日本語教育学特殊講義2(火曜4限 ロング師)年度末レポート
「日本語とポルトガル語の言語接触」
人文学部文学科国文学専攻3年A類
武田 英太(9711935)
0 はぢめに
上記のようなテーマでレポートを作成することにあいなったものの、いざ調べてみるとその漠然としたテーマゆえに(自分で恣意的に絞ってしまうという手も考えられたが)あたらなければならない資料や文献の数が絶望的なほどに多い事に気付き、愕然としてしまった次第である。そもそもこの時代の背景(戦国時代)ということもあり、日本側の資料がほぼ皆無に等しいのはゆゆしき事態であったッ!(そんなもの編纂してる暇があったら他の国へ攻めていくことが求められた時代なので。)
というわけで。
とりあえずは形にしてみたものの、色々な資料をつぎはぎにして補完したため少々不自然な表現や箇所があるところ、調査不足で説明が至らないところ、さらにはその説明も多くを図版等に頼らざるをえないところ、などなどこれでもかといわんばかりの不備の至りを尽くしてしまった点、あらかじめご了承願いたいところでございます。ぜひとも。それでも一抹の努力は認めていただきたく存じ申し上げます。以上、言い訳終わり。
1 だいたいのところ
ポルトガル語は、日本が直接に接触した最初のヨーロッパの言語である。1543(天文12)年のポルトガル船の種子島漂着以降、日本とポルトガルの関係は、キリスト教の布教と通商の両面にわたり、秀吉以後の禁教政策を経て、1639(寛永16)年の鎖国令によりポルトガル船の来航が禁止されるまで96年間続く。記録に残っている限りでは、日本でポルトガル語を最初に学習したのは、鹿児島の「ヤジロー(弥次郎・生没年不詳)」である。
言語的には、両者の関係は語彙の借用に限られ、それらはキリスト教と通商関係の用語に分かれるが、禁教と鎖国のため今日まで残っているポルトガル系の語は少ない。
当初より、イエズス会(耶蘇会)は布教目的の日本語研究を行うが、その成果はイエズス会士ヴァリニャーニにより、1590(天正18)年、印刷機がもたされて後、一連のキリシタン物として結実する。これらは、宗門書、文学書、語学書の類に分かれ、日本語をローマ字で記したものである。なかでも、『日本大文典』(1604-1608に成立)、『日葡辞書』(本編1603成立、補遺1604成立)は重要で、後者では「上」と記した京都地方の標準語に対して、「下」と記した九州方言が別に記され、語数は合わせて32798語にのぼる。
キリシタン物には、四つ仮名(じ・ぢ・ず・づ)や開音・合音(「アウ」と「オウ」)の別、清濁、音便形、助動詞の使用など、日本語資料となる記述が含まれている。
ポルトガル語を日本語に借用する際、ポルトガル語の子音連続は日本語では開音節に変えられたが、当時、挿入された母音は子音連続の後の母音と同じであった。
例)Christao→キリシタン
漢字があてられたため、漢字音を媒介として変化した音もある。
例)ジュバン(襦袢)←gibao カッパ(合羽)←capa
コンペイトウ(金平糖)←confeito
今日まで残っているのは、ほとんどが通商関係用語に分類される、具体的な物の名称である。
例)パン←pao カステラ←(pao de) Castella
カルタ←carta
外国において日本のことを指す「Japan」などの語は、東南アジアのマレー半島あたりでの発音がポルトガル語の「Japao」を介してヨーロッパに広がり、それまでの中国語起源の「ジパング(Cipango)」に代わったものである。
また、布教のために刊行された日本語の宗門書の中には多くの原語が使われ、それもポルトガル語が主であった。伝道初期に日本語に無理やり訳して失敗した(例えば、神である「ゼウス」を当初は「大日如来」として説き、誤解などを招いたことがあるらしい)という苦い経験に鑑み、キリスト教の重要な概念をあらわすには原語を使う方針をとったのである。基本的な教義問答書「どちりな・きりしたん」にさえ約130語の原語があり、日本人信徒間にも通用したらしい。それらは日本語化して、先の「キリシタン」の他に「クルス(Cruz)」「チリンダアデ(Trindade)」となった。中には「オリヂナル科」「スピリツアル事」などの複合語や、「御パッション(受難)」「サントス(聖人)達」のように接辞を付けたものもあって、かなり自由に使われた跡が見られる。
