初出:『日本語学』1997年7月号6-13頁

方言からみた日本語らしさ

ダニエル・ロング(東京都立大学、社会言語学)


1. 社会方言のない「方言研究先進国」

本稿のテーマである「方言から見た日本語らしさ」を述べるにあたっての話は、まず、「方言」という用語がどう認識されているかという点に触れなければならないところから始めなければならない。日本語でいうは、「方言」は主に、ことばの地域的変異として捉えられている。欧米の諸言語では、社会階層によることばの違いを差す「社会方言」という概念が存在する(そして、アメリカには「黒人俗英語」という「民族方言」がもあるが)が、日本語にはこれに相当する言語変種はないので、欧米の方言学者の目から見れば、社会方言がないことがは日本方言の一つの特徴であるように思われる写る(ロング1997a)。

世界の言語を見た場合、地理的な変異(つまり、地域方言)がない言語体系はほんとどないと思われている。それに比べて、社会方言という現象は、欧米のような工業化や都市化が進んだ資本主義社会で主としてに集中して見られる。このういう意味では、日本語のように社会方言がない言語の方がは世界的に珍しいどころか、むしろ、多数を占めているであろう。しかし、これまでの方言学では(少なくとも世界的に知られた研究では)、欧米の事例が大部分を占めていたたので、日本語のように欧米と同じような都市型資本主義者社会の言語でありながら、社会方言がない言語がは、貴重な研究材料資料源ととして注目されるに違いない。

かつて、社会方言と言える現象は日本本土(真田1991:22)や琉球列島(柴田1977)の言語に見られた。またそして、現在の日本語でもは、社会集団によって違うことばが使用されているということはよくある。しかし、これはむしろ、ある職業で使われる専門用語などの個別語彙、あるいは特殊な言い回しに程度にしか過ぎず、ない音韻や文法のような体系的な特徴ではない。また、これらの「集団語」は、親から子へと受け継げられるものとして一人の人間の母語になっているわけではないので、やはり「方言」と呼べるものでない。

日本各地の方言には、社会的地位を反映する言語的特徴も報告されている。柴田(1977)の沖縄の例では、社会階級によって音韻体系までが異なるという報告があるが、こそれ以外の報告はは、親族名称や(使用される)待遇表現など、語彙体系のごく一部の相違に止まっているので、欧米の「社会方言」と根本的に異なる(渡辺1977、真田1990)。

ところが、一方、このこれは、ことは社会階層と言語との関係を完全に否定するものではない。標準語の習得にも(国立国語研究所1974: 180-184)、敬語行動にも(江川1973)、そして言語変化の進み具合にも(Hibiya 1990)社会階層による違いが確認されている。日本には、「社会階層」という用語で説明できる経済によって異なる的な違いによる生活様式、習慣、価値観などがの相違は存在するにしてもするであろうが、欧米のように異なる社会階層の違う人が、異なる言語変種を用いるということはない。

すなわち、フィールドワークに基づくエンピリカルな言語研究が欧米諸国なみに進んでいる国は世界的には珍しいが、日本はその一つである。社会方言がないという「日本語らしさ」を有効に活用し、日本語の方言研究者がこれから積極的に世界の方言学、よって言語学全体に大きく貢献することが期待される。
 

2. 世界のポライトネス理論にとっての「待遇表現研究」の貢献

国立国語研究所が作成継続中である『方言文法全国地図(GAJ)』には命令表現の項目が含まれている。1997今年春の日本方言研究会の研究発表会で、GAJの場面設定を不十分なものとして批判して、「共通語と同じ命令表現の体系を持たない方言では、問題が生じてくる」と主張する発表があった。具体的には、「話者の属性と、相手に対する待遇、強要の程度などによって、本来使い分けられるはずのものが、具体的な場面が与えられなかったために話者が適当に判断して一部だけ答えてしまうこと」が問題の種であった(瀧川1997 :9)。(なお、地図責任者の一人の発言によると、こうした要因を考慮した項目がこれから発行されるGAJの巻に含まれている。)このやり取りを聞いていて私は、聞き手の属性やその人に対する待遇を考慮せずに方言調査ができないのは、日本語ならではの問題であるだと思った。これは、韓国語、タイ語、ジャワ語などアジアのいくつかの言語には生じうる問題であろうが、英語圏ではまずちょっと思いもよら想像がつかないことである。

