初出:『日本語学』1998年1月号「うわさ」特集,23-34

外国人とうわさ

―緊急時の場合に注目して―

ダニエル・ロング(東京都立大学)dlong@bcomp.metro-u.ac.jp

1. 本稿の問題点

本稿では、うわさと外国人との関係について考察する。日本では、外国人とうわさと言えば、多くの人が思い出すのは、1923年9月1日の関東大震災の直後に広まった「朝鮮人が攻めてくる。井戸に毒を投げ入れる」といううわさである(奥山1980:48)。このうわさはまったく根拠のないものであったが、これが流れた結果、数千人の朝鮮人(および朝鮮人と間違われた中国人や日本人)が殺されたという(南1985:Z)。

「うわさ」と「流言」を同義語とする学者は多いが、社会学では、デマと流言は区別されている。「デマは、意図的に流す虚偽の情報、それに対して、流言やうわさは意図的ではない情報で、必ずしも嘘とは限らない。」(奥山1980:48)また、民俗学では「都市伝説」(英語のurban legendの訳)という用語があるが、これはストリー性のあるうわさで、登場人物がいて、物語の始まりと終わりがある(Turner 1993:4-5)。

なお、本稿では、「外国人」という範疇をもう少し広げて、「国籍の違う人」だけでなく、同じ国籍をもつ違う民族(エスニック集団)の場合についても少し考察したいと思う。それは、この2つの場合には、いくつかの共通点があるからである。

さて、上の3つの概念を組み合わせると、4つの接点が考えられる。それは、A外国人とうわさ、Bうわさと緊急時、C緊急時と外国人、D外国人とうわさと緊急時、である。なお、Cの問題はロング1996のすでに取り上げられているので、本稿では、AとB、および3つの課題が接点をもつDについて考えたい。

なぜ「うわさ」と「外国人」と「緊急時」という三つの要因はつながっているのか。それは、次のような相関関係で考えられる。緊急時には情報の要求が高まる。しかし、要求が高まる一方、情報が不足することが多い。そこで情報の真空管状態が生じ、その空白を埋めようと、影響を受けている人々が憶測や想像へと走るのである。したがって、「うわさ」とは人から人へと流れた結果「うわさ」と呼ばれるものになるのであって、最初は単に頭の中で考え出された推測に過ぎない。この憶測を他人に漏らすと、それは「人から聞いた話」となり、(聞いた人にとっては)一段と現実性が高まるのである。もちろん、意図的に流された嘘(デマ)も存在するが、一度流れてしまったデマは他の単なるうわさと同一のものになる。つまり、そのうわさを伝えた人間全員はその話を意図的に作ったとは考えない。彼らにとって、話の内容は事実であるので、それを流した人が意図的に作ったかどうかを判別することもない。奥山がこれについて、「どちらにしても受け手にとっては似たようなもので、あとになって「あれはデマだったのか」と知るわけである。」(奥山1980:48)

緊急事態が深刻なものであればあるほど、また巻き込まれている人々が不安や恐怖を覚えれば覚えるほど、うわさが広まる。次の公式を見よう。

R〜i×a うわさの流布量(R)は当事者に対する問題の重要さ(i)と、その論題についての証拠のあいまいさ(a)との積に比例する。重要さとあいまいさは加え合わせるのではなく、かけ合わせたものである。というのは、重要さか、あいまいさか、どちらか一方が零ならば、うわさにならないからである。 これは、うわさ研究の古典的な書物となっているAllport and Postman (1947:33-34)が提唱した公式である。シブタニによるとその正確さは試されたことがないが、広く用いられているのである(Shibutani 1966:57)。

日系アメリカ人の社会学者タモツ・シブタニのうわさに関する著書はImprovised News、つまり「一時の間に合わせに作れたニュース」という題がつけられている。ここで、彼は、うわさが情報の不足によって発生するものだとしている。「行動が十分な情報の不足によって中断された場合、欲求不満を感じた人達は、それを把握するため、[断片的な情報の]繋ぎ合わをしなければならない。うわさは、空白を埋めようとしている際に生じる集団的作用である。すなわち、うわさは病理的行為どころか、人間が人生の急迫した事情に対処しようとする努力によるものだ」(Shibutani 1966:62)

