日本語教育特殊講義2                                  人文学部国文学科3年 No.9710564 佐藤恵美

 

 「米軍との間に使われた言葉」

 

 日本は戦後アメリカ軍に占領されていたが、その間の日米交流の中で、日本人とアメリカ人が会話する際に使う言葉、ENGLISH-JAPANESE PIDGINが生まれた。このレポートでは、当時日本国内(沖縄を含む)で使われたこの言葉について調べたものである。

 

 @占領についての概略

 日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏したのは1945年(昭和20年)815日のことで、ダグラス・マッカーサー米陸軍元師(米太平洋陸軍総司令官・司令部マニラ)が連合国(軍)最高司令官として神奈川県厚木飛行場に降り立ったのは、同年830日のことだった。以後、マッカーサーはGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の最高権力者として、日本の占領政策を統轄した。

 形式的には49ヶ国の連合国占領だったが、中国・四国地方にオーストラリア軍を中心とする英連邦軍が数万展開した以外、すべて米軍による占領が行われた。

 その日本占領軍のことを、日本人は「占領軍」と露骨に呼ぶのを控え、「進駐軍」と呼んだ。

 もともと、米国政府は「進駐軍」を予定していなかった。日本を軍事的に打倒し、本土に侵攻して軍事占領することを考えていたのである。しかし終戦直前、日本に早期降伏の可能性がある以上、全土制圧プランだけでなく、早期和平型のプランも考えるべきだという意見が出たため、大急ぎで平和的進駐の作戦プランが作られた。

 それでも、ゲリラ戦やテロによる抵抗は熾烈を極めると予想されたため、軍事力の行使を前面に出す形で進駐は行われた。

 米軍の進駐を横浜にとどまらせ、東京に入れない、という日本政府の方針は、米軍の強い要求の前に崩れ、98日、首都東京への進駐が始まった。そして925日からは地方都市への本格的な進駐が始まり、日本列島は完全に連合軍の制圧下に置かれたのである。

 1945124日の進駐状況は、最も兵力の多い県の神奈川県で85,037人、次に長崎県で53,970人にのぼり、(沖縄を除き)日本全国で430,287人(うち英200人)になっていた。進駐された各都市は、敵前上陸さながらの緊張の中でその日を迎えた。

 ただし、日本国内でゲリラもテロも起こらなかったため、後に兵力は20万に減らされた。

 マッカーサーが要求した民主化五大政策(@婦人参政権などによる婦人解放A労働組合結成の奨励B学校教育の自由化C秘密審問司法制度の撤廃D経済機構の民主化)を実現させるために、幣原喜重郎内閣は、憲法改正、財閥解体、農地改革などへの着手で応えた。

 これらはいずれも、国民への自由を解放する政策として歓迎されたが、米ソ対立の激化に伴う、GHQによる共産党員追放、朝鮮戦争(19506月勃発、ただし日本はこの戦争による特需で経済を回復した面も持つ)、そして沖縄ではベトナム戦争でも要塞基地として利用されるという流れの中で、親米ムードだけでなく反米ムードが出てくるようになった。そして19519月対日講和条約・日米安全保障条約に調印、524月に同条約が発効、GHQは廃止された。日本本土の占領はここで終わった(ただし沖縄は1972年の日本復帰まで)。

 

 Aどのような状況で使われたか

 日本人のゲリラやテロを警戒しながら上陸してきた米兵が見たものは、温和で礼儀正しい日本人であった。他方、男は奴隷に、女は強姦されるという流言のもとで怯えていた日本人が見たものは、陽気できさく、子供たちにチューインガムやチョコレートをくれるGIたちであった。こうして世界史上例外的な、民衆に好まれる外部からの支配者である「進駐軍」が生まれた。

 ただし日本人の中でも、もちろん占領を「屈辱」と感じるものは多かった。当時の子供は、アメリカの漫画を見たり、歌を聴いたり、チョコレートなどをもらって楽しんでいて、屈辱感もなく、アメリカの文化に汚染されているという意識もなかったようだ。しかし、それまでアメリカ軍を敵として戦ってきた大人には、不愉快な気持ちを感じるものが多かった。それでも、アメリカが「富のシンボル」であることに変わりはなかった。

 子供たちのチューインガムによる交流以外にも、夜には「パンパン」と呼ばれた女性たちとの交歓があり、そのうちGIのアパートに住むようになった女性は「オンリー」と呼ばれた。ちなみに、この「パンパン」が使っていた片言の英語は、当時「パングリッシュ」と呼ばれていた。

 その他、裕福なアメリカ人家庭のもとで、ハウスボーイ・ハウスメイドとして働くものも多かったし、沖縄の基地周辺では米軍関係の仕事も多く、そのような仕事に就く者はたくさんいた。ダンスホールができ、パーティーも開かれ、日米交流が進んだ。そういう状況の中、19462月、ラジオで平川唯一が通称「カムカム英会話」の放送を始めた。47年には570万世帯で聞かれ、発売されたテキストは50万部を超えたという。出版の方には一足早くブームが訪れていて、4510月に出版された『日米会話手帳』は360万部という戦後初のミリオンセラーになった。

 こうした英語のブームは、この当時の日本人が常に英語を意識していたことを物語っている。米軍が進駐し、街にはGIと横文字があふれていた中で、人々は米軍兵士にも段々と慣れ、彼らの話す英語に興味を持つようになった。そして英語はまた、GIからものを買うためにも必要だった。こうした背景の中で、英語が身近なものになっていった。

 

