしょうか。
【・《》という記号は中国では書籍名を標す時に括るものである、当然日本では『』にあたるし、ここでは「」程度で/ ・「大部分」という漢語を使ってしまう、ここで、結構わかりました、程度で/ ・「〜ということがあります」のような「こと」の用法】
2-8 帰国者三世
三世とは。即ち二世を父母とする児童たちである。親とは異なった日本語習得の過程を体験し、より自然習得の形に近い環境で育つものが多い。その意味で、彼らのバイリンガルな言語形成の過程には、種々の示唆に富む現象が観察されて興味深い。日本で生まれた子供は、意外にもその多くが中国語を話せない。これの原由はおそらく、彼らの親である二世たちは完全まではいかなくても、かなり日本語が堪能で、子供との会話は日本語でも十分通じるからではないと思われる。そして、中国語に対する周りの小社会のイメージというものが親である二世にも、その子どもの三世にも、影響を及ぼしているのではないかと考えられる。
2-9 非識字者である帰国邦人
非識字者を含むセンタ−修了生家庭への訪問調査報告をここで挙げたい。
中国帰国者定着促進センター(以下センター)に入所する学生の中国における生活背景は、実に様々である。都市で生活していた人もおり、農村で生活しておりその地域からほとんど外に出る機会がなかった人もいる。職業は多岐にわたる。中には就学の機会がなく識字教育を受けていない人(以下非識字者)もいる。中国帰国者が日本で生活する場合、漢字を介してある程度の意思疎通ができるため日本語が不十分でも漢字が日常生活に大きな助けとなるが、非識字者の場合、漢字を意思疎通の手段とすることはできない。また、就学の機会がなかった人の多くは農村部出身である。
非識字者の多くは、中国の農村部の出身である。中国での普段の生活は、自宅と田畑、職場との往復や隣近所との行き来等、ごく狭い範囲内での行動に限られていたと言う人が多い。また、交通機関があまり発達していないこともあり、自宅と町の繁華街の間等決まった区間以外にバスや電車、汽車を利用しての遠出をする機会もほとんどなかった。
非識字者の場合、漢字で書かれた地名や看板を読むことができないため、知らない所に行く場合、人に道を尋ねながら行くことになる。駅名の表示や看板等を目印としたり記憶の助けにするのが困難であり、道順を覚えるのに時間がかかる.道を尋ねながら行ったことのない所へ一人で出かけるという人はほとんどなかった。
非識字者には中国での買い物の経験があまりない人が多い。特に、農業に従事していた人は、自給のため食料品の買い物の必要はほとんどなかったと言う者が多い。日本での買い物は、スーパー形式で、自分で品物を選んでレジに持っていきお金を払うという流れさえわかれば、ことばを必要としないためほとんど問題はない。ただ、桁数の大きい数字が読めないため、値段の比較や表示を見て選んで買うということは困難である。銀行での預貯金は農村ではまだ普及しておらず、自宅でたんす貯金をしていたか、銀行を利用していたとしても他の家族にまかせっきりにしていた人が多い。釣り銭の間違いについては、店員を信用しているので確認しない人がほとんどであるようだ。
また、近所の日本人との付き合いで、非識字者と付き合いのある日本人は、「表情等で相手が言いたいことはだいたいわかるし、相手も自分が言いたいことがだいたいわかるよう」と答えており、日本語が話せないことや筆談が使えないことで意思疎通が困難であるとは考えていなかった。
就学経験が無く勉強に慣れていない学習者が、机上での勉強で日本語を獲得していくのは困難である。そのため実際の生活の中で周りの人が話す日本語に耳を傾けたり、日本語を日本人に尋ねながら学んでいくのが適した方法であろう。
3. 中国帰国邦人及びその世帯に共通する日本語教育の特色
1)母語なみの日本語能力を志向する性格
JSL学習者は日本語を「第2の母語」として生活するということから、特定の目的のために限られた日本語を習得すればすむわけではない。日本語の母語話者と同等の日本語能力を身につけるまでは、日常の生活全般において常に顕在的・潜在的なコミュニケーション不全感をもつことになる。したがって、学習は究極的には母語話者のレベルを志向して続けられることになる。
2)サバイバル訓練的な性格
