一般言語学演習

「方言と共通語について」

 国3 61028 岡山由美子

 

私は「日本本土の方言」について調べました。「日本本土の方言にはどのような種類があるのか、また、それを話す人はどこに住んでいるのか」ということや、「共通語と標準語と方言とはなにか」ということ、また「地方によっての方言と共通語の使い分け」、「学校教育での方言の位置づけ」、「ラジオやTVなどで方言は使われているのか」、「標準語化によってほうげんはなくなるのか」、ということなどについて調べてみました。

 

「日本本土の方言にはどのような種類があり、それを話す人々はどこに住んでいるのか」ということですが、1本土方言には、八丈島と青ヶ島で使われる特徴のある八丈方言、2東京を含んで、本州東部と北海道で使われる東部方言、3京都・大阪を中心とした、本州西部と四国とで使われる西部方言、4九州とその周辺で使われる九州方言、の大きく分けて4つに分けられます。また、東部方言の中には、奥羽方言、北海道方言、関東方言、東海・東山方言、越後方言などがあり、西部方言の中には、近畿方言、四国方言、北陸方言、中国方言、雲伯方言などがあります。(図1参照)

 

次に、「共通語と標準語と方言とはなにか」についてですが、“共通語”とは、生活環境や方言体系の異なった人々が、全国どこででも誰とでも意思を通じあわせることのできる言語のことで、全国共通語とも言われている、という言葉のことであり、“標準語”とは、共通語をさらに洗練し、日本語として最も規範的であることが期待され、その使用に際しては強制力をも有する理想的な絶対言語のこと、を言います。

 

これにたいして、一地域だけで使用される言葉のことを“方言”と言います。「地方によっての方言と標準語の使い分け」についてです。まず、表1の説明をします。縦の欄の“東京・共通語・未知人”というのは“東京で共通語を話す見知らぬ人に道を尋ねるとき”、“テレビインタビュー”というのは“全国放送のテレビインタビューに答えるとき”、“東京・電車・方言・友人”というのは“方言を話す知人と東京の電車の中で話をするとき”、“地元・共通語・未知人”というのは“共通語を話す見知らぬ人と地元の道端で話をするとき”、“地元・方言・知人”というのは“地元の道端で方言を使う知人と話をするとき”ということの略で、いずれも、そのような場合にはどのような言葉を使いますか、という質問です。横の欄は、それに対しての答えで、1共通語、2方言独自の言い方が出ないように気をつけた言葉(「準共通語」とする)、3家にいるときよりも丁寧な方言、4家にいるときと同じ方言、5できるだけ話さないようにする、の5つあります。この表は、各地域の高校生から60歳以上のネイティブの、主に男性にとったアンケートの結果です。

 

この結果、いずれの地域でも、場所が地元であっても、相手が見知らぬ人であったり、共通語話者の場合には、方言量は減少しています。一方、場所が東京であっても、方言を話す友人との会話では、方言を用いる割合が比較的高いです。しかし、地元での方言量に比べて、場所の効果もあってか、その量は減少しています。つまり、方言話者たちは、相手や場所、相手によって細かに言葉を使い分けていることがわかります。次に、表2の説明をします。表1のアンケート結果で、共通語量と方言量がそれぞれ最大であった二つの設問を用いて、一四地域における方言と共通語の使い分け状況を把握しようとした表です。表中の格棒では、上方向に「東京・共通語・未知人」への「共通語・準共通語」で尋ねるとした割合(共通語量)を表し、「地元・方言・知人」への「方言・丁寧方言」で話すとした割合(方言量)を下方向に示しています。格棒中央の値は、共通語量と方言量の使い分け値であり、この値が大きければ大きいほど、その地域での使い分け行動は厳密であることを意味します。

 

この表から、東京での使い分け値は一四地域中最小であり、他の地域に比べて言葉の使い分け行動が曖昧となっていることを意味します。これは、東京方言の話者が、「東京に生まれ、教育もすべて東京で受けたので、自分の言葉が共通語として通じる自信が自然とできてしまった。」と話しているように、普段使っている言葉と共通語がにているため、あまり「使い分け」という意識がないのだと思われます。また、京都においても、京都の方言と共通語が似ていない、ということにもかかわらず、他の地域と比べて、共通語を使う割合が低く、方言を使う割合が高い、ということもわかります。またこの表によって使い分け行動が厳密な地域は、@弘前A高知B鹿児島C金沢であり、使い分けが曖昧なのは、@東京A札幌B京都であることがわかりました。使い分け行動が厳密な四地域はいずれも方言の存在意識を地域居住者たちが明確に意識している地域であり、地域社会での日常を方言で営むことが自然な環境にあるとした地域でした(方言主流社会)。一方、使い分けの曖昧な三地域は方言や共通語のイメージ聞いた調査において、他の十一地域とは典型的に異なる特徴を示した地域であり、京都をのぞく二地域は「共通語中心社会」と呼ばれ、方言の言語的価値を日常の言語生活に見出しにくくなった地域社会と結論づけられた地域でした。つまり、方言主流社会では、方言と共通語の使い分けが厳密であり、共通語中心社会では、方言と共通語の使い分け行動が曖昧になっている、ということがわかりました。

