古代日本での言語接触

 

大学院修士課程1年  保坂秀子

 

1,.はじめに

 

 日本は古代から他国と盛んな交流を行なってきた.他国との交流が日本に与えた影響の大きさは改めて述べるまでもない.本稿で扱う8世紀までの時代においてすら,すでに隋・唐,新羅,百済,高麗,任那,渤海,耽羅(済州島),吐火羅(タイ),舎衛(インドの地名),掖玖(屋久島),多@(種子島),阿麻美(奄美大島),隼人,蝦夷,粛慎などの国や島,種族からの使者の行き来,あるいは戦い,人の渡来,留学,遭難による漂着などの交流があった.こうした国々との交流の中には言語による思わぬ誤解や渡来してきた人々の日本語習得に問題が起っている.ここでは、あえて8世紀までの記事にしぼり紹介と何故そうした問題が起こったのかについて考えてみたい。

 

 

2,.新羅人と日本人の言語接触

 

 2.1 誤解された新羅弔使

 

  十一月に、新羅弔使等、喪礼既に@りて還る。爰に新羅人、恒に京城の傍の耳成山・畝傍山を愛づ。即ち琴引坂に到り、顧みて曰く、「宇泥灯b梛、弥弥巴梛」といふ。是、未だ風俗の言語を習わず。故、畝傍山を訛りて宇泥唐ニ謂ひ、耳成山を訛りて瀰瀰と謂ひしのみ。時に倭飼部、新羅人に従ひ是の辞を聞きて、疑ひて以為へらく、新羅人、采女に通けたりとおもふ。乃ち返りて大泊瀬皇子に啓す。皇子、則ち悉に新羅使者を禁固へて、推問ひたまふ。時に新羅使者、啓して日さく、「采女を犯すこと無し。唯京の傍の両山を愛でて言しつらくのみ」とまをす。則ち虚言なるを知ろしめして、皆原したまふ。是に新羅人、大きに恨みて、更に貢上の物の色と船の数を減す。

                    (『日本書紀』允恭天皇四十二年条)(注1)

 この記事は,允恭天皇の葬儀におとずれた新羅弔使の記事である.弔使は大和三山の中の耳成山と畝傍山を称賛し「宇泥灯b梛、弥弥巴梛」と言ったにも関わらず,この言葉は日本の倭飼部の誤解を招いてしまう.小島・直木・西宮・蔵中・毛利(1996)頭注によれば,

  新羅人が日本語に習熟していないためにウネビ(乙)ヤマをウネメ(甲)、ミ(甲)ミ(甲)ナシヤマをミ(甲)ミ(甲)と訛る。ウネメハヤ・ミミハヤのハヤは感動の助詞。

とある.これに基づいて万葉仮名の音韻表を確認すると「ビ(乙)」は「b@」「メ(甲)」は「me」であり,「ミ(甲)」は「mi」である(注2).「宇泥灯b梛、弥弥巴梛」について井上(1985)は,「私が愛でたうねめはどうしたろう、みみはどうしたろう」(3)と解釈している.当時の日本において采女は原則として天皇の以外の臣下が妻にできないという事情があり,また,弔使が耳成山を「弥弥(「耳」と同音)」としか言わなかったため,倭飼部は新羅弔使が采女に姦通したものと判断してしまい,外交に影響を与えかねない誤解を生じたものと考えられる.

 

 

2.2 新羅からの日本語学習者

 

 新羅と日本とは外交史の面から見ると交流が途切れたり,険悪な状態になることが何度かあった.しかし,新羅からの日本語学習者が来日していたらしく天武天皇九年(680年),天平十一年(739年),天平宝字四年(760年)に記事が残っている.