これまで「緊急時」と「うわさ」との関係について簡単に見てきたが、「外国人」という要因はなぜ関わってくるのだろうか。本稿では、(1)外国人がうわさの対象になった場合、(2)外国人の間で、そのホストコミュニティのについてのうわさが流れた場合、(3)同じうわさでも、外国人コミュニティに対する影響とホストコミュニティのそれがどう違うのか、という3つの場合を考察する。

2. 外国人がうわさの対象になった場合

冒頭で述べたように、関東大震災が発生して、翌日の9月2日には関東地方各地で朝鮮人に対する様々な悪質なうわさが流れた。内容としては、「朝鮮人が攻めてくる。井戸に毒を投げ入れる」(奥山1980:48)、「党を組んで盗難を始めた」、あるいは「朝鮮人暴動」という様々な形をとった(南1985:Z, 491)。いずれにしても、関東各地で自警団が組織され7千人以上の朝鮮人が虐殺されたと言われている。(姜 徳相、琴秉洞1963、高柳 俊男1983)

日本人によく知られているこの虐殺のことを詳しく取り上げることは本稿の目的ではない。そこで、世界各地で、災害のあとに外国人や異民族を同じように犯人と決め付けるうわさが数多くあるので、これを見てみたい。

中世ヨーロッパで腺ペストが大流行した直後、その原因は井戸に毒をまこうとしたユダヤ人たちによる陰謀だとするうわさが起こった。これは、南フランスで1348年に初めて報告され、たった2年間でヨーロッパ大陸全域に行き渡った(Shibutani 1966:103)。同じように、近代のキリスト教中心のヨーロッパでは、異教徒であったにユダヤ人、あるいジプシーたちに関する悪質なうわさが昔から繰り返し流れているのである(Dundes 1991)。

しかし、時代と場所が変われば、多数派と少数派の立場が逆転する。キリスト教が誕生した直後は、キリスト教信者たちこそ差別を受けた少数派であった。紀元前64年のローマ帝国では、ローマの街で火災が発生し、6日間燃え続けて、町中が灰と化したという。当初、この火事はネロ帝王が自らやったといううわさが流れたが、自分に対する国民の怒りをさけるために、ネロはキリスト教信者たちがこの火をつけたというデマを流した。その結果、数多くのキリスト教信者が殺された。彼らは十字架にかけられたり、獣の毛皮に縫い閉じ込められて猛犬に殺されたり、牡牛にひもでつけられて引き連れ回されたり、焼死させらたり、様々な残酷な目に会ったと伝えられている(Shelley 1995: 40-41)。

しかし、差別の原因となるのは、宗教の違いだけではない。近代の北米大陸では、アングロサクソン系以外の移民・住民はたびたび差別の対象になっていたが、生と死を分ける災害には、日ごろ消極的になっていた差別的感情が表面化し、限りなく人を暴れさせるのである。

1871年にアメリカのシガコ市で火事が発生した。アメリカ史上最大の火災と言われている。これが31時間燃え続き、10万人以上がそれから逃げなければならなかった。オリアリー婦人が牛の乳絞りをやっている時に、牛が灯油ランプを蹴り倒したことが火事の原因だといううわさが広まり、以来、これが伝説となっている。のちに、オリアリー家の家畜小屋から火が広まったのは、事実であることが判明されたが、一家が眠りについたあとのことで、行為的に火をつけたわけでもなければ、過失もなかった。しかし、オリアリー家はアイルランド系移民で、ドイツや北欧の移民と同様、他の市民から軽蔑されていた。新聞記事は、一般市民がすぐに移民街だと分かる路の名前を具体的に挙げながら、火災は「高潔な市民にとって未知の世界であるあの辺の不潔な路地」から起こったと大々的に、かつセンセーショナルに伝えていた(Murphy 1995: 11, 31, 124-136)。