 

「学校教育での方言の位置づけ」についてです。

共通語は人為的色彩が濃いのに対して、各地に実在する方言は自然に成立した言語であり、日常に生活において自然に使用されている国語ということになります。方言は、国民の一人一人の言語生活において果たす役割は大きく、また、方言の使用が地域の社会生活においてもつ意義も重大なものなのですが、学校の国語教育では、特に方言については取りあげられておらず、共通語が対象となっていることがわかりました。その理由なのですが、学習指導要領には、国語教育について次のように書かれています。小学校第四学年「共通語と方言とでは違いがあることを理解し、また、必要な場合には共通語で話すようにすること。」第五・六学年「必要な場合には共通語で話すこと。」中学校の学習指導要領では、各学年において「共通語と方言」に対する理解の指導を行うことと合わせて、「共通語については、適切に話すことができるようにすること」と示されています。さらに高校では「現代国語」の指導内容として「共通語の指導は、主として聞くこと・話すことの中で行うが、読むこと・書くことの指導の際にも適宜行うようにすること。」と示されています。

 

これらの例からもわかるように、国語教育の指導は方言の指導と言うよりも、共通語の指導の際における関連としての方言、ということで考えられています。これは方言を排除しようとしているのではあろません。私たち日本人は、日本本土に共通して使われている「共通語」と、住んでいる地域だけに共通して使われている「方言」との双方を必要に応じて使いこなさなければならない、という必要性があります。しかし、方言は、それぞれの地域や地方において自然に使用されているので、計画的指導をするまでもなく生活に最も密着した言語としてすでに使用されています。だから、日常生活の中ではあまり使われることのない「共通語」の方に、重点が置かれているのだと思われます。

 

「マスコミやTVなどで方言は使われているのか」

NHKでは、『放送の言葉は原則として、標準語による。必要により方言を用いるときは慎重に取り扱う。』とされており、このマスコミの標準語主義こそ、特に話し言葉の領域での標準語の全国的普及にあたっての最大の功績者であるといえます。

 

なぜ、標準語が使われているのかというと、方言は地方独自の歴史・風俗・習慣や、個人の日常の細かな感情の起伏などを表現するのには適していますが、ニュース報道の中心をなす政治・経済・文化・科学などに関する事実や思想を表現するのには適していないからです。これは、日本の学問や教育などが、近代、書き言葉に立脚して標準語一本で行われてきたことの必然的な結果であるといえます。また、伝達範囲が広い地域にわたるし、受け手が不特定多数であることから、広い範囲の人々に正しく伝達しようとするには、誰にでも通じる標準語が最も適しているからです。つまり、マスコミが公共的存在であることから、マスコミで扱われる言葉が公共の言葉で、正しい・美しい言葉でなければならないことから、標準語が使われているのだと思います。

 

しかし、方言が用いられる場合もあります。例えば、地方の出来事を全国に伝えようとして、その中に標準語では表現できない、また表現しにくい時が生じた場合や、現場の雰囲気を出すために、あるいは、原意を損なわないための配慮としてそのまま用いられる、という場合などです。

 

 「標準語化によって方言はなくなるのか」という問題についてですが、近年、TVなどの影響で、東京の日常語化(東京方言化)が急激に進行しています。『現在、各地で起こっている変化の中には、“共通語化”ではなく“東京語化”といえるものがある。』と指摘されているのですが、“東京語化”というのは、昔のように教科書や新聞・小説を通して文章語が広がるのではなく、東京の話し言葉、つまり口語・日常語・俗語が各地で広がることで近年では、各地に新しい方言が成立していると考えられています。

 

この東京方言化は、特に若年層の間でよく使われており、地域社会においては、高年層を中心に使用されている従来からの方言と、東京方言の影響などにより成立した若年層を中心に使用されている方言が並存しています。このようなことから、TVなどの影響により、標準語化して方言がまったくなくなってしまうのではなく、方言の中に東京語を取り入れた、従来からの方言でも、標準語でもない、また別の新しい方言が生まれていっている、ということになります。