  明日、恵妙@終せぬ。乃ち三の皇子を遣して弔はしめたまふ。乙未に、新羅、沙@金若弼・大奈末金原升を遣して、調進る。則ち習言者三人、若弼に従ひて至り。

                  (『日本書紀』下 天武天皇下 九年十一月条)

  十二年春正月戌子の朔、天皇、大極殿に御しまして朝賀を受けたまふ。渤海郡使・新羅学語ら同じく亦列に在り。但し、奉翳の美人は更めて袍袴を着たり。飛騨国、白狐・白雉を献る。

(『続日本紀』聖武天皇 天平十一年正月条)(4)

九月癸卯、新羅国、級@金貞巻を遣て朝貢せしむ。陸奥按察使従四位下藤原恵美朝臣朝@らをして、その来朝くる由を問はしむ。貞巻を言して日はく、「職貢を脩めずして、久しく年月を積む。是を以て本国の王、御調を@して貢進らしむ。また聖朝の風俗言語を知る者無し。仍て学語二人を進る」といふ。

                   (『続日本紀』淳仁天皇 天平宝字四年九月条)

 これら3つの記事の間には約60年と約20年間の差があり,この間を埋られる新羅と日本の言語接触に関する記事は見当らない.「習言者(ことならひひと)」「新羅学語」「学語」 の語はともに日本語学習者をさし,彼らが新羅から来日していることが上記の記事から確認できる.

 天平宝字四年九月条での,「風俗言語を知る者無し。」という新羅王の発言を伝える使者の言葉には,言語学習をするといった時に言語の習得だけでなく,「風俗」(5)への配慮のあったことが窺える.

 

 2.3 美濃・武蔵の少年と新羅語学習

 

  乙末、美濃・武蔵の二国の少年、国毎に廿人をして新羅語を習はしむ。新羅を征たむが為なり。           (『続日本紀』淳仁天皇 天平宝字五年正月条)

 

この記事には1つの疑問が生じる.それは何故,美濃・武蔵の少年たちに新羅語を学ばせたのかということである.青木・稻岡・笹山・白藤(1990)の脚注よれば,「霊亀元年七月丙午条には美濃国に、天平宝字二年八月癸亥条・同四年四月戌午条には武蔵国に、新羅の渡来人を居住せしめており、あるいは彼らの子孫を用いたものか。」(6)とある.この脚注に基づきさらに,移住以前の年月や霊亀元年(715),天平宝字二年(758)天平宝字四 (760)から考慮すれば,天平宝字五年(761年)に召集されたのは渡来人1世から3世,あるいはそれ以降の少年たちだと推定される.しかし,記事を見るかぎり,この少年たちが渡来人であったことすら証明するものがないのである.そこでこの記事の背景を見てみたい.

 少年への新羅語学習の背景には天平元年(729)以来不調であった新羅との関係が悪化の一途をたどり,天平宝字三年(758)頃には新羅征討計画が具体化して来たという経過がある(青木・稻岡・笹山・白藤(1992)補注22ー二八 淳仁朝ノ新羅征討計画項参照).目的を「新羅を征」つことに定め言語教育をする以上,迅速に新羅語を集得し,新羅人が話すように新羅語を使いこなせるということは必須条件であったのではないかと考えられる.また,小野(1996)によれば,北海道に移住した1世の出身方言が語彙・文法・音韻・アクセントの各面共に2世にはほぼ受け継がれるが3世では揺れが生じ始め,4世以降に関しては1世の出身方言とはむすびつかない言語を使用するという変化がおこっているとある.渡来した新羅人たちの言語の変化や残留について考える上で道標となる説である.

 新羅語教育に際し美濃・武蔵の少年を召集した理由に,「新羅征討」の目的と移住による言語の変化を考慮すると,新羅語教育をするのに日本人の間に生まれ育った少年や4世以降の新羅渡来人の少年よりも1世あるいは2世・3世の少年たちに新羅語を学習させた方が理にかなっていると考えられるのである。

 

2.4 新羅から渡来した尼僧

 

 渡来人の記事に限らず古代の文献には女性の記事は少ない。しかし、その数少ない中にある、新羅から渡来した尼僧の記事を紹介したい。『万葉集』巻三・461番歌の左注には以下のように書かれている。

 

  右、新羅国の尼、名を理願といふ。遠く王徳に感けて、聖朝に帰化しぬ。時に大納言大将軍大伴卿の家に寄住して、すでに数紀を経たり。ここに、天平七年乙亥を以ちて、

  忽ちに運病に沈み、すでに泉界に趣く。ここに、大家石川命婦,餌薬の事によりて有間の温泉に行きて、この喪に会はず。ただし郎女ひとり留まりて、屍柩を葬り送ることすでに訖はりぬ。仍りてこの歌を作りて、温泉に贈り入る。

 

