日本語教育学特殊講議U (ロング先生) 史学科2年 9810333 中村実延子
アイヌ語との言語接触
《世界初のアイヌ語記録者アンジェリス》
1.アンジェリスの事跡
アイヌ語を世界で初めて文字記録に残した人は、イタリアのイエズス会宣教師であるジロラモ・デ・アンジェリス(1568−1623)であった。アンジェリスは、1568年にシチリア島エンナに生まれ、1602年に布教のために日本に渡った。そして駿府(静岡市)において、熱心に布教活動を行った。ところが1613年からキリシタンへの弾圧が始まり、1614年にはキリシタン禁教令が出された。しかしアンジェリスは日本にとどまり、東北の地で密かに布教活動を続けた。そんな中で、1618年に北海道の松前に渡り、一回目の蝦夷報告書を書いた。その内容は旅行記のようなものであった。1621年に再び松前に渡り、二回目の蝦夷報告書を書いた。第二報告書の方は14章から成るもので、内容は北海道が島であることの論証・アイヌ人の風俗・松前にもたらされる交易品などの詳しい報告などである。その第10章にアイヌ語の数詞34語、名詞16語、複合表現2例を記載している。それが、今日世界初のアイヌ語語彙集と呼ばれているものである。アンジェリスは自分をかくまった家主が拷問を受けていることを知り、自ら奉行所に名乗り出て、1623年に江戸で火刑に処せられた。翌年の1624年、アンジェリスの第二報告書は、イエズス会年報の付録として発表された。但し、これはイタリア語版であった。アンジェリス自身はポルトガル語で書いており、生前イエズス会の上司であるフランシスコ・パシェコ神父に送付したものが、ローマに渡っている。イタリア語の訳者は不明である。
2.アンジェリスの記録した日本語
アンジェリスの記録したアイヌ語は、世界中のアイヌ文化研究者に大きな影響を与えつつ現在に至っているのであるが、これらの単語について具体的に考察してみると、以下のようなことが考えられる。
@アンジェリスは、アイヌ人から直接言葉を聞き取ったのではなく、アイヌ語を知っていた和人を通して記録したのではないか。
A同書以外に記録がない単語があり、それらが現在は消え去ってしまった言葉なのか、アンジェリスの聞き間違いなのか不明である。その他江戸期の文献には盛んに出てくる語形だが、明治以降はどの方言にも記録されていないものもある。
B他の記録を見ると、時代は異なるが、北海道の最北端と最南西端で同じ形の語が採録されている。
C数詞のシステムが現在記録されている多くの方言と異なる。しかし、南西部のある地方の方言にこれと同じ言い方が残っている。
以上のことから、アンジェリスの記録した語彙は、現在ほぼ全道的に確認できる語、および全く確認できない語を除くと、北海道の最南西端と最北端に分類することができる。このことから、二つの解釈が考えられる。ひとつは、かつては全道的な分布を示していたのだが、次第に使われなくなり、両端にだけ残ったという見方である。もうひとつは、アンジェリスの記録した語が、交易に訪れたアイヌ人と和人との通商語、リンガ・フランカなのではないかという考え方である。その基礎は和人との隣接地である北海道南西部であり、最北端に共通語形が見られるのは、その地が当時、樺太を通じて大陸の商品を輸入する「山丹貿易」の中継地点だったからであると考えられる。後者のような解釈をしようとすると、以下のような説明ができるようになる。
数詞システムがアイヌ語独自の方式ではなく、日本人にとってはむしろわかりやすい言い方になっている。これは、和人との通商用語をして用いられているうちに、和人的な発想との折衷的な形になったと考えれば、うまく説明がつく。
また、江戸期の文献には頻繁に現れるのに、明治以降の記録にはさっぱり現れない語が存在するのは、これが和人の使っていたピジン・アイヌであり、実際のアイヌ語には存在しないが、ごく一部の方言でのみ使われていた単語を採用したものだと考えれば説明がつく。
つまり結論は、かつて松前だけで通用し、或いは作り出されたこれらの語が和人が全道へ支配体制を敷いた後までも、和人とアイヌ人のコミニュケーションの場においては、通商語として使われ続けたのではないかということである。これが日本人の口から記録されたものであるという説が正しければ、その可能性はますます濃くなるといえる。
《「藻汐草」を書いた日本人通詞:上原熊次郎》
1.「藻汐草」について
「藻汐草」は1792年に蝦夷通詞であった上原熊次郎の手によって成立した。文章を除く、日本語約2000語、アイヌ語を収録した辞書である。語彙を天地・人物・支体・口鼻耳目心・器財・鳥獣・草木・助辞・熟語の各部に分け、和歌のアイヌ語訳やユーカラなどの長文も含む。
「藻汐草」がアイヌ語資料として重要なのは、以下のような特徴が挙げられるからである。
@アイヌ語の語彙記録は17世紀から既に行われていたが、「藻汐草」は辞書としての体裁を整えて編纂された最初のものである。
A蝦夷通詞として活躍した上原熊次郎が中心として編纂してしているため、その記録がアイヌの人びとからの直接の聞き取りにに基づいている可能性が大きい。
Bアイヌ語の表記が几帳面に行われ、正確さを期して工夫がなされている。
ex)日本語にないtuの音を表すために「ツ゜」という文字を用いた。
C語彙が多い。従来記録されたものの4倍近くの語彙を収録している。
D語彙だけでなく、文章資料も収録している。
E板本として流布した。後続のアイヌ語辞書の多くがこれを範として編纂された。
2.上原熊次郎について
松前奉行所の蝦夷通詞。当時、文化・文政の時代には、松前奉行所はロシアとの折衝に忙しかった。熊次郎は始終ロシア人と奉行の間に立って、ロシア語に通じていた千島アイヌを通して通訳を担当していた。囚われているロシア人のもとに通ってロシア語を学んだ。日露間の文書はひとつも、熊次郎の署名のないものはなかった。
3.『遭厄日本紀事』に見る熊次郎の記録
1811年、ロシア海軍少佐、ゴローウニン一行は、千島列島測量中、国後島で松前奉行支配下の南部藩士に捕らえられ、函館に監禁された。拘留中に書いた日記『遭厄日本紀事』に熊次郎の記録が残っている。
拘留中のゴローウニンたちと話すのに蝦夷通詞の熊次郎はロシア語のできる千島アイヌ、アレキセーを介して、話した。遭厄紀には熊次郎が「帝王の」というロシア語「インぺラトリスコイ」を理解するのに2日かかったエピソードなどがあり、間にひとり挟んで会話をするのはかなり手間取ったようである。熊次郎はロシア語の語詞配列の順序が日本語と違って動詞が前に行ったりするのを不便に思い、ゴローウニンたちを注意し、頻りにゴローウニンたちのロシア語の文章に手を入れて、日本語の語順に直そうとしたというエピソードもある。
―参考文献―
『金田一京助全集』第6巻 金田一京助著 三省堂 1993
『松前藩と松前』第24号 田中聖子・佐々木利和著 1985
『国文学解釈と鑑賞』 中川裕著 至文堂 1988