当時の漢字漢語尊重に従って書くこともあり、そのために「伴天連(Padre)」のように原語と少し変わった形になった語もある。宗門関係の語は禁教政策により廃れてしまったものの、その他は「ボーロ」や「タバコ」「ビードロ」などとして現代にまでその形を残している。
逆に、日本語もポルトガル語に取り入れられ、当時のポルトガル語文献に、quimono(着物)、Cami(神)、Fotoque(仏)、Cubo(公方)、Chanoyu(茶の湯)、biombo(屏風)Catana(刀)などがあり少なくないし、さらに「Quimoes」「Camis」「Fotoques」など、ポルトガル語式の複数形にしたものも稀ではない。珍しい例では、一種特別な趣の、または、優雅さを持った意の「媚びた」を形容詞化して「cobito」「cobitas」として使い、vruxi(漆)を動詞化して「vruxar」としたものがある。
なお、当時の日本語で濁音の直前に存した鼻母音を濁音の撥音にしてCungue(公家)、Bonzo(坊主)、Nangasaqui(長崎)などとするのが通例で、音韻的相違に基づく変形も認められる。
(おまけ)他にポルトガル語経由で日本語になった語
ミイラ(木乃伊 mirra)、ロザリオ(rosario)、ビロード(天鵞絨 veludo)、
ラシャ(羅紗 raxa)、カルメラ(caramelo)、ザボン(zamboa)、シャボン(sabao)、
チャルメラ(charamela)、トタン(tutandga)、フラスコ(frasco)、
キセル(khsier)、ジャガ(イモ)(Jacarta)、シャモ(Siam)など
*最下段の3つは南アジア諸語起源とも言われている。
2 「キリシタン資料」の出現
1549(天文18)年、フランシスコ・ザビエルが来日して以降、定期的に日本にイエズス会の宣教師達がやってくるようになるが、その中で1590(天正18)年、巡察使ヴァリニャーニがヨーロッパより活字印刷機を持ってきたことによりポルトガル人達の日本語習得書のための(1)教科書、(2)辞書、(3)文法書、また、日本人信者へ向けての(4)教義書、(5)修養書、(6)教化物語、が大量印刷可能となった。こうしてうまれたのが「キリシタン資料」である。
活字は、ローマ字、国字の2種にわたり、内容や利用者に会わせて選択され、その結果「ローマ字本」「国字本」と言われる「キリシタン版」が出現し、それらは写本で伝わった若干の文献と合わせて「キリシタン資料」と呼ばれるものをかたちづくった。
それぞれの代表を挙げるとすれば、(1):「天草本平家物語」、(2):「日葡辞書」、(3):「日本大文典」、(4):「どちりな・きりしたん」、(5):「ぎや・ど・ぺかどる」、(6):「サントスの御作業」となる。
2.1 キリシタン語学とキリシタン版
(1)キリシタン語学
16世紀に渡来したキリシタン宗徒はその布教活動のため日本語の研究を行った。
最初頃に来日した神父達はイエズス会に所属しており、イエズス会は現地語による布教を会の方針としていたから、神父としての重要な仕事である説教と聴罪の任務を遂行するためには自ずと日本語の習得が必須のこととして要求されたのである。そして、それにはヨーロッパに於ける学問に照らして何よりもまず文典及び辞書の作製が考えられた。
記録に依れば早くもドゥアルテ・ダ・シルバ(1563没)の遺稿中に日本語の文典と辞書があったというが、ジョアン・フェルナンデスのものと共に、現在ではその具体的な姿を知ることができない。やはりバリニャーニの持ち込んだ印刷機で印行された書物、すなわちキリシタン版のうちに残るものによって辛うじてキリシタン語学の跡をたどることができるに過ぎない。
{辞書・文典の編纂}
辞書として、「羅葡日辞書」(1595,長崎)、「落葉集」(1598,長崎)、「日葡辞書」(1603-1604,長崎)、「羅西日辞書」(1632,ローマ)があり、文典として「日本大文典」(1604-1608,長崎)、「日本小文典」(1620,マカオ)、「日本文典」(1632,ローマ)がある。