 新羅の尼僧理願がいつ日本に来たのかは正確にはわからない.しかし,天平七年(735)に亡くなった時にすでに数十年の時が経っていたことは「すでに数紀を経たり」という言葉からわかる。

 理願について詳細な話し言葉や大伴家の人々との言語接触については何一つわからない。新羅の言葉で通じるような通訳や言語能力が大伴家の人にあったのかも、理願にどの程度日本語の能力があったのかもわからない。しかし、歌の中に渡来してきた彼女と大伴家の人の言語接触をうかがわせるような表現があるので少し見てみたい。理願の死去に対し詠まれた大伴坂上郎女という女性の挽歌、巻三・460番歌の中に「たくづのの 新羅の国ゆ 人言を 良しと聞かして 問ひ放くる 親族兄弟 なき国に 渡り来まして……….」とある。「(たくづのの)新羅の国から 人の噂に 住みよい国だと お聞きになって話し合う兄弟とて いないこの国に 渡って来られて………..」(訳は日本古典文学全集『萬葉集』@より引用)とある。

「問ひ放くる 親族兄弟 なき国に」この表現には「話をする相手がいない」というような単純さは感じられない。実際に理願とのコミュニケーションが生活上問題なくはかれていたとしても、なお残る理願の言語や言語を支えている背景の相違に大伴坂上郎女が同情を寄せた表現ではなかったろうか。

また、この挽歌の中の「生ける者 死ぬといふことに 免れぬ ものにしあれば」や続く反歌の巻三・461には、

 

  留め得ぬ 命にあれば しきたへの 家ゆは出でて 雲隠れにき

 

とあって、「留め得ぬ 命にあれば」という表現は生者必滅の仏教思想を反映したもので、

理願の口癖だったのではないかという指摘がされている。(澤潟(1958)西宮(1988)参照.

 この記事は少々蛇足的な感があるが、詳細の明らかにしにくい生活を送っていた女性の言語接触記事として紹介をした。

 

3.,百済国での言語接触  ー韓語を理解した吉備海部直羽嶋ー

 

  是歳、復、吉備海部直羽嶋を遣して、日羅を百濟に召す。羽嶋、@に百濟に之きて、私に日羅を見むとして、獨り自ら家の門底に向く。俄ありて、家の裏より來る韓婦有り。韓語を用て言はく、「汝()が根を、我が根の内に入れよ」といひて、@ち入家去りぬ。羽嶋、便に其の意を覺りて、後に隨ちて入る。

            (『日本書紀』敏達天皇十二年是歳条) (会話中ノ()ハ筆者付記.)

吉備海部直羽嶋は,日羅という百済の官人を天皇の命により日本に招くため百済に遣わされた.百済に渡った彼は日羅を見てみようと独断で日羅の家に向かったのである.

 「韓語」には「カラサヒヅリ」と訓が付けられている.坂本・家永・井上・大野(1965)の頭注によれば,「サヒヅリとは外国や辺境の言葉のこと」そして,「意味が通じないことを言うが、原義。」とある.また,韓婦の発言について同書頭注では,「イは相手を軽んじて言う代名詞。以下の文は何を意味するかは明らかでないが、家の内に入ってくるようにという意であろう。」と解釈されている.今となっては意味を明らかにできない謎めいた言葉であるが,吉備海部直羽嶋は「韓語」で語られたこの言葉を瞬時に理解する言語能力を持った人物だったのである.

 吉備の氏は古代の吉備地方に国造家として栄え対朝鮮行動にも活躍した一族の総称である.吉備海部直の姓を持つ他の人物にも高麗の使を送る使として任務を遂行したり,百済に赴いたりしている.(7)

 当時朝鮮半島の一国家であり,天智天皇二年(663年)に滅亡したとされている百済と日本とは多くの使者を行き来させており文化交流も盛んであった.使者の任にあたる多くの人々が吉備海部直羽嶋のように「韓語」を理解し活躍していたものと思われる.