もちろん、英語にも聞き手相手に対してする丁寧にさを言語表現するで表わすことができるもあるし、こうした丁寧表現の用法や言語形式に多少の地域差も見られる。例えば、有名なオッククスフォード英語大辞典(OED)の敬称"sir"と"ma'am"の見出し語では、「召し使いがご主人に対して使うことば」という記述があるが、筆者の故郷であるアメリカ南部では、これは目上の相手に対することばだけでなくのみならず、ごく一般に日常的な礼儀作法としている使われている。アメリカ南部は、他の地域よりも応答表現にこうした敬称を頻繁に使うし、しかも、その使い方も他地方と違う、という研究結果も出ている(Martin Ching 1988)。

しかし、英語にはこうした丁寧表現の地域差は割とまれな現象であるが、日本語ではこうしたことを要因への考慮せずにぬきに方言調査調査を実施計画することはできないであろう。それは、地域によって言語形式だけが異なる場合もがあるが、上記のように、言語体系そのものが異なる場合がもあるからである。加藤正信(1977)は待遇表現の体系の違いによる方言区画を提案しているをぐらいである。そして、日本語には、上記の命令表現のように、話し相手に対する丁寧さを表わす用法もあるが、話題の人物であになっている第三者に対する敬意を言語表現で表わすこともありうる。ここが、英語とは最も大きく異なる点である。上記の英語の敬称は、話し相手に対する丁寧さを言い表わす用法と言えるが、日本語の「素材待遇語」のように、第三者である話題の人物に対する敬意を表わすための体系化された用法はない。

宮治弘明(1996)1988では、標準語と近畿諸方言とでは、待遇表現の体系そのものが異なると主張している。これは、地域による変異は形態素レベルだけではなく、統語レベルにも現れていることを意味する。標準語と違って、近畿方言には、くつろいだ場面で使用される素材待遇語(これを「関係把握語」と名づけている)がある。しかも、こうした「関係把握語」(下向き、中立的、上向き)を使うか使わないかというオプションはなく、話者は必ず関係把握語を選ばなければならないと論じている(宮治1988)。

日本語では、このような「敬語論」や「待遇表現研究」を「ポライトネス理論」などの用語に置き換えることが最近流行っているが、英語におけるpolitenessの用法と、「待遇表現」とは区別しなければならない概念である。日本語の待遇表現には、相手に対する丁寧さと話題の人物に対する敬意との両方が含まれている。だから、「先生がいらっしゃるよ」においてという、「+敬意」かつ「−丁寧」という表現が作れる。英語のpoliteな表現では、相手に対する丁寧さ(文字通りのポライトネス)しか言い表わすことができないので、日本語の「丁寧語」に当たる用法はあるが、「待遇表現」に相当する用法はない。

こうした待遇表現体系を持つ言語は、日本語だけではないので、「日本語独特なもの」というわけではない。しかし、世界の多くの言語に見られる「丁寧表現」とは異なる点において、この待遇表現の存在、そして、これが地域によって統語論的に異なるという点では、日本語らしい現象と言える。日本語を対象とした言語研究が世界の言語学界に大きく貢献できる分野であろう。
 

3. 方言の韻律の研究 ―超分節的特徴とその地域差―

言語の音をいくつかの母音(u,i,eなど)と子音(k,s,nなど)に分けることができる。これらを分節的特徴と言う。一方、細かい単位に分けることはのできないが、重要な役割を果たしている音声的特徴がある。これは例えば、「雨」と「飴」の区別に役立つ高さ(アクセント)や英語の名詞 re-cordと動詞re-cord の区別に使われる強さ、あるいは日本語と英語の両方で疑問文と断定文を区別する高さ(イントネーション)である。また、単語に伴うアクセントと文に伴うイントネーションを合わせて韻律を言う。