 

以上

 

【参考文献】

 

●佐藤和之(1998、1)『共生する方言と共通語―地域社会が求める使い分け行動』(月刊言語)

日本各地のそれぞれの地域に住むネイティブの方言話者に、話す相手が知人か未知人か、また方言話者か共通語話者か、場所が地元か東京か、などといった場合、それぞれどのような言葉を使うか、というアンケートをとり、東京方言話者と地方方言話者の、方言と共通語の使い分け意識と使い分け行動を表に表して、細かく分析している。

また、それをさらに細かく調査し、言葉の使い分け行動、例えば、ある場面ではどう言った言葉がどれくらいの割合で使われているかと言った、地域それぞれの使い分け行動を、多変量解析によって類型化し、二〇世紀末における日本人の方言と共通語との関係についてを分類している。そして、なぜ使い分け行動がなされるのか、ということについても解説している。

 

●御園生保子(1983、5・14)『方言と標準語の場面による切り替え』(言語生活377) 

現在は東京で働いているが、出身地方に生活基盤があり郷里との交渉が頻繁である、という人を選んで、アンケートをとった。その内容は、自分の方言は標準語と似ているか、東京でとまどったときはどういうときか、学校での言葉、家庭での言葉、近所に対する言葉、職場の人に対する言葉、また丁寧に話すときの言葉、はどういった言葉を使うのかなどを大きく九つに分けて、それを家の中か外か、仕事関係の人かそれ以外か、年上か年下か、という質問に組み合わせたものである。このアンケートをもとにして方言と標準語の使い分けの調査をして、園結果を図や表にあらわして細かく分析している。 

そして、どのような場合に方言がよく使われ、どのような場合に標準語がよく使われているのかをまとめ、また年齢別による差、自分の方言と標準語が似ているのか似ていないのか、などの違いによっても分析している。

 

●柴田武(1998、1)『東京語とは何か』(月刊言語)

「東京語」とはどこのだれの言葉のことを言うのだろうか。東京弁、東京方言、標準語などとはどう違うのか。ということを、『東京語の性格』という本やいろいろな辞典を参考にして、著者の“フィールドワーカー”という立場から「東京語」について分析している。

 

●佐藤和之(1998、1)『方言主流社会の東京語』(月刊言語)

東京語には東京方言としての顔と、共通語としての顔がある。二つの顔を作ってきたのは、実は東京と地方との関係にあった。このことから著者は、方言主流社会での非方言へのイメージや、江戸時代末期から明治時代初期の東京語のイメージを取り上げ、なぜ、言葉の中心が東京になったのかを分析している。 

また、二〇年以上も続けてTV放送されている「サザエさん」を例にあげて、戦後の情報メディアを通して東京語が全国に広がっていく過程が説明されており、戦後と戦前で共通語のイメージの違いや、広がる媒体となるものが違っていることなどから、人々が考えている「共通語」とはなんなのか、ということをまとめている。

 

●柴田武(1955、2・11)『方言から共通語へ』(言語生活41)

ある地域をとって、その全体を見渡してみると、そこには方言と標準語とが同時に行われているのが現状で、その方言と共通語はそれぞれ独自の体系をもった言語あると考えることができるが、方言と共通語はもともとは同じ日本語で、共通の部分がきわめて多いから、母語として方言を覚えた後で学ぶ共通語は、全く異なる外国語を学ぶのとは違って、ただ部分的な修正で足りることが多い、と、自分の経験もふまえて、“共通語化が徐々に行われるために、方言から共通語に変わるまでには無数の段階が考えられる”と考えた著者が、方言から共通語までのプロセスを、『白河報告』『鶴岡報告』をもとにして言語のどういう構造面から変わるか、どういう場面から変わるか、どういう人から変わるか、という3つの方面に分類してまとめている。

 

●三浦勇二(1963、7)『標準語に関する国民の認識程度―大学生の弁論を聞いて―』(言語生活142)

東京の大学弁論部の「日本の言葉について」という論題の「標準語をもっとよいものに改良せよ」という内容の弁論を聞いた著者は、この大学弁士に代表される国民一般の国語、とりわけ標準語に関する認識の程度について知りたいと思う。そこで、その後の座談会に出席をし、先ほどの弁士と、座談会に出席していたある男子高校生との弁論についてのやりとりを聞く中で、先ほどの弁論の論旨、また著者自身が疑問に思っていたことなどの結論を出し、それをまとめたものである。