「移民」的性格をもつJSL学習者はふつう経済的にも恵まれない境遇にあることから、日本社会に移入した直後から生きるための努力をしなければならない場合が多い。したがって、移入直後の学習者に対するJSL教育もサバイバル日本語の訓練となることが多くなる。実際、インドシナ難民や中国帰国者に対する教育など、現在組織的に行われているJSL教育はみなこの性格をもっている2)。
3)生涯教育的な性格
1)のことから考えると、学習者にとって日本語の学習は生涯つきまとうものとなり、JSL学習は一種の生涯学習となる。現在までのJSL教育はサバイバル・レベルや初歩の基本的会話程度までしか計画・実施されていないが、本来は、その後の段階をも含む非常に大きなスケールで教育が考えられなければならないはずである。
4)社会的・文化的な性格
「移民」的移入者は日本社会において異文化者であり、一般的には社会的弱者である。その移入にともなって、日本社会に種々の文化摩擦や社会的問題が発生することは避けられないことであろう。これによって、日本社会及び個々の日本人も彼らへの対応や自らの在り方について考えるよう迫られることになる。JSL教育はその社会的対応のひとつであり、この教育に携わる者自身も常にこの教育の社会的意味を問いかけ続けることになる。
5)実存的な問題をはらむ性格
JSL学習者は、日本での生活においてアイデンティティの危機の問題にさらされることになりやすい。JSL教育をこの問題から切り離して処理することは難しい。また、JSL教育の3)の性格からしても、学習者は「どう生きるか」「どう学ぶか」「なんのために学ぶか」というような根元的な問いと常に向かい合うことにならざるを得ない。また、学習者が教室外で種々の文化摩擦や社会的矛盾と関わるという4)の性格からも、単なる語学教育の範囲を超えた問題が教室内に深刻な悩みとして持ち込まれる可能性が高い。
1)〜5)から、JSL教育の計画、実践においては、従来の「外国語としての日本語教育」(JFL教育)では一般にあまり真剣に考慮されずにきた難しい問題が課せられることになるが、それらはまずは教育目標の設定という点に集中的に現れることになる。
日本国内で行われているJFL教育においては一般に、「何のために日本語を学習するか」について学習者自らが明確に自覚していると前提できる、とされてきた。したがって、JFL教育で採られるコース・デザインの手法においては、学習者の自覚している目標がそのまま教育目標としてア・プリオリに採用されることになる。教育目標の大枠は、いわば、学習者から教授者側に「与えられた」もの、あるいは「発注された」ものとしてあることになる。コース・デザインは、このア・プリオリな目標を達成すべく、具体的な学習内容と方法を決定し、実施し、評価していくことである。
このように、JFL教育では、学習者の学習目的が明確で、教授者側はそれにもとづいて教育目標を設定すればよい。これに対してJSL教育の場合は、学習の最終目標が非常に広範囲で、究極的には日本語が「第2の母語」として機能するレベルまでめざされるという性格がある。また、その一方では、当初の目標がサバイバルのレベルにならざるを得ないという実際的な状況もある。究極的な目標と当初の実際的な目標との乖離は非常に大きい。また、JSLの学習は非常に長期にわたるため、学習意欲の維持が難しくなる。学習者のそれぞれの段階、状況に応じて学習意欲を維持させ、学習を継続できるようにすることがJSL教育の重要な課題となるのである。
ネウストプニーによれば、日本語教育は、言語能力だけを対象とした「単なる語学教育」から、言語能力プラス社会言語能力を対象とした「コミュニケーション教育」へ、さらに言語能力、社会言語能力および社会文化能力を対象とする「インターアクション教育」へと移行しつつあるという。
JSL教育では、学習者の生涯を通じて学習が継続されていくことがめざされなければならない。そうである以上、学習者の日本でのライフ・コースを念頭において、その段階毎に適切な目標設定をすることが必要となる。
生活の中での日本人とのサポート・ネットワークを自己学習の場とすることができたわけである。言い換えれば、彼らは春原(同)のいう日本人とのネットワーキング・ストラテジーを体得し、それをフルに活用し得ている。
4. 以上の所、広辺が所沢センターのホームページで掲載されている論文を九割がた引用したものである。それでは、次に広辺が考えたことをここで述べたい。
言語学習の際、自らのアイデンティティーを探究するための目的で学習している場合、これを統合的動機づけといい、これと対照的に、実利的な目的で、必要に迫られ学習する場合、道具的動機づけという。