日本語は英語から見て、形態素と超分節的特徴における変異が多い。例えば、日本語の東西の方言差は普通7つの要因で分ける。これは、いずれも形態素である。ヨーロッパでも、形態レベルの変異が重要になっている言語は例えば、北欧のスェーデン語やノルウェイ語にあるが、英語に形態素の地域差はさほど重要ではない。英語の方言を区別するものとして、むしろ語彙と音韻(しかも、分節的なもの、すなわち母音と子音)が重要なのである。日本語においても音韻的な方言差は重要日本語の方言には超文節的特徴の役割が大きい。であるが、それは母音や子音というよりは、アクセントのような超分節的特徴の変異として現れている。

「雨が・飴が」はを関西方言で○●△・●●▲と言い、関東方言では●○△・○●▲と区別される。、となる。一型アクセントの宮崎県都城方言仙台では両方が、これが○○●▲となるが、そして福井市の無アクセント方言では両方が、○●▲とも●○△ともなありうる。英語の方言を区別するのに音韻が重要な要因になっているが、こそのほとんどは分節的なものである。だから、確かに、日本の方言を区別する時に、単語アクセントが重要な役割を果たしていると言えるが、逆の考え方もできる。すなわち、地域によってアクセントが違う、あるいはまったくないという事実を考えれば、そもそも日本語において、このアクセントという要因はさほど重要でないのではないか、と疑いたくなる。

日本語と同じように単語をピッチアクセントで区別する言語変種は朝鮮半島で使われている。韓国の非標準的変種では、高中低の三つのアクセントが使われる。しかし、韓国の標準語の基盤となっているソウル方言は無アクセント方言である。つまり、ここでも、単語アクセントの方言的変異があるが、まったくアクセントを使わない言語変種もある。

中国語の方言では、超分節的特徴であるトーン(四声)の地域差はよく見られるが、日本語のように無アクセント方言はない。あれほどバラエティに富んだ中国語の方言では、言語変異のあらゆる可能性は実現しているのではないかと思えるが、トーンアクセントがまったくなくなる変種はない。中国語に比べて日本語(や朝鮮語)における単語の超分節的特徴は、エミク(emic)な役割、すなわち同音異義語を区別する役割の負担があまり重要ではないようにも思える。

英語の単語アクセント(日本語の高低アクセントと違って、強弱アクセント)はほとんど固定的であり、日本語のように、方言差はほとんど見られない。 re-cord /re-cordのように、同一の「語形」(formative)が二つのアクセントで表れる単語もあるが、これはまったく意味の違う単語(の同音異義語)ではなく、同じ単語の二つの異なる品詞のものだ。これは「雨・飴」よりは、(本物の)熊●○とぬいぐるみの熊○●の例に近い。

英語の二音節名詞は、原則として第一音節にストレスが置かれる。つまり、超文節的特徴の方言の違いも見られるが、その研究は日本語ほど進んでいない。

ここでアメリカのなか中の方言差、およびアメリカ英語とイギリス英語の2つの大方言の違いという2種類の例を見よう。英語の単語アクセント体系には、日本語の「類別語彙」二拍名詞第1〜5類に当たるグルーピングはなく、ほとんどの単語は品詞や単語の音節数、あるい音形(-tionで終わるなど)などによって、ストレスの置かれる位置が規則的に決まる。例えば、英語の二音節名詞のストレスは原則として第一音節に置かれる。その例外の大部分はhotel, policeのようにフランス語から入ってきた借用語である。しかし、ちなみに、アメリカの(非標準的)方言では、こうした借用語でも、自然と言語体系の法則に屈折して、他の二拍名詞にと同化され、同じ「第一音節ストレス型」( ho-telや, po-lice)になる。 tableなどは元々借用語であるが、hotelやpoliceに先立って「土着語化」が進み、現在の ta-bleとなった。名詞の re-cordと動詞のre-cordが両方存在するのは、言語変化が起きた結果でる。数百年まで二音節の単語は(名詞、動詞ともに)第2音節にストレスを置いたが、名詞のみが現在のように、ストレスを第一音節に変えた。動詞がこの変化には関わらなかったため、結果的には、古いアクセントを残したことになっている。

英語でも、単語アクセント(強弱)の地域差がある。しかし、それは単語の「語形」や品詞と密接な関係にある。アメリカ英語とイギリス英語との英語の2大方言では、単語の強弱アクセントが異なる違う場合があるが、それはいくつかの特定な語尾この数も少ない上に、こうした違いを見せる単語のほとんどは ("-ary", "-ory", "-ate", "-ile" など)、特を持つものに限られる定な語尾で終わっている単語である(竹林他1988:189-195)。