説教・聴罪という点から求められるものは、当時の話し言葉、すなわち口語でなければならない。文典・辞書の草稿本があったと推定されるにもかかわらず(もっとも完全な文典・辞書の編纂が容易でないことは認められるが)、印刷機が持ち込まれて早速に印刷されたものがローマ字本であること、巻末に難語の「和らげ」を持つことなどから、外人神父用と思われる口語での「天草本平家物語」「伊曾保物語」「金句集」であるのも意味なしとしない。したがって、キリシタン語学書の記述の対象が口語中心であることは当然のことであるが、さらに説教となると、日本語が単に話せると言うだけでは不充分で、語られる言葉は典雅なものではなくてはならない。
それゆえに卑語や方言は避けられ、上品な語が選ばれる。そのためには、例えば
「Guenzo.Melius.guenzan.(ゲンザウ。よりよくはゲンザン(見参))」
「Maigue.l,Potius,Mayugue.(マイゲ。またはむしろマユゲ(眉毛))」
「Qiyaxi,su,aita.Apagar.B.Melius,Qexi,su.(キヤシ、ス、イタ。消す。卑語。よりよくはケシ、ス)」
のように、「日葡辞書」が多くの日本語を収めると共に豊富な注記を持つのも当然のことである。
ロドリゲスも「日本大文典」の緒言で、「正確にしてかつ上品に話すことを教える規則と方式」の説明が長老から求められたことを述べている。説教も自己の教義を述べるだけでは充分ではない。他の宗教をも顧み、時には言及し論破しなければならない。当時の日本では文書はすべて文語か漢文で書かれていた。イエズス会の印刷物の殆どが文語で書かれているのも国内の例に従ったものであるが、文典・辞典共に、文語と口語の差についてそれぞれに述べるところがある。
主な(ポルトガル人のための)日本語学習用に編まれたのが「天草本平家物語」と「伊曾保物語」であるが、さらに高度な学習用の語学書と言えば「落葉集」が挙げられる。一字の漢語を親字として二字・三字の熟語を列挙し、それぞれの右側に音、左側に訓を付した「本編」と、和語、すなわち訓から相当する宛て漢字が探索でき、同時にその間字音まで知られる「色葉字集」と、偏・旁などの字形要素から漢字が探索でき、さらに音と複数の訓が知られるように工夫の凝らされた「子玉編」との三部から構成されたこの「落葉集」は、外人神父にとって、漢字の形・音義のいずれからも利用できる必携漢字辞典であったに違いない。
(2)キリシタン版の数々
・それぞれの書の概略
@「羅葡日辞書」
1595成立。編者はイエズス会士(固有名未詳)。表紙に続いて、序、本文、補遺があり、 正誤表で終わる。
当時のヨーロッパで辞書の代名詞のように言われていた、アンブロジオ・カレピーノ(1440?-1510)の手になるラテン語辞書から、地名・人名の固有名詞と使用の稀な語とを除いたものを見出し語とし、それにポルトガル語・日本語の訳を付けた対訳辞書。「日葡辞書」に先行し、また与えた影響も少なくない(類義語の提示や語の選択性など)。ただ、ラテン語の対訳ということから生じる制限もあり、日本語を中心とした豊富な価値ある注記を有する「日葡」に及ばないところは多いが、「日葡」に見えない語も含み、また一見出し語に複数の日本語があてられていることから、当時の類義語の研究には役立っている。
A「落葉集」
1598年、イエズス会宣教士の手により成立。
外国人宣教師が、日本語を表記する漢字・漢語の読み書きに資する目的で編纂した字書。音訓から字形を求める前編(いろは順に配列)と、字形から音訓を求める後編とからなる。(詳細な説明は前項辺りを参照)
「本編」だけで母字数は1672字、熟字数は11823字に及び、濁音・半濁音符付きの行書体活字を用いている。
B「日葡辞書」
1603-1604,日本イエズス会の神父達により成立。
来日早々の外人修道士にはまず前出の「羅葡日辞書」が用意され、この「日葡辞書」は日本語に耳慣れた外人のものとして準備された。