1916年に、カナダの国会議事堂が火事になった。当時は第1時世界大戦の真っ只中で、この火事は放火によるものだったかどうかが重大な問題であった。すぐに、これはドイツ人による犯行だといううわさが広まり、この訴えが新聞の見出しにまで登場した。カナダの防衛大臣がドイツ人による陰謀のうわさを新聞で猛烈に批判したにも関わらず、カナダ在住のドイツ人やドイツ系のカナダ人がつぎつぎと警察に呼び出され、聴取をうけた。しかし、火災に関する証拠を分析した結果、原因は失火だと断定された(Varkaris 1988: 55-59)。

ところで、阪神大震災は、関東大震災のようにさらなる悲劇を生む悪質なうわさはほとんどなかった。しかし、「うわさがなかった」という見方自体が一種のうわさと指摘する研究者もいる。関西学院大学の津金沢聡広の調査によると、震災後の情報不足の中でさまざまなうわさが飛び交ったと主張している(Tsuganesawa 1996:117)。

『朝日新聞』の8欄記事(1995年1月27日付けの朝刊, 3頁)は、「デマ 被災地走る」と報道した。その中で、「外国人が窃盗団」といううわさが出回っているという見出しのすぐ横に、「突き出された10人は日本人」という見出しも出ていた。しかし、このように、正確な情報を流すことによってうわさを阻止しようというマスコミや当局側の努力にも関わらず、このうわさはすぐには消えなかった。それどころか、この報道から2週間近くたってからも、「東南アジア人が家を略奪している」といううわさはボランティアや住民の間で、はやっていたと伝えられている(『産経新聞』1995年2月9日付け朝刊, 24頁)。『週刊新潮』(1995年2月2日号、53-55頁)は、証拠や根拠をまったく提供せずに「外国人による略奪」の話をうわさではなく「半分事実」として報道するという極めて無責任な行動に出た(Tsuganesawa 1996:120-121)。

以上、緊急時という緊迫した状況の中で、少数派の人々に対するうわさが頻繁に流れる実態を見た。次に、逆の現象として、外国人などの少数派が、多数派であるホストコミュニティの人々をうわさの対象にする場合についてみておきたい。

3. 外国人の間でそのホストコミュニティについてのうわさが広まった場合

シブタニが第二次世界大戦時の日系アメリカ人コミュニティにおけるうわさを収集し、その実態、発生時あるいはその後うわさに影響する要因について分析している。主流のアメリカ社会(つまり非日系人の社会)で、日系人は日本側のスパイであるなどのうわさが広まった。しかし、その一方日系人社会の中でも様々なうわさが流れた。すなわち、マジョリティ(多数派)の間でマイノリティ(少数派)についての悪質なうわさが流れることもあるが、反対にマイノリティの間でもマジョリティについてのうわさが流れることもたびたびある。

少数民族が多数を占める民族に対して、不信や不安を抱いているときは、少数派の間で、多数に関するうわさが流れる。こうしたモチーフのうわさは、シブタニの著書に数多く紹介されている。例えば、真珠湾攻撃(1941年12月)の直後から翌年の4月ごろまで、西海岸で暮らす日系人(一世の移民や二世以降の子孫)の間で様々なうわさが流れた。しかも、彼等の不安の内容とともにこうしたうわさの内容も次から次へと移り変わりを見せた。当初は、日系人はサンフランシスコ湾の橋を渡ることや日系人の電車やバスによる移動が禁止されたなど、許されている行為とそうでないものに関するうわさが流れた。一月になると、カリフォルニアに住むフィリピン系移民による暴力事件をめぐるうわさ。2月には、日系人が所有していると逮捕される品物について(地図、日本語の本、8インチを超える刃物)。3月には、日系人が収容所に強制移動されられるかどうに関するうわさが多発した(Shibutani 1966:65-68)。

