日本語教育における性差の扱い
教育学専攻 椎林 美樹
「I」を日本語で訳すと、私、俺、ぼく、うち、といろいろ出てくる。
そして「俺」という言葉は、(とくに東京の場合は)女性はほとんど用いない。ぼくという言葉もまた同様である。日本語には女性がよく用いる言葉と男性がよく用いる言葉が微妙に違っているように見える。
そこで日本語における性差を日本語教師は教えているのか、また教えているとするならばどのように日本語を学ぶ外国人に日本語の性差を教えているのかを考えてみたい。
<日本語の性差>
日本語のように性差が目立つ言語は少ない。「あら、雨が降っているわね。」とあれば、これが女性の発言だとわかる。しかし、「Wow、It’s raining.」、この発言が男性の発言か女性の発言がどうかを判断するには声を聞いてみないとわからない。文字だけで判断するのは至難の技である。日本語は男性がよく用いる言葉と女性がよく用いる言葉がある。それを「男ことば・女ことば」と呼んだりする。
日本の社会では、言葉の男女差というものが歴史的にあった。文献は少ないようだが奈良時代からあったといわれている。室町時代あたりから宮中の女房が使う御所言葉というかたちではっきりと現れ、江戸時代には御所言葉を使う階層が広がり、語彙の範囲も広がった。明治時代以降、婦人語はさらに一般化された。
その一方で女性の言葉を崩そうとする動きもこのころから現れた。明治39年の新聞には女性の言葉が乱れているという記事が載った。そして昭和13年にも女性の言葉乱れているという記事があった。
「…女子学生の言葉が悪くなったのもこの二十年来の事です。
丁度日露戦争前明治35、6年頃の女子学生は友達同志でさえこう遊ばせ、あゝ遊ばせの遊ばせ言葉でしたが、大正初年以後女学生間にもスポーツが非常な勢いで普及した結果、女の態度が活発になったのはよろしいが、男の真似をすることがよいとされ、すべての女性が男性化の傾向を取ると言った露悪趣味の時代がありました。…」
(東京朝日新聞 昭和13年8月8日付)
昭和にお手本とされた明治後期の言葉も当時は乱れていると思われていた。また大正昭和初期は男性が専ら使っていた「キミ・ボク」が女学生のあいだで使われるようになった。そこで当時の文部大臣荒木貞夫氏が女学生の「キミ・ボク」の使用を禁ずると言った。このことは賛否両論に別れた。このように明治以降は男性の使う語と女性の使う語に共通化が見られ、それを言葉の乱れだと思ったりそう思わなかったりと議論はさまざまに行なわれている。現在でも同じような議論が起こっているように見える。
では、具体的にはどのような男女差があるとされているのだろうか。一般的には女性の話しぶりはやわらかで婉曲的、繰り返しが多いといわれる。女性の言葉は丁寧だとも言われている。女性がフォーマリティーの高い言葉をより多く用い、それとは反対に野卑な(?)表現(ex. てめえ、…やがる)は男性に多く使われている。また美化語(ex. お野菜、お友達)は特に女性が使われるといわれる。男女の言語使用の違いがわかる特徴の一つとして、終助詞がある。男性は「だ」「だな」「だぜ」「ぞ」「さ」、女性は「わ」「わよ」「わね」「の」「のよ」「ことよ」を多く用いるといわれている。感動詞でも男女差がみられる(男性…「ほう」 女性…「あら」「まあ」)。書簡用語や手紙の文体にもだいぶ使われなくなったが男女差がある(男性…「小生」「貴殿」 女性…「かしこ」)。ただ、女性言葉がどんなものかはっきりとした定義はない。
統計的に男女差は見られるだろうか。『日本語の男女差』(F.C.パン編・東西手話学会・1981) の調査結果をもとに考えてみたい。調査のしかたとしては下町の地域と郊外の地域を2つ選び、それぞれ女性20代〜50代10名、男性20代〜50代20名(ホワイトカラー、ブルーカラー半々)ずつに対して面接調査を行なった。今回は終助詞について的を絞ることにする。