見出し語は日本語、本編で25965語、補遺編で6831語ある。この見出し語の表記はローマ字でなされ、その綴りは当時のイエズス会の中心言語がポルトガル語であったことから、ポルトガル語式のものを利用する。これは当時のキリシタン版一般に通じるものであった。排列は当然アルファベット順であるが、動詞は語根(現在の文法で連用形と呼ぶもの)を立て、それに現在形(終止・連体形)、過去形(連用形にタの下接した形)を併記する(先ほどの例参照)。見出し語として採録されているものは標準語だけでなく、上述の目的にしたがって各種の語が見える。
方言は、シモの語の注記を持ち、多くはカミの語と対比した形で説明される約460語。卑語は、「下品な」の注記と共に約90語。婦人語は約110語(この「婦人語」というのは彼らには特異に思われた)。これらの語は理解できても説教の語としては使用を避けなければならない語として特に注記したものである。
他に特記しているものとしては仏教語(約150語)、文書語(約1500語)、詩歌語(約530語)などがある。見出し語に対する説明はポルトガル語で為されるが、それに先立ち日本語の簡単な注記(もちろんローマ字表記)の併存している場合もある。日本語による注記は、見出し語が漢語である場合、それぞれの漢字の訓注にあたる。
例)Acuguen. Axij cotoba(悪言、悪シイコトバ)
また、続いて同義語、または類義語の挙げられることもあり、前者はi、後者はlで示される。
例)Yugio. i. Qeixei(遊女、すなわち、傾城)
Yucatabira. l. Yucata(湯帷子、または、ゆかた)
時としては、両語の間で優劣の示されることもある。
例) Ioriacu. Melius. Xoriacu(上略。シャウリャクのほうがよい)。
Gueriacu. Potius. Cariacu(下略。カリャクのほうがまさる)
ポルトガル語の釈義は長短さまざまであるが、複雑なものにあっては語義を幾つにも分け、さらに「比喩として」の標記のもとに転義を説くなど、行き届いたものもある。
C「日本大文典」
1604-1613年、ロドリゲス著。
宣教師達は、日本を理解し布教の効果を高めるために1560年代には日本語とポルトガル語の対訳辞書と並行して文典の編纂にも着手した。1580年代には教育機関の事業として継承され完成を見たが、現存はせずその実体は不明である。しかし1590年にもたらされた西洋式印刷機で1594年に天草で刊行された「ラテン文典」の中に、ポルトガル語と共に日本語の動詞や助辞の用法が一部併記されていて、その一端が窺われる。
さて、この「日本大文典」は、まず巻一では名詞・代名詞の用法を屈折語の格変化に合わせて説き、動詞の話法と時制及び活用を法と時の別によって示した後(形容詞・形容動詞を「形容動詞」とひっくるめて動詞に分類し、また語幹などの用法を形容名詞と呼んで区別し名詞に含めている)品詞分類に及び、名詞・代名詞・動詞・分詞・後置詞・副詞・感動詞・接続詞・格辞・助辞の10種とし、さらに必要に応じて下位分類を行っている。また敬語法にも論究し、ローマ字での正書法についても述べている。
巻二はおもに統辞論・構文論で、品詞ごとに文の成分としての用法を説き、次に文章表現の雅俗、関東・中国・九州の方言、アクセント・開合・清濁など日本語独特の発音法、漢詩・和歌・小歌・連歌など詩歌の特徴について述べる。
巻三は、文体論で、漢籍・仏典における漢字音や訓読法、消息文など実用文書の種類や認め方、書き方を述べ、次に各種の人名を例示し、さらに数の数え方や計算法、年月・時刻・年号などの特殊な呼称に言及し、中国・日本・キリスト誕生以前の年代記を付して終わる。
実用文法書としての立場から、抽象論に陥らず実例に照らした処理を行い、口頭語と文章語を区別し位相などへの配慮も怠らなかったから、当時の規範的口語表現の諸相はほぼ説き尽くされていると言ってよい。しかし、異なる言語体系の尺度を適用したため、文法範疇の立て方にも日本語の本質にそぐわない面をなお残しており、付則や例外の説明を多く必要とするなど、煩雑で不統一な点も認められることは確かである。