 

 

4., 譯語・通事とその周辺

 

 4.1 唐からの渡来人秦忌寸朝元

 

 『万葉集』の巻十七・三九二二〜三九二六番歌の左注によると, 

 

藤原豊成朝臣    巨勢奈弖麻呂朝臣   

大伴牛養宿禰    藤原仲麻呂朝臣   

三原王       智奴王     

船王        邑知王     

小田王       林王      

穂積朝臣老     小田朝臣諸人   

小野朝臣綱手    高橋朝臣国足   

太朝臣徳太理    高丘連河内   

秦忌寸朝元     楢原造東人   

 

 右の件の王卿等は、詔に応へて歌を作り、次に依りて奏す。登時記さずして、その歌漏り失せたり。ただし、秦忌寸朝元は、左大臣橘卿謔れて云はく、「歌を賦するに堪へずは、麝を以てこれを贖へ」といふ。これに因りて黙已り。(8) 

 

というようにある.題詞によると,天平十八年(746年)正月に雪が降ったため橘諸兄が諸王諸臣たちを連れて太上天皇(譲位前,元正天皇)の御所に行き雪掻きをしていたところ,太上天皇の仰せで酒宴が催され,雪を御題として歌を詠むことになった.その席での秦忌寸朝元にまつわるエピソードが左注に記されているのである.秦忌寸朝元は橘諸兄に「歌を賦するに堪へずは、麝を以てこれを贖へ」(9)とからかわれ和歌を詠まなかった.橘諸兄の言葉からは秦忌寸朝元が和歌を得意としなかったことが窺える.実際,秦忌寸朝元の和歌は一首も残っていない.しかし,吉田宜ら初め多くの渡来人あるいは渡来系氏族出身者が万葉集中に歌を多く残していることから見て,一概に秦朝元が渡来人であったから和歌が詠めなかったと考えることはできない(上田(1978)参照).そこで,秦忌寸朝元の個人的な事情を見てみたいと思う.

 『懐風藻』によると秦忌寸朝元は父辨正法師が大宝年間(701年〜703年)唐に留学した時にできた子であったようで兄に朝慶がいる.しかし,父と兄は唐で亡くなり,その後朝元は養老二年(718年)に遣唐使の帰国船で日本に渡ったのである.(10)

 秦忌寸朝元については次の記事もある.

 

辛亥、太政官奏して@さく、「(前略)また、諸蕃・異域、風俗同じからず。若し訳無くは、事を通すこと難けむ。仍て粟田朝臣馬養・播磨直乙安・陽胡史真身・秦朝元・文元貞等に仰せて各弟子二人を取りて漢語を習はしめむ」とまうす。詔して並びにこれを許したまふ。           

(『続日本紀』聖武天皇 天平二年三月二七日条)

 

これらの記事によると,秦忌寸朝元は10才前後まで唐にいたと考えられる.また,天平二年(730年)に漢語の通訳(「譯語」とは通訳のことである.)養成のために弟子を2名とることを聖武 天皇によって許可されており秦忌寸朝元は漢語が堪能であったということがわかる.この時には日本に渡ったと考えられる養老二年(718年)から12年の歳月が経っており,『万葉集』登場するに天平十八年(746年)には約30年の歳月が経っている.日本語を習得し生活に支障をきたさずに会話ができるようになるのに十分な年月ではないかと思われる.にもかかわらず,秦忌寸朝元は和歌が不得手であったのである.和歌という話し言葉や書き言葉とは異なり,時に芸術性を求められる言語表現を得意としなかった背景には,言語形成期にあたる時期に秦忌寸朝元が唐におり,彼にとって日本語が集得意欲や動機,個性に影響を受ける第二集得言語であったことにあるのではないかと考えるのである.(11)

 

 

4.2 日本と諸国の通訳

 

 秦朝元が通訳養成を許可された記事に関連して古代の通訳の記事を見てみたいと思う.

 日本の対外交流に通訳の存在があったことを知らせる最初の資料は3世紀末に完成した晋の陳寿撰,『魏志』である.その中の「倭人伝」(12)に,

 

  倭人在帯方東南大海之中。依山島爲國邑。舊百餘國。漢時有朝見者。今使譯所@三十國。

 

とある.

 水島(1993)によると「使譯」の項に「「使」は使者の意味で、「譯」は四夷の言を伝える、すなわち他国の言を自国の言になおしてその意を通ぜしめる訳官通弁のことである。」とある.記事は3世紀前半の日本来た魏の使者の見聞にもとづいて記録されたものであり,「倭」の中の30国が魏と使者や通訳を派遣した交流をしていたことがわかる.