しかしたがって、これ以外に日本語の「雨・飴」のように、同じ「語音形 」(formative)が方言によってと同じ品詞なのに、違うアクセントを持つだけが違うという例はほとんど皆無である。

一方、日本語の単語アクセントの研究から発達したのは、文におけるイントネーション、およびその地域差に関する研究である。これは、他の言語に比べてかなり進んでいると言える(藤原 1963、村中1995)。これは、同じピッチ現象であるアクセントの研究の基盤があったからではなかろうか。超分節的特徴には、単語のアクセント以外に、発話に伴うイントネーションがある。英語では、イントネーションが地域によって異なる(特に英・米の差)という指摘があるが (Bolinger 1986, Wolfram 1991:56, 竹林他1988:191-193)、こその研究はほとんど行われていない。日本語ほど関心を集めていないる課題ではない。その原因として考えられるのは、(1)イントネーションのピッチの違いが連続的(段階的)であるのに対して、アクセントのそれは非段階的(discrete、つまり高いか低いか),(2)この理由により、その記述と分析は難しい、(3)イントネーションは語素(lexeme)に伴うものではなく、発話に伴うものであるから、「言わせる調査」「読ませる調査」に向かない、(4)意味の判定が難しい、がある。これに比べて、日本語では、発話イントネーションにおける地域差の研究がかなり進んでいるのは現状である(藤原 1963、村中1995)。
 

4. 「方言」のままで愛着が持てる日本人

日本語の方言はなくなってきているか否かなりつつあるかどうかという議論はたびたび行われるが、論争がある。これは、「方言」のという定義の問題とも絡んでいる。つまり、「方言」を「俚言」の同義語として使えば、確かに各地の伝統的な俚言は減る傾向にあると言えるが、言語学で使われる「方言」の定義は地域差などの違いが見られる 言語体系であり、個別語彙を意味する「俚言」とは違う。

また、数年前までは、日本語の方言すべてなくなりつつある、そして全国共通語が一斉に日本じゅうに広がりつつある、と騒がれていた。共通語化は(ある程度)進んでいることは事実であるが、それに応じて反比例して、ことばの地域差が一斉になくなるなんということはない。むしろ、こうした変化は起こりうるかどうかが疑問に思われる。現在、日本語の方言は「安定期」に入っているとも(佐藤1992) 、「復活」しているとも言われている(杉戸1989)が、共通語化が日本語全国で共通語化が一斉に同じように、しかも同じ速度で起こっているわけではないことは確かである。

この背景には、いくつかの要因がある。最も大きな要因の一つは、一般話者の意識であろう。近年、方言に対する態度が徐々に好意的な方向に向かいつつある。関西地方は昔から、地元の方言に対して特別な愛着を抱いていたようであるが、最近、こうしたプラス指向の方言意識は他の地域でも、しかもその若者層にも、現れている。最近の調査では、津軽弁(佐藤左藤1995)や広島弁(友定1995)において、従来その話者が自らのような従来自己イメージが悪いイメージを持っていたととされるていた方言でさえ、若者の好意的な意識が報告されている。これは日本語方言の特徴独特なところである、いわば方言の日本語らしさ。

最近、全国の14の主要都市に住む2100名(50人×3世代×14地点)を対象とした大規模な言語意識調査では、高校生でには「方言が好き」と答えた人がはるかに「共通語が好き」の回答者を上回っている(『月刊言語』24.121995:19)。残念ながら、米国など外国で比較できる数字はないようであるが、アメリカ人である筆者にとって、「共通語」よりも「方言」の方にの人気が高いことは驚くべき結果であったる。南北アメリカ大陸やヨーロッパ諸国でも、無色透明な「アナウンサーことば」は必ずしも若者の支持を得ているとは限らないであろう。米国では、むしろ、それは人気がないと言った方が正確かもしれない(ロング1996:132)当たっているであろう。しかしながら、そうとは言え、「方言」に当たる西洋諸言語の単語(dialect, Mundart, dialectoなど)は響きが悪くて、非標準的変種の話者には嫌われる傾向にがち言い方である。そこでしたがって、非標準的変種の話者が自らの言語体系に誇りと愛着が持てるようになるには、その変種の名前を変えなければならない。多くの場合は、これをdialectからlanguageに変えることを意味する。