しかし、未だ類書を見ない時代なのにもかかわらず、音韻・語彙・文体など、日本語のほとんど全体を網羅したこの書の成果は高い価値を持っていると断言してもよいだろう。
D「天草本平家物語」
1592成立。作、玄恵法印、口訳者、不干ハビヤン。原名は「日本の言葉とイストリアを習い知らんと欲する人のために世話に和らげたる平家の物語」。
本書は、「言葉を学びがてらに日域の往事をとぶらふ」書として「平家物語」を取り上げ、平家の由来の大略が分かるように抜き書きしたものを、「書物の如くにせず両人相対して雑談を為すが如く」に、聞き手兼進行係の右馬之允に対し喜一検校が語る、という趣向に仕立てている。特にその語り口が当時の口語を基調にしているという点で、国語史研究の資料として珍重されている。
E「(天草本)伊曾保物語」
1593成立。イエズス会が出版。原名は「ESOPONO FABVLAS」。訳者不明。
緒言には出版の目的と意義が強調されている。
「これまことに日本の言葉稽古のために便りとなるのみならず、善き道を人に語る便り」<緒言>であり、「デウスの御奉公を志し、そのグラウリア(栄光)を希ふにあり」としており、また「この物語をラチン(ラテン語)より日本の言葉に和らげ、ラチンを和して日本の口となす」とある。こうした訳述作業は日本人を含む複数の人々によると見るべきであろう。
前段は作者の略伝「イソポが生涯の物語略」、後段がいわゆる喩言の抄出「イソポが作り物語の抜書(=すなわち「イソップ物語」である)」からなる。
F「どちりな・きりしたん」
詳しい資料存在せず。
書名は「キリスト教の要理」を意味し、宗教教育の教科書として使われるカテキスモ(口頭による教理指導)の一種であるため、一般に神父とその弟子との問答体で平易に教理が説かれている。
G「ぎや・ど・ぺかどる」
1599年、スペインのルイス・デ・グラナーダ著。
書名は、副題の示すように「罪人を善に導く」の意。1573年サラマンカ刊ポルトガル訳本の抄訳と推定され、日本イエズス会の共同訳になると思われる。初期のキリシタン版に比べ、和漢洋語を交えながらも、文体は流暢で円熟の感があり、聖書はもとより教父・哲学者の著書からの引用が多く、当代カトリック思想の代表的著作で、キリシタン文学中の白眉と称される。
H「サントスの御作業」
1591成立。最古のキリシタン版か。詳細不明。
要は30余人の聖人の殉教の意義や功徳が述べられている「聖人伝」である。
3 キー・パーソン達の紹介
@ヤジロー
生没年不詳。戦国時代の日本最初のキリスト教徒で最初のポルトガル語話者。アンジローとも言う。G・シュールハンマー師はアンジローを正しいとし、ロドリゲスの「日本教会史」ならびに「日本小文典」ではヤジローを良しとする。正確な日本名は不明であるが、仮に安次郎・弥次郎、ときには勘四郎などと日本字を宛てている。
薩摩国鹿児島に生まれ、1558年11月29日付ロヨラ宛の彼の書簡によれば、1545年殺人を犯してしまった彼は亡命の目的もあり、帰国するポルトガル船に潜り込み、マラッカへ到着。それまでには自然とポルトガル語をマスターしてしまったようである。そして1547年12月(当時36,37歳)マラッカで親しくザビエルにあって非常な感銘を受け、自らの罪を告白する。その後ゴアの聖パウロ学院へ送られて修学、洗礼を受けて「聖信仰のパウロ」の霊名を受けたという。1549年8月ザビエルを導き鹿児島に着き、一族の改宗を促すとともにザビエルの伝道を助けて大いに活躍し、いくらかの著述もあったらしい。
しかしその晩年はふるわず、十数年後、海賊船によって中国へ去り、寧波付近で海賊の手により殺されたと伝えられる。
A五峯
ポルトガル人が種子島に初めて漂着したときに通訳した中国人。倭寇らしい。要するに日本に鉄砲をもたらしたのは倭寇だったのである。
最初に来日したというポルトガル人とはたまたま倭寇の船に乗り合わせていたポルトガル人3名だったのである。
この五峯という人は種子島領主の種子島時堯と会談するときには筆談で(中国語、すなわち漢文)で行ったらしい。これは辞書が編まれる前で、日本人通訳が現れる前にはほぼ日常的に(ポルトガル人と日本人が会談するときには)行われていたようである。
Bロドリゲス(1561?-1633?)