 

●石垣福雄・他(1955、2・3)『東京語は広がる』(言語生活41)

北海道・和歌山県・島根県・福岡県の四つの地域で、方言に対する東京語の影響や、東京系アクセントの広がっていく過程、また東京語のラジオ、映画新聞、雑誌・通信・交通などが地方の言語生活にどのような影響を与えているのか、という内容のアンケートの結果から、東京語をどうみているのか、という東京語に対する意識などを分析し、まとめている。

 

●井上文雄(1980、5・9)『方言のイメージ』(言語生活341)

二〇〇個の評価語を用い、全国七大学の学生に、学生各自の出身地の言葉について評価してもらい、このデータをもとにしてクラスター分析と林の数量化論第V類を適用し、この結果をもとに、各地の方言イメージを位置づけるにふさわしい評価語を十六個選び、十六評価語の知的・情的+−平均値、十六評価語の8地方ごとのなどを分析する。そしてそれをもとにして方言イメージと方言、方言イメージと地域(人)イメージ、方言イメージと方言コンプレックスの3つに分類し、結果を分析している。

 

●鈴木敏昭『イメージの中での方言と標準語―大阪府豊中市での調査から―』(富山大学人文学部紀要)

この研究は、大阪府豊中市でのアンケート調査を基にして、方言と標準語がイメージとしてどのようにとらえられているか、という問題に検討を加えたものである。豊中市でのアンケートというのは、日常の言語行動を規定する諸要因、とくに、発話場面の要因を明らかにする目的で行われた一連の社会言語学的調査の一環をなしているもので、対象年齢は15歳から69歳までの範囲で、その中から、ランダム・サンプリングで調査対象を決め、アンケート方式で、最終的に、505人から調査票を回収しているものである。

ここでの報告は、先のアンケート調査の報告で取り上げることのできなかったイメージ的にとらえられた方言と標準語の問題を扱ったものである。 方言と標準語はどんなイメージでとらえられているのか、クラスター分析を用いてのイメージ相互の分類、イメージと非調査者の属性、と項目を大きく3つにわけて分析し、結果をまとめたものである。

 

●井上文雄(1967)『東京圏の方言と共通語―埼玉県女子校アンケート―』(東京外国語大学論集第37号)

埼玉県の方言と東京語(東京方言)との関係を探ることをねらいの一つとしており、埼玉県の女子高生とその親を調査対象にして、予想言語をいくつかあげて、日常生活の中でその言葉を使うか、聞いたことがあるか、また、単語ごとの予想語形などをたずねたアンケートを行い、その結果を林V類によるパターン分類、グループごとの積算使用語数、項目ごとの世代・育成歴別の使用率、累積度数・代表的項目に分けた埼玉県内の地域差、その他の語形、の8項目に分けてグラフなどに表し、それを細かく分析してまとめている。

 

●外山正恭(1982)『高校生は方言をどのように見ているか』(新潟県高等学校教育研究所国語研究)

いわゆる「地方」に住む人は、方言と共通語の二重の言語生活をしている。しかし、方言について考えたり考えさせたりする機会はたいへん少ないようである。今は、方言が消滅の一途をたどっていると言われているから方言などを考えてみても仕方がない状況にあるのだろうか。高校生は、日常生活で方言を確かに使っている。でも、どのように使っているのだろうか。それらの方言をどのように見たり、感じたりしているのだろうか。 

このことを知るために、県立長岡大手高等学校第二学年133名に、1長岡市を中心とする地域で、一般的と考える方言語彙74語の使用状況と、2その74語を除く居住地域の方言語彙、の2つを調査事項にし、74語の調査語それぞれに使用後・理解語・死語の別を、該当欄に○印付け出す方法と、知っている地域の方言を自由に書き出す、という二つの方法で調査を行い、その結果を、方言使用の状況について、方言集について、その他の事項について、の3つに詳しく分類し、調査の結果とそれに対するそれに対する生徒の感想をあげている。

 

●山県浩(1989)『進学に伴う方言行動・方言意識の変化―群馬県の中学生・高校生の場合―』(群馬大学教育学部 人文・社会学科編 第39号)