世界的には、少数派の言語変種を使う人々の間で、自らのことばに対する誇りや愛着、維持する意志といったプラス指向の言語意識が強まってきている。しかし、興味深いことに、こうした前向きな態度といっしょに現れる現象は、私は一応「方言の言語化」(linguification/Einsprachung), と呼ぶ動きである。これは、すなわち、自らの言語変種を「○○方言」と呼ぶのをやめ、それは「○○語」であるということを主張する動きである。スペインのカタルーニャ地方のことばは、地方の自治権を阻止しようとしたフランコ将軍が生きている間には、「カタラン方言」と言われた。しかし、が、現在では、その使用場面域(register)の拡大を推進しようとしている勢力は積極的に「カタラン語」という言い方を広め、スペイン語(カスティーリャリア語)やフランス語とは同レベルに位置することばであることを印象づけようとしている訴えている(Woolard 1989)。

こうした動きは、最近のアメリカのエボニックス論争に見られる(ロング1997b)。「エボニックス」とは、黒人俗英語のことを言う。今まで、研究者の間では、これがBlack English, Black English Vernacularなどと呼ばれてきたが、Ebonicsというネーミングの背景には、これを英語の一方言ではなく、英語とは別の言語であることを印象づけようとする意図があった。学校における「エボニックス」の使用の正当化を訴えるレトリックには、大抵「エボニックスは方言ではなく、言語である」という文句が含まれている(ロング1997b)。

日本でも、この方言の存在を正当化することを目的とした「方言の言語化」を思わせることに匹敵するもの(がある。例えば、「気仙語」、「東京語」という言い方など)などの研究書はいくつかあるが出ている。しかし、一般人向けの本の題名にもでも「熊本方言」、「大分弁」のような言い方が使われているので、に、「方言」や「弁」はけっしてマイナスイメージの単語ではないようである。という言い方を使うものの方がむしろ多い。

つまり、日本では、地域の言語の使用を正当化し、その存在をアピールするためには、「〜弁」という言い方を捨てて、それを「〜言語」に切り替える必要はと呼ばなないようくてもよ良いのである。これは「方言の言語化」が進む欧米諸国の言語意識とは大きく異なるのである。
 

5. 「日本語らしい」を求める意義

以上、本稿では、方言の視点から「日本語らしさい」について考察してきた。字数にも筆者の知識にも限界があるので、主にアメリカ英語やその方言との相違点から日本語の方言の特徴を追究した。それゆえ、本稿で指摘した「日本語らしい」言語現象は、日本語だけにしかないものとして考えるよりは、とりあえず日本語にあって、英語にないものとして考えた方がいい。言語科学的な立場から言えば、「日本語らしさ」を捜し求めることは、ほとんど不可能で、しかも無意味なことである。それは、世界の言語を見た渡したときに、日本語だけにしか存在しない言語的特徴というものは、ほとんど存在しない、いや、それはありえないからだ。

アメリカ人の立場から見れば、日本人は自分たちの言語に「日本語らしさ」を捜し求めることは、アメリカ人から見れば、日本人語らしい行動だと思う。かつて、「日本人のルーツを探る」を目標にしたいわゆる「日本人論」の本に人気があったも大勢でた時期があった。この時にも、その「日本人論」の言語版ともいうべき、「日本語はどこから来たか」といった課題について、数多くの一般人向けの本が出版された。これは、ある解釈では、日本人の他の民族に対する優越感に起因する、という見方解釈もあった(Miller 1982など)。この見方を否定はしないが、私自身はこの現象をもっと前向きに解釈したい。こうした日本の言語の独自性を捜し求める本の一連のブームは、むしろ、一般の日本人の言語(日本語も他言語も含めて)に対する日本人の感心の高さを物語っているように思う。他者が自分とはどう違う、どう似ているか、ということを知りたがることは人間の自然な好奇心によるものと私は考えているからである。つまり、日本人が日本語の独特さを知りたがることは、見方さえ変えれば、他言語に対する日本人の強い関心の表れと見ることができるのである。
 

参考文献

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