終助詞の使用数としては郊外在住・男性>下町在住・男性>下町在住・女性>郊外在住・女性の順になっている。「かしらね」と言う助動詞については女性では30回も使われているが、男性には全く見られない。「〜なのかしら」も男性には全く見られない。このようにはっきりとした差が出ているものもある。「かな」(ex.別に何もないんじゃないかなあ)については男性が171回使われているが女性は47回とかなり差がある。しかし、内訳を見てみると女性の47回のうち40回が下町在住の女性である。女性の中でも差があるのだ。また、「〜の」については女性のほうが使われると上に書いたが、調査では女性が下町地域31回郊外地域21回に対して、男性は下町地域73回郊外地域45回となっている。使用回数は男性のほうが多い。内訳を見ると「〜じゃないの」が多数を占めていた。また下町地域・男性を職業別に見るとホワイトカラー23回ブルーカラー50回となっている。男性の中にも差が見られる。
また『日本語の男女差』(F.C.パン編・東西手話学会・1981) の調査では大学生に自由に会話をさせて終助詞の頻度を調べている。男子学生の場合、男性がよく使うと思われる「ぜ」「なぁ」「よなぁ」「かぁ」「よお」「さあ」の使用頻度は男子グループ内では737回、男女混合グループ内では502回。女子学生の場合、女性がよく使われると思われる「ね」「よね」「のよ」「のよね」「なのね」「さ」の使用回数は女子グループ内では498回、男女混合グループ内では344回。同性の中のほうが終助詞を多く使っている。異性をまじえたグループの中では性差特徴と思われる終助詞をなるべく控えてより相手に近づこうをしているように窺える。
日本語には男性らしい言葉、女性らしい言葉というものがあるようだ。ただ調査してみると差がなかったり、反対だったり(「〜の」の場合)する。同性の中にも差が見られる。職業や住んでいる場所によっても差が出る。調査から見れば、この終助詞は女ことばかどうかもしくは男ことばかどうか判断できないものが多いように私には思える。しかし、「〜の」は女性らしい言葉だと判断されたりする。実際の状況を超えた言葉の性差のについての考え方が根底にあると思われる。それは歴史的なものだったりするのかもしれないが、主観によるところが大きい。人それぞれ言葉の性差については考えるところがあるだろう。男性と女性自体に差があるかどうか考えることに関連しているのではないだろうか。差がないと考えれば、女性がどんな言葉を使おうが関係がないと考えられるし、差があると考えれば女性が「〜だぜ」と使えば文句を言いたくなるかもしれない。日本語には性差(つまり日本語は言葉によって男性が多く使うものと女性が多く使うものがあるということ)が見られるが、その概念はあいまいであり、いろいろな考えが出てもどれが正しいとは言えない状況のようだ。
<日本語教育と性差>
『MAKING OUT IN JAPANESE』(Todd&Erika
Geers・著 YENBOOKS 1988)という洋書がある。これは男女の会話についての日本語の手引書である。
例 I‘m not interested. kyomi nai−wa ♀
kyomi nai−yo ♂
この本では終助詞の使い分けを行なって男性と女性の言葉を分けている。もちろん男女共通の表現もある。この本の男性の表現みたいなことも普通に言うのだけどなあ、というのが私の感想である。どのような基準で男女の言い方を分けたのだろうと疑問に思う。しかしここで重要なのは分け方というよりも、分けたこと自体ではないだろうか。この著者は日本語には男女によって表現が微妙に異なるということを示している。だから外国人は男女の差があることを知っている。日本語に性差があるかどうかは個々の考え方次第だが、性差を全く無視して日本語を教えることはできないことだと思う。
『日本語教育ハンドブック』(日本語教育学会・編 1990)によると、
「指導上の留意点
1.
多くの場合学習者には、自称の「ぼく」「わたし」以外は、理解言語として指導する。視聴覚教材を使って総合的に指導することが肝要である。
2.