帰国生徒が日本語学習をする場合、初期段階では、この言語習得を「道具的動機づけ」だと言える。しかしながら、ある程度日本語を覚え、日本の生活にも慣れてくると、帰国生徒は留学生と違う感情を日本に抱くようになる。自分のなかに日本人が入っているということである。すなわち、それまで、自身のアイデンティティを、かなり中国人として意識していたが、よく考えてみると、自分はかなりの部分で日本の「モノ」に同調し、考え方や行動スタイルも日本人よりしていることに気付くのだ。こういう時、逆に留学生等の中国人の考え方や価値観に抵抗が出てくるのだ。ここで、いわゆる、アイデンティティ・クライシスのようなものを感じるのだ。
でも、危機感を覚えるからといって、日本にまっすぐ飛び込むこともできない。来日するまで、帰国生徒は中国文化に触れ、その環境のなかで育てられた。よって、統合的動機づけで日本語学習ができない。けれども、これで完全に「道具的動機づけ」で学習できるかというと、そうではない。先にも見たように、帰国生徒は将来日本で生活していくため、彼らの日本語学習は生涯学習の意味合いがあり、学習は非常に長期にわたるため、学習意欲の維持が難しい。
ここで、広辺自身の経験を踏まえた発言をしたい(恐縮だが)。
日常の活動場面でのコミュニケーション日本語能力をこなせるようになると、それ以上のボキャブラリーや日本事情を知ろうとする意欲というものが薄れてくるのが常である。この学習意欲を持続したければ、好奇心を持っていろんなものを知ろうとする姿勢が必要である。
しかし、すべての帰国生徒が好奇心を持てるとは到底考えられない。何か自分の好きな分野やものを見つけるのが私のすすめである。車関係でもいい、園芸でもいい、ダンスでもいい、社会福祉、環境問題でもいい、その分野には必ずその分野の専門用語というものが存在するので、それを覚える。好きでやっているから、言葉も自然に苦にならずに覚えられる。それを通して、日本人や帰国生徒と交流し、そうすることによって、さらなるネットワークづくりに励めると考える。何でも、新しく覚えたものは人前で発表したがるものだから、是非自分からすすんで、発表できる場(人に話すなり、集団で意見交換するなり)を求めてほしいと思う。自分から、そういった新しい刺激を受けられそうな場所に行くのも一つの手だろう。その場で人の話しているものが自分には分からなく、その集団の人にすこしでも近づきたい心があれば、同じように新しいものや言葉を覚えられるはずである。
また、地域等でやっている日本語教室も、是非日本事情を視野に入れ、日本の文化・食・衣・住等を紹介し、彼らの興味や関心を奮い起こしてほしいと思う。
この積極的な「道具的動機づけ」は、日本そのものや日本語に対する執着心を育てられると考える。
それから、大学という教育機関で学習すると、物事に対し、違うビジョンを持てるようになるうえ、周りの刺激も容易に受けられることもここで挙げておきたい。
何はともあれ、老いた頃の自身を想像し、自分の目標イメージ(ああいう風に歳を重ねたいとか、ああいう感じの人間になりたいとか)にすこしでも近付きたい心が一番の近道であり、大切な気持ちである。
********************************************************************************
参考文献
・カリキュラム開発のための状況分析調査
───「帰国婦人コース」開設に向けて───
平城 真規子
・青 年 二 世 進 路 調 査 報 告 玉居子 延子
・ 大学における中国帰国孤児子女の現状と日本語教育 御園生保子・木村健二
・小中学生クラス修了生の学校編入の現状 寺村 由佳 ・佐久間治夫
・事例研究:人的リソースの利用状況 −中国帰国生徒の場合−
寺村 由佳・佐久間治夫
・ 第2言語としての日本語教育の課題 小林 悦夫
・中国残留孤児二世の発達適応に関する研究 ---事例研究による仮説探索---
岡野真紀子
・非識字者を含むセンタ−修了生家庭への訪問調査報告
児玉 周子・内藤 臨
・日本語教育が必要な児童生徒対象の教育目標構造化の試み
−センター中学生クラスを例に−
池上 摩希子
・外国人児童生徒のための日本語教育のあり方 西原 鈴子
・ 『小蓮の恋人』 井田真木子 文芸春秋 1993
・
下の表は資料1「中国帰国者の年度別帰国状況」