 通訳は遣隋使・遣唐使にも同行している.その1例に以下の記事がある.

 

秋七月の戊申の朔にして庚戌に、大礼小野臣妹子を大唐に遣す。鞍作福利を以ちて通事とす。                 

(『日本書紀』推古天皇 十五年条)

「通事」とは通訳のことである.日本最初の遣隋使に通訳として同行したのは,鞍作福利という人物である.通訳や外国人使者の接待には鞍作氏のように,渡来系氏族があたる場合が多いのだが,古来からの日本の氏をもつ氏族があたる場合もあった.(13)

 『延喜式』(14)によると,大宰府仕丁の項には「大唐通事四人。」「新羅譯語。」と あり,唐や新羅などの外国使節や渡来人に対して来朝の理由を尋ねたり,文書や方物の点検を行なってもいることから大宰府には通訳が常駐していたと思われる.また,遣唐使の構成員に「譯語」「新羅。奄義等譯語。」,遣渤海使(15)の構成員に「譯語」,遣新羅使の構成員に「大通事」「小通事」が見え,使節には通訳が必ずついていたようである.

 また,蝦夷・隼人との交流にも通訳が介在していたようで,現在では標準日本語を用いて十分会話の通じる地域でも通訳を必要としていたことがわかる(16).通訳は日本の側 に限ったことではない.

 新漢系の渡来人の中に「譯語卯安那(『日本書紀』雄略天皇七年是歳条)」の名が見られる.また,『延喜式』の「賜蕃客例」の項で来日する新羅,渤海(17)の側にも「譯語」が存在していたことがわかる.当時においても使節を派遣するとき通訳が同行するのはごく当たり前のことであったものと思われる.

 

5,.漂流者との言語接触 ー天竺からの漂流者ー

 

 漂流者と言語に関する記事がある.

桓武天皇延暦十八年七月。有一人。乗小船。漂ー着參河國。以布覆背。有 犢鼻。不袴。左肩著紺布。形似袈裟。年可レ廿。身長五尺五分。耳長三寸餘。言語不通。不何人。大唐人 等見之。僉日。崑崙人。後頗習中國語。自謂天竺人。常彈一弦琴。歌聲哀楚。@其資物。有草實。謂之綿種。依其願。令川原寺。@賣随身物。立屋西@外路邊。令窮人 休息焉。後遷住近江國國分寺

                     (『類聚國史』第四 巻第百九十九 特殊部 「崑崙」)(18)  

 

延暦十八年(799年)の記事である.この記事によると,1人の漂流者が小船に乗り漂流し三河の国に着いたとある.この20才の青年は言葉が通じなかった.在日の唐の人々はこの漂流者が崑崙人であると述べたのだが,漂流者は後になって中国語を懸命に習い自分は天竺人であると言ったという.

 この記事にある漂流者の自らを天竺人と言った知識や中国語を習得したという点には疑問が生じるところである.ただ,この記事は他の漂流記事の中で唯一言語のことに触れている記事であったため紹介をした.

 また,記事の収集の際に『三代實録』の漂流者に関する記事の中に,言語が通じないために筆談によってわずかに意志疎通を果たしたというものを目にした(19).本稿は8世 紀までの記事を中心にまとめることに目的をおいているため詳しく触れないが,これらの記事を検証すれば平安朝以降の言語接触についても様子をつかむことができるのではないかと考える.

 

6,.まとめ

 

 今回対象にした文献の中で諸外国との交流に関する記事は多数あり,かかわった国も何ヵ国にもなる.しかし言語接触というテーマに添い,調査すると記事は大変少なくなり,内容も分類をするには多岐にわたってしまうのである.また,たとえば外国から漂着した人と日本人との間で交わされた会話が日本語に訳されて記されているといった場合もあり,残念な限りである.

 今回,本稿で紹介した新羅弔使や秦忌寸朝元のように具体的な背景を知ることのできる記事に,人間のコミュニケーションが言語のみでなく言語を使用する人々の周辺事情に深く関わることが古代から変わらないことを改めて思うのである.また,今回8世紀までの記事に限り紹介したが続く世紀の文献にも記事があるため、これらの記事をさらに考察すれば紹介にとどまらず新たな見地が生まれるものと考える.