現在、日本の様々な外国人滞在者のコミュニティの中でも日本人や日本社会に関するうわさが飛び交っている。1996年の暮れ、東京在住の英語圏人を対象としている月刊誌Tokyo Journalが「都市伝説」に関する記事を載せた。中には、口裂け女など日本で流行した話も紹介されたが、東京の外国人コミュニティで伝わったと思われるうわさも含まれている。クリスマスの季節に、東京のデパートの陣列窓のディスプレーで、リボンに包まれていたプレゼントや雪だるまに囲まれて、サンタクローズが高さ3メートルの十字架にかけられていた光景を目にした、といううわさであった(Joyce 1996)が、これはさはど日本人が関心を持つような内容ではなかった。人々の関心を集めない話題のうわさはすぐに途絶えてしまうので、このうわさは日本に住む外国人の一部には関心があったと言える。また、これは悪質なものには見えないが、西洋人が日本人に対して抱いている微妙な偏見がここに潜んでいる。日本人がいかにも西洋の伝統を理解していない、そしてその宗教に対してどんなに無神経であるという意識を表していると言える。

日本で生活する外国人コミュニティを駆け巡るうわさの中に、このように異民族を意識したものが少なくない。それは、自分たちが少数派であり、そして微妙な差別を受けている意識から生まれる逆差別に起因するものである。例えば、筆者が日本の大学で学部生として勉強していた時に、留学生の間で、次のようなうわさが流れた。我々は、大学の周りの店のドアの前にまかれていた塩をたびたび目にした。これは清塩であったが、われわれ留学生はこうした習慣の意味が分からなかった。そして、この塩は、外国人が店に入った後、その進入によって汚れた店を清めるためのものであるといううわさが留学生の間で流れていた。つまり、これは我々に対する偏見の表れであると考えた。このようなうわさも自分たちは差別を受けている少数派である劣等感から生じたかもしれない。

「外国人の財産所有権は日本の法律で保護されていない」、「外国人の経営していた会社が日本人によって乗っ取られた」、「外国人が法律上弱い立場にいたため泣き寝入りせざるを得なかった」といううわさを滞日外国人の間でしばしば聞く。先ほど述べたように、内容は事実か嘘はうわさの判定とは関係ない。問題は、未確認な情報が事実として口コミでそのコミュニティを駆け巡ることである。

これらのうわさは通常の生活の中で出てきたものであって、災害時とは特に関係はない。しかし、緊急時に発生するうわさはその人々の日ごろの意識の特徴を拡大し、強調するものとすれば、そうした状況の中では、うわさが流れることが容易に想像できる。

4. 同じうわさでも、外国人コミュニティに対する影響がどう違うか

外国人滞在者にとって最も深刻な話題は、ビザの取得、継続である。ビザとは日本の滞在を継続する許可であるので、これなしでは日本に合法的には居られなくなる。ビザの申請や延期、在留資格に関する規則は非常に分かり難く、様々な条件によって適用される規制が違うし、しかも時代によって変更される。その反面、正確で、信頼性のある、分かりやすい最新の情報の入手は困難である。一方、これは外国人にとって極めて関心が高い問題である。このように、うわさの発生しやすい条件がそろっているのである。筆者が日本に学生の身分で滞在していた時は特に、これに関する様々なうわさが飛び交っていた。

社会が正常に機能している場合でも、外国人は言語の壁などの障害物によって「情報的弱者」となっているが、災害時には、その弱さがより深刻な形で出てくる。シブタニが強調しているように、緊急事態に面した人間はけっしてだまされやすいわけではない。うわさを別に信じたがっているわけでもない。ただ、何らかの行動をしなければならないので、わずかな情報でも、そして不確かで、未確認情報であっても、その情報を元に、どういう行動をとるかを決めなければならない。