天正5年(1577)、十代で来日し、3年後にイエズス会士となる。彼はまた天賦の才に恵まれていたらしく、日本人修道士との交際の中で自然に日本語をマスターし(豊後のコレジヨで教育を受け、しゃべれるようになったという説もある)、天正16年(1588)には既に日本語で説教をしたばかりか通訳としても活躍し、数回にわたりイエズス会と秀吉・家康などとの折衝にもあたった。同時期にもう一人いた宣教師ロドリゲスと区別するため、「通事ロドリゲス」とも呼ばれ、その間1604年から1607年にかけて大著「日本大文典」を完成させた。続く1608年に長崎に入港したポルトガル商船と徳川幕府の間に紛争が起こり、彼もその余波を受けて翌年他の宣教師とともにマカオへ追放された。その後1620年には第二の著書「日本小文典(大文典の縮約版と考えてもらってよい)」がマカオで刊行されたが、日本帰任も果たせぬまま同地で病死した。
Cフランシスコ・ザビエル(1506-1552)
スペイン人イエズス会士。
キリスト教(ローマ=カトリック)を日本に最初に伝えた誰もが知る超有名人。
彼の略史はあまりにも無駄い長くなってしまうのでここでは割愛し、ここで載せるのは言語面に関しての話題だけ。
彼は布教活動の途中から、キリスト教の「創造主」の意味を明確にするため、布教上便宜的に使ってきた「大日(ダイニチ)」の語を廃し、ラテン語の「デウス」を用いた。これ以後宣教師達が使う言葉も「デウス」あるいはそれと起源を同じくする言葉を使うようになっていき、また他にも日本語で訳出不可の宗教用語などは無理に訳すことはせず原語のまま(布教活動において)使われていくようになる。
彼の生涯の略史を知りたいとお望みならば吉川弘文館「国史大辞典」の「シャビエル」の項をご参照あれ。
D天正遣欧使節
いわずとしれた伊藤マンショ・千々石ミゲルを正使、中浦ジュリアン・原マルチノを副使とし、巡察使バリニャーニが企画・実行に移した使節。この4人の他にも日本人修道士ロヨラ、また印刷術を修得してくる目的をもってドラード少年らが一向に加わった。
言語接触に関する資料はほとんど見られず。
Eバリニャーニ(1539-1606)
イエズス会東インド巡察師。
イタリアで生を受け、1566年イエズス会入会、73年ローマで東インド巡察師に任命され、翌年41名のイエズス会士とともにリスボンを出港、ゴアを経て、78年マカオ着。翌79年に口之津着。翌年に有馬晴信に授洗、翌81年には五機内を巡察し織田信長の歓待を受け、日本イエズス会第1回協議会を開催し、ザビエル以来山積みとなっていた司牧・布教問題を処理した。
その他多岐にわたる経済・布教の政策や礼法の制定などを一手にこなし、日本の言語・文化・風習に対する適応策は大航海時代の海外布教史上画期的なものであった。1582年、自ら立案した天正遣欧使節とともに長崎を出港、1590年、使命を果たした使節とともにゴアから再来日、長崎に着。この時に印刷機をもたらし、キリシタン版の開発に着手する。
その後、秀吉の発したバテレン追放令との折衝にあたったが成果は得られず、1606年、マカオで病死した。
Fメスキータ(1553-1614)
ポルトガル人司祭。1574年、ゴアでイエズス会に入会。
天正遣欧使節の通訳としてずっとついてまわった人。ローマ法王に謁見するときにもついていったというのだから、母国語のポルトガルはもちろん、日本語にもイタリア語にも精通してなければならなかったろう。いわゆるトライリンガルだろう。スゲーヒトである。
在日39年、ずっと日本語で説教し、ポルトガル人であるにもかかわらず、在日イエズス会士のスペイン系修道会との対立と外国貿易への関与を批判し続けた。
4 参考文献
「国語学大辞典」(東京堂出版)
「日本語学キーワード事典」(朝倉書店)
「国語学研究事典」(明治書院)
「国語史辞典」(東京堂出版)
「国史大辞典」(吉川弘文館)
「日本古典文学大辞典」(岩波書店)
「講座 日本語学 4」(岩波書店)
「邦訳日葡辞書」(岩波書店)
「日本大文典」(三省堂)
「天草本平家物語」(勉誠社)
「伊曾保物語」(勉誠社)