方言と共通語を場面に応じて使い分けたり、方言を方言、共通語を共通語として認識したりすることは、方言話者が成長の過程で徐々に習得していくものである。 特に十歳台の若年層では、このような使い方や捉え方に関する理解は飛躍的に深まるものと考えられる。これは、児童・生徒の言語的関心・言語能力などの高まりに加えて、マスコミ・教育の影響や交友関係の広がりなどによって様々な言語接触を経験するためであろう。中でも児童・生徒の日常生活で大きな比重を占める学校における級友との交流は座視することができない。公立の中学校・高校は、それぞれに学区をもち、中学校のそれは、一つの市町村の全域または一部、高校のそれは、幾つかの市町村にまたがるものである。従って、高校進学によって異なる方言の話者と接することが多くなり、自らの方言の使い方・捉え方、更に、他方言や共通語の使い方・捉え方に変化の生ずることが考えられる。 

特に、新しい級友との出会いをもたらす「進学」は、新たな言語接触を生むことになる。本稿は、中学校から高校への進学に伴う他方言の話者との接触が方言・共通語の使い方・捉え方の変化にどのような影響をおよぼしているかについて、群馬県の一地域の調査を基に報告するものである。

 

●真田信治・代表(1996)『地域語の生態シリーズ 東北篇・首都圏篇・関西篇・中国、四国篇・九州篇・琉球篇』(おうふう社)

『地域語の生態シリーズ』は、現代日本の地域社会の言語実態を、最新の成果に基づいて記述し、将来への展望をふまえて編集したものである。列島を見渡して、重点地域6箇所を定め、各地域での状況をスケッチし、それぞれの特長を明らかにする中で、言語変化の一般性を追求しよう、と考えられている。 また、社会言語学の入門書としても、研究所としても役立つよう、十分に配慮されている本である。

 

●方言資料研究会編『方言おもしろ事典』(アロー出版社)

方言とは、東京以外の各地方で使われている代々語り継がれてきた土着の言葉と思われがちだが、東京も一地方にすぎないし、そこで使用されてきた言葉も「東京方言」といわれるものなのである。つまり、方言とは、いわば言葉の地域的な変種であるが、古代国家の発生、封建社制度の成立、交通路の発達、都市の繁栄など、諸々の条件の過程の中で生まれ育ち、長い歴史をも経て今日に至ったものなのである。それだけに同一の意味を持つ言葉であっても、その方言が様々であるのは当然である。

この本は、全国各地の様々な方言について、意味と使われている地域、また語源がはっきりしているものに関しては語源ものせて、方言そのものを理解するためではなく、方言に興味をもってもらおうというのが目的で編集されたものなのである。

 

●真田信治『日本語のゆれ』(南雲社)

著者の信念は、言葉はいずれにしても地域を抜きにしては考えられない、というものである。しかし、地域を抜きにしては考えられないはずのその日本語が、往々にして地域性を無視した形で論じられている現状がある。これは、その現状に不満をもった著者が、方言学の窓を通して日本語の生態をスケッチしたものである。

越中五箇山郷のことば、ことばの創造と誤用、ことばのゆれと標準化、各地方言の特色、と大きく4つに分けられており、ことばの世代差、方言の定義、ゆれの定義、各地方言の特色などが論じられている。

 

●文化庁編集(1977)『「ことば」シリーズ6 標準語と方言』(大蔵省印刷局)

「ことば」シリーズでは、話し言葉、書き言葉を問わず、国民各層から広く関心の持たれている言葉に関する問題を取り上げ、その内容や言語生活における在り方について、専門家や学識経験者などにより、分かりやすく解説などを加えていこうとするものである。

「標準語と方言」というこの本では、日常の言語生活の中で身近な問題として、広く強い関心が寄せられている標準語と方言に関わる『各地の方言』や『現代社会生活における方言・標準語の諸問題』『マスコミと標準語・方言』、『教育と標準語・方言』などの諸問題が取り上げられている。この本は、総論を兼ねて標準語、方言に関する諸問題を話し合った座談会、と問題になる点に関する解説六編、から構成されている。

 

●『ザ・方言』

http://www2.fuchu.or.jp/~rank/hougen/jiten/kensakuform/pl

「方言大研究」という、ある文章を日本各地の方言で言ったらどのようになるか、という実験のコーナーがある。また、「方言大辞典」という登録型の方言辞典もあり、ある方言を検索すると、それがどこの地域で使われている方言なのか、ということが分かるようになっている。そしてそれは、昔の地名や現在の県名でも検索できるようになっている。 

 

●『ふるさとの方言』

http://www. itl.atr.co.jp/diarect/

各地の方言のページを紹介するページである。つまり、現在の、www上の日本各地の方言のリストである。個人の方の作ったホームページがほとんどであるが、中には、教育機関、大学などの研究機関、地方自治体、新聞社のページもある。そして、海外にある、日本語の方言ページや、英語で書かれた方言ページなどもある。