 静岡県の浜松では、1945年、日本が自衛隊を作るに当たって、米空軍が指導のために駐在した。そこでも、@貿易A遊び(アメリカ人がバーの得意客になっていた)B米兵が一時的に、日本に住まいを借りて住んだCスポーツ(野球の試合など)D外交(友好的な関係作りのために)E仕事(通訳もいたが、日々の仕事は通訳抜きで、日本人がアメリカ兵に直接仕事を教えてもらっていた)などの状況で、EJ-PIDGINが話されるようになった。

 

 Bどのような言葉が使われたか

 当時日本に駐在していた米兵は、コミュニケーションを簡単で効果的にしたり、自分の話を面白くするために、日本語を新しいボキャブラリーとして取り入れた。

 

 まずあいさつとして、

  ohayo(gozaimasu)    /  good morning

      konnichiwa  /  good aftenoon   konban wa  / good evening

       (domo) arigato (gozaimasu)  / thank you

      Ah so desuka? / Is  that so?  (ここではsoという共通の音が出てくる

ことから利用されることになったと思われる)

 

 このような一連の挨拶の他には、

  sukoshi  / few, some, little(※このlittleの意味で、「a little girl」を

       「sukoshi musu(me)」という使い方をした)

       takusan  / plenty

       mosukoshi  / a little more, soon (`We're coming morsukosh'

     ※ここでは日本語の「mo」は英語の「more」のことだと考えら      れていた。

  dai jobu /okay      anone / Hey!    dozo  / please

      chotto matte / Wait a minute

      benjo / toilet     moshi moshi / Hello ( 電話用の)

  などがあった。

 当時このピジン英語を使っていた米兵には、自分のwifeのことを okusanと呼ぶことに対して何のためらいもなかったらしい。これに加えて okusama

 ojosan という言葉も使っていたようだが、米兵はojosanを縮めて「ジョーサン」と呼んでいた。

 同じく、musume のことは musu と縮めている。(このmusu という言葉は、米兵によって沖縄から北海道までの日本全国、更に韓国にまで運ばれたという説もある)

 

 このころEJ-PIDGINから英語のスラングに取り入れられたものとして、have a yes , have a no がある。これは単純にyes no のことであるが、日本でこのような英語が生まれたのは、日本人特有の間接的な言葉遣いによるものらしい。この論文では、「さようでございます」「そうでございません」を無理に英語に訳そうとしたためにこのような言い回しになったのではないかとしている。当時の日本人の性格が現れているようで興味深い。

 

 その他、

  sayonara / farewell(別れの挨拶)だけでなく、the comannd to ged

                          rid of (いやなものを取り除かせる)という意味でも使用。

       例えば残飯をメイドに処理させようとするときに、

          「(pailusayonara it 」のように使う。

 

 

  denki  / electricity の意であるが、ピジンでは「denki up」のように

      動詞としても使用。電力を上げたり、レーダー回線を設置した      りするときに使っていた言い回しらしい。

 

  simpai-nai / no worry の意味だが、[No sweat][don't bother][let's                enjoy ourselves][you're welcome][I've recovered from            my maladey]など、広範囲に意味を広げて使っていた。

 

 その他、同じ言葉を繰り返して使用していた例も多く見られる。

  testo-testo / to examine , an analysis

      dammey-dammey / not good

  meter-meter / to look , an examination

      hubba-hubba / to hurry(これは沖縄で日常的に使用されていた)

 などがある。

 

※沖縄で話されていた言葉について 

 米軍の占領期間がもっとも長く、基地の占める割合も大きいだけに、一般人でも日常的に英語を取り入れて話していた。沖縄の場合は日本語(ヤマトゥグチ)と沖縄方言(ウチナーグチ)と英語の混ざったチャンポン語になっていたところに特徴がある。

 

 例として、

 「アキサミヨー、ベリナイス、ウマレテハジミティルヤル、ミーガーンウッケーティ、トッテモテンキュー、ユーグッドマン、ミーベリハッピートゥディ」(ありがとう、こんなにおいしいケーキは初めてです、あなたはいい人で、私は今日とても幸せです、の意)

 「天からワーラー(雨)カム、ノーゴーブレーキ」(空から雨が降ってきたから仕事を休んだんであって、怠けではない、の意)

 というように、三つの言語が混ざった状態で、アメリカ人との会話に使用されていた。

 

 ちなみに、浜松での記録に「honcho / a boss or supervisor 」が取り上げられている。沖縄では、この言葉は米兵たちの間で、怠け者、素行の悪いものを「○○ハンチョウ」というように、「不名誉の称号を関した呼び方」として使われていたようである。(浜松ではどのような使われ方をしたのかは不明)

 

 C考察

 戦後についてはそれぞれの人にそれぞれの思いがあり、占領政策の善し悪しについては一概にはいえないが、街中にアメリカ人とその文化があふれ、英語を身近に感じ、日本語と英語の混ざった言葉で交流が図られていた時代はこのときだけである。戦後の混乱期のせいもあってか、このときに使われていた言葉についてのまとまった文献はほとんどないが、もっと研究が進められるべきテーマであると感じた。

 

 

 参考文献

BANBOO ENGLISH THE JAPANESE INFLUENCE UPON AMERICAN SPEECH IN JAPAN』(M. Z. NORMAN)

THE DEVELOPMENT OF A DIALECT OF ENGLISH-JAPANESE PIDGIN』(John Stuary Goodman

『庶民がつづる沖縄戦後生活史』(沖縄タイムス社編・1998

『戦後体験の発掘』(安田常雄・天野正子編、三省堂、1991

『図説・アメリカ軍が撮影した占領下の日本』(太平洋戦争研究会編、河出書房新社、1995

『昭和F廃墟からの出発』(講談社、1989

『朝日歴史写真ライブラリー・戦争と庶民C進駐軍と浮浪児』(朝日新聞社、1995