 

 

参考文献

 

青木和夫・稻岡耕二・笹山晴生・白藤禮年(校注)

                   1989 続日本紀@ 岩波書店

                   1990 続日本紀A 岩波書店 

                   1992 続日本紀B 岩波書店

                   1995 続日本紀C 岩波書店 

                   1998 続日本紀D 岩波書店

有坂秀世 1955 上代音韻攷 三省堂

稻岡耕二 (編)1981 万葉集必携 學燈社 

石原道博 (編訳)1985 新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 岩波書店

宇治谷孟 (訳)1988 日本書紀 上 講談社

宇治谷孟 (訳)1988 日本書紀 下 講談社

宇治谷孟 (訳)1992 続日本書紀 上 講談社

宇治谷孟 (訳)1992 続日本書紀 中 講談社

宇治谷孟 (訳)1995 続日本書紀 下 講談社

井上光貞(監訳)1987 日本書紀上 中央公論社

上田雄・孫栄健 1990 日本渤海交渉史 六興出版

上田正昭 1987 万葉の歌と渡来人 国文学 4 2834

小野米一 1996 移住と方言 小林隆・篠崎晃一・大西拓一郎(編)方言の現在 明治書院 Pp225239

澤瀉久孝 1958 萬葉集注釈 巻第三 中央公論社

皇典講研究全国神職会(校訂)1931 延喜式 下巻 臨川書店 

黒板勝美・国史大系編修會(編輯)1981 類聚國史 第四 吉川弘文館 

黒板勝美・国史大系編修會(編輯)1977 日本三代實録 前篇 吉川弘文館

小島憲之・木下正俊・東野治之(校注・訳者) 1992 萬葉集@ 小学館

小島憲之・木下正俊・東野治之(校注・訳者) 1996 萬葉集C 小学館 

小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守(校注)     

1994 日本書紀@ 小学館

1996 日本書紀A 小学館

1998 日本書紀B 小学館

小島憲之(校注)1964 懐風藻 文華秀麗集 文朝文枠 岩波書店

坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋(校注)1967 日本書紀 上 岩波書店 

坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋(校注)1965 日本書紀 下 岩波書店 

佐伯有清 1962 新撰姓字録の研究 本文編 吉川弘文館

真田信治・渋谷勝己・陣内正敬・杉戸清樹 1992 社会言語学 桜楓社        

西宮一民 1984 萬葉集全注 巻第三 有斐閣

橋本達雄 1985 萬葉集全注 巻第十七 有斐閣  

水野裕 1993 評釈魏志倭人伝 雄山閣

 

 

 注 

 

(注1)『日本書紀』の本文は坂本・家永・井上・大野(19651978)より引用.他に,小島・木下・東野 (199419961998),宇治谷(1988,両冊)を参照した.

(注2) 万葉仮名の音韻表は稻岡(1981)(p25)のものを参照した.稻岡氏は同書中でそれぞれの音価に関しての研究は未だに決着を見ていないことを言及した上で,橋本進吉『国語音韻の研究(橋本進吉著作集,岩波書店),有坂秀世『上代音韻攷』(三省堂),大野晋 『上代仮名遣いの研究』(岩波書店),馬淵和夫『国語音韻論』(笠間書院),馬淵和夫「万葉集の音韻」(有精堂『万葉集講座』三)を参考に音韻表をまとめている.また,漢字の甲,乙の別は引用した頭注の他に有坂(1955),『時代別国語大辞典』を参照した.

(注3)「ウネメハヤ、ミミハヤ」の「ウネメ」は「采女」,「ハヤ」は感動の助詞,「ミミ」は「耳」というのが辞書における意味である(『時代別国語大事典上代編』(三省堂)参照)

(注4)『続日本紀』の本文は青木・稻岡・笹山・白藤(19891990199219951998)より引用.他に,宇治谷(1992上中巻・1995)を参照した.