話し言葉ばかりではなく、書簡用語や手紙の文体にも性差があることを指摘し、 実際の使用の段階で混乱のないように指導する必要がある。」
とある。
実際に日本語の教科書の指導書(『しんにほんごのきそT』『しんにほんごのきそU』)を見てみると、一人称は「わたし」二人称は「あなた」を用いている。教科書は極力言葉の男女差を使わないように書かれている。終助詞も男性・女性に特徴的なものを避けている。一箇所だけ男性の言い方と女性の言い方を分けているところがあった(依頼の表現/男性:〜してくれないか、女性:〜してくれない)。初級の教科書ではかなり男女差を意識しない作りになっている。
中級クラスくらいになってくると、教科書でも「女性語」として「あら」とか「〜わ」などを扱っている。『INTENSIVE COURSE IN JAPANESE(Intermediate)』では、それらを扱っていて、説明が書かれている。その部分の最後には女性語の印である(f)と印がついている。
ただ、男性が「ああ、今日は本当に疲れたわ」と言う場合、イントネーションは違うものの「〜わ」を用いることもある。だから当然のように(f)の印をつけるのは、私はどうかと思う。「これは男性の言葉(女性の言葉)です」と断定しない方向で行くべきではないだろうか。
それに関連するが、「まあ」という言葉は女性特有の、驚きを示す使い方もあるが、「まあまあ落ち着いて」というような相手の言動を軽く制する働きや、「まあ、そのう…」といったような間を稼ぐ働きもある。このように、ことばの中に女性が多く用いる言葉の意味と別の意味があるときは、きちんとその使い方も説明することが必要である。
語彙の面でいえば、結婚に関する言葉をどのように教えるかも気を配らなければならないのではないか。『しんにほんごのきそT』では、結婚することは「結婚する」という動詞のみを教えているが、実際には「嫁に行く」とか「娘がやっと片づいた」とかを使用する人もいる。そのような問題はジェンダーの問題になってしまうかもしれないが、説明が必要な部分ではないかと思う。パートナーの呼び方にも注意を払う必要がある。奥さん、だんなさんというのが教科書に使われているが、「主人」と「家内」ということばもパートナーを呼ぶときに使われる。この呼び方は本来の意味の「主人」と混同してしまわないように教えておかなければならないと思う。また、この呼び方を当然のものとして教えるのも問題ではないかと思う。日本の性についての考え方は外国と違う考え方で当然である。しかし、それを文化だと一方的に押しつけるかたちは避けるべきである。そのような考え方があるんだということがわかればよいのではないだろうか。
言語接触とまではいかないが、性を用いた言葉に関しては誤用もしくは誤解が見られるかもしれない。たとえば「兄弟」という言葉については兄がいても姉がいても「兄弟は一人います。」という。一方英語ではsisterやbrotherと分けている。ドイツ語も分けている。それらを母語としている人には「兄弟」のもともとの意味から説明する必要がある。そうしないと「兄弟は何人ですか」ときかれたときに姉が一人いるのに「きょうだいはいません。」と答えたり、人によっては差別だと怒ることもありうる。この場合は語源などを説明したりして、このことばのもとの意味をつかんでもらうことが大事である。また「大の男」という言葉にも注意が必要である。「大の女」という表現はない。しかし、性別を入れ換えても大丈夫だろうと思って使う人もいるだろう。そのとき、これは使わないのだとただ切り捨てるように言うだけでは誤解を招く。これも男女差別だといわれる恐れがある。男女にかかわる語で性別を入れ換えたら表現として成立しない語に関しては、語源や語の成立の背景などを詳しく説明し、男女差別の意味が必ずしもこめられているわけではないことを話すことが大事ではないだろうか。
日本にはいろいろな考えの持ち主がいて、たとえば女性のことば使いにうるさい人がいたりするので、男性(女性)がとくに多く用いる言葉や、逆に女性(男性)が使うと与える印象が変わってしまう(できれば避けたほうがいい)言葉はくわしく説明しておいた方がよい。外国人が働くときなどに、日本語を正しく話せないとそれだけで有能な人間なのに評価が下がってしまう場合がある。そのならないためにもきちんとした説明が必要である。しかし、そこを厳しくする必要はない。性差を説明する必要はあるが、性差を押しつけることは必要ない。ことばにうるさくない人もたくさんいることも忘れてはならない。コミュニケーションを取れることがまず大事である。
性差のことは初級の外国人にも説明可能である。それは日本語教師の度量にかかっている。ただ、その場合日本語教師はその外国人のことばを知っている必要がある。初級の外国人は質問したいのに質問できない状況に陥りやすいからである。日本語教師にとってはかなり大変なことかもしれないが、初級の教師にはそれもいたしかたないことだと思う。言葉は文化の一部なので、日本の文化・日本人に代表される考え方から日本語は切り離せない。性差に関しては国それぞれで考え方が違うかなりデリケートな問題なので、日本の考え方を押しつけないかたちで、でも日本の考え方をただ批判の対象にするのではないかたちで日本語を教える必要があると私は思う。
参考文献
『日本語の男女差』(F.C.パン編・東西手話学会・1981)
『講座日本語と日本語教育』(明治書院・1989)より
「男性の言葉と女性の言葉」 堀井令以知
『話しことばの表現』(講座・日本語の表現3 水谷修・編 ちくま書房)より
「女らしさの言語学」 井出祥子
『日本語教育ハンドブック』(日本語教育学会・編 1990)
『女の日本語男の日本語』(佐々木瑞枝 ちくま書房 1999)
『しんにほんごのきそT・教師用指導書』(AOTS)
『しんにほんごのきそU・教師用指導書』(AOTS)
『INTENSIVE COURSE IN JAPANESE(Intermediate)』
(JAPANESE LANGUAGE PROMOTION CENTER
ランゲージサービス 1980)
『MAKING OUT IN JAPANESE』
(Todd&Erika Geers・著 YENBOOKS 1988)
最後に、教育学専攻・野元弘幸先生、ご協力ありがとうございました。