(注5)「風俗」は「ふうぞく」と訓み,「生活上のならわし。しきたり。風習。」というのが辞書における意味である(『日本国語大辞典』「風俗」項@引用) .また,宇治谷(1992)はこの言葉を「風俗」と現代語訳している。

(注6)「尾張国の人外従八位上席田君@近と新羅の人七十四家とを美濃国に貫して、始めて席田郡を建つ。」(『続日本紀』霊亀元年七月条)「癸亥、帰化きし新羅の僧@二人、尼二人、男十九人、女廿一人を武蔵国の閑地に移す。是に始めて新羅郡を置く。」(『続日本紀』天平宝字二年八月条)

    「戊午、帰化ける新羅の一百@一人を武蔵国に置く。」(『続日本紀』天平宝字四年三月条)

(注7)『日本書紀』雄略七年八月条には吉備海部直赤尾が新羅征討の計画に基づいて百済に,また敏達二年五月条には吉備海部直難波が高麗の使を送る使に任命されている.

(注8)『万葉集』の本文は小島・木下・東野(1996)より引用.他に,橋本(1985)を参照した.

(注9)「歌を賦するに堪へずは、麝を以てこれを贖へ」は小島・木下・東野(1996)によれば「歌が作れなかったら、麝香で償いたまえ」と訳されている.

(注10)小島(1964)によれば,「弁正法師者、俗姓秦氏、性滑稽、善談論、少年出家、頗洪玄学、大宝年中、遣学唐国、時遇李隆基竜潜之日、以善囲棊、@見賞遇、有子朝慶朝元、法師及慶在レ唐死、元帰本朝、仕至大夫、天平年中、拝入唐判官、到大唐天子、天子以其父故、特優詔厚賞還二至本朝一尋卒」とある.また,遣唐使は大宝二年(702年)六月二十九日に派遣されており,(大宝年間の遣唐使はこれのみ)朝元の父はこの時に唐に渡ったと思われる.この遣唐使は養老二年(718年)十月に帰国している(青木・稻岡・笹山・白藤(1990)補注8 二五 秦朝元の項参照).

(注11)北村(1952),真田・渋谷・陣内・杉戸(1992)を参照.

(注12)「魏志倭人伝」の本文は水野(1993)より引用.また,石原(1985)も参照した.

(注13)日本から諸外国への派遣や使節接待役には渡来系氏族である吉氏の姓を持つ人々の名が多く見られるが一方で日本に古来からいるとされる豪族,紀氏や大伴氏を持つ人の名も上がっている.(佐伯(1962)参照)

(注14)本文は皇典講研究全国神職会(1931)より引用.

(注15)渤海国は698年〜926年に存在し日本とも使節を交流させていた国である.上田・孫(1990)を参照すると渤海国の支配層が高句麗人であり,非支配層がツングース(粛慎)系の靺鞨人であったらしい.その国域は現在の中国,朝鮮民主主義人民共和国,旧ソ連にまたがっていたようである.さらに,その標準語について高句麗の後継国家であり,渤海使にたいして日本の側が新羅譯語を同席させていることを理由に高句麗系朝鮮語を使用していたと述べている.

(注16)「夏四月丙戌、陸奥の蝦夷、大隅・薩摩の隼人らを征討せし将軍已下と、有功の蝦夷と、@せて訳語の人に、勲位を授くる各差有り。」(『続日本紀』養老六年四月条)

(注17)渤海からの譯語生に関しては以下のような容貌にも言及している資料も残されている.

       凡渤海譯語生者。簡學生容貌端正者二人充。應得其業者。預得考之例。

                              (『延喜式』譯語条)

(注18)本文は黒板勝美・國史体系編修會(1981)より引用.

(注19)「十七日丙午。先是。丹後國言。細羅國人也。五十四人@ー着竹野郡松原村。問其@由。言語不通。文書無解。其長頭屎鳥舎漢書答云。新羅東方別嶋。細羅國人也。自外更無詞。」 (『三代實録』貞觀五年十一月条)

「廿七日庚寅。先レ是。大宰府言。去三月十一日。不何許人。舶艘載二六十人。漂ー着薩摩國甑嶋郡。言語難通。問答何用。其首崔宗佐。大陳潤等自書曰。宗佐等。渤海國人。彼國王差ー入大唐。賀除州。海路浪險。漂盪至此。」(『三代實録』貞觀十五年五月条)

※本文は黒板・國史大系編修會(1975)より引用.

 

なお,原稿は縦書きであるが,引用資料の原文はすべて縦書きである.

また,旧字体などパソコンで対応のきかない文字はすべて「@」で置き換えてある.