1995年の南兵庫大地震の発生直後から数日間、配水の場所と時間、故障や売り切れではない自動販売機の場所、ポリタンクやガスボンベイを販売している店など、命と関わる最低限のものの入手方法に関するうわさが被災者の間で多発した。その後、仮設住宅の申込方法、無料の入浴設備、被災証明書発行の締め切り、見舞金を受ける場所、あるいは留守中の商店街を襲う盗人のギャングがいるといううわさが飛び交った。これ以外にも、学校の授業再開により避難所暮らしの被災者はそこから追放されるうわさや、大地震の再発の日と時刻を詳細に予言した専門がいたといううわさが流れた(Tsuganesawa 1996:119-120)。これらの非常に複雑で、専門的な知識を要する問題に関する正確な情報を得ることは通常な場合ですら、外国人には難しいが、社会が混乱を極めた災害時にはほとんど不可能に近いことである。具体的な例として、『週刊現代』(1995年2月11日号、28頁)が報道した神戸在住の中国国籍の被災者がある。彼らの間で、仮設住宅の申請は日本国籍を有する者に限られるといううわさが流れていたため不安が広がっていたと伝えている(Tsuganesawa 1996:121)。

5. 緊急時のうわさ管理対策

1995年3月に被災地で行われた面接調査では、1000人の被調査のうち、阪神大震災の後にうわさを聞いた人は64%にも達していた。その大半は余震に関するものだったが、こうした災害時に被災地を出回るうわさへの対応は不十分に思われる(『朝日新聞』1995年5月15日付け25頁)。

地震後に、開業している病院や医院に関する問い合わせの専門電話が設置され、その電話番号がマスコミで広く報道されていた。同様に、難病患者の相談やこころのケア相談のための専用ホットラインが開かれた。しかし、様々なうわさの真実性を確認することのできる専用電話は筆者の知る限り設置されていなかったのである。

1968年のえびの地震の後に流れたうわさをいつ初めて聞いたかという調査結果によると、翌日以降に初めて聞いたと答えた人は6割を占めた(江川1977)。うわさがこのように、災害の直後ではなく、ある程度の時間がたってから多発することを考えれば、行政がうわさホットラインを起動させる時間的な余裕が十分あると言えよう。

アメリカでは、緊急時対策の事前計画として「うわさ管理」(rumor control)が盛り込まれている。うわさ対策として次のような具体的な点が制度化され、事前にその打ち合わせも行われている。なお、以上の情報は複数の自治体の対策に関する情報を総合したもので、自治体によって、うわさ管理の対策の差異がかなり大きい。(1)緊急時において放送局の局長が、当局から電話で直接伝えられた情報のみを放送し、しかも、電話した人の身元が疑わしい場合は、局長の方から当局へ確認の電話を入れる。(2)緊急事態の発生次第、「うわさ管理のための市民情報センター」が作動し、郡ごとに事前に確保した三つの電話回線が「うわさ管理ホットライン」専用のために使われる。この電話で職員やボランティアが市民からの問い合わせを受け付け、正確な情報を伝える。このうわさ管理の電話番号が事前に決まっており、一般市民にすでに伝えてある。

アメリカに住む「情報弱者」である他言語話者(外国人も米国籍を有する者も含めて)に対しても、緊急時における特別な助けが事前に計画されているようである。筆者の故郷の町(人口6万人の地方都市)の状況を今回の論文のために調べたが、その結果に驚いた。町の人口のほとんどは英語を母語とする黒人や白人が占めており、アメリカの他の地方のように、スペイン語圏、アメリカ先住民、アジア系が多く住んでいるところではない。しかし、この町の総人口で非英語話者はごくわずかであるにも関わらず、「緊急管理」(かつては「民間防衛」と言われていた文民組織)の最高責任者は、我が町に住むバイリンガルの話者(スペイン語、韓国語、日本語)の協力を事前に得て、緊急時において通訳や翻訳をボランティアとして活躍する人の名簿を作成している。

阪神大震災の場合、先に述べたような「東南アジア人による略奪」といううわさ、あるいは、中村鋭一国会議員が公な場で「在日韓国人が火をつけた」といううわさが被災地を駆け巡っていることに触れ、それを非難した(『朝日新聞』1995年2月9日付け朝刊31頁)という騒動があったものの、関東大震災のようなうわさによる悲劇はまぬがれた。しかし、このような幸運やまぐれに頼っていてはいけない。日本でも、事後対応策ではなく、あらかじめ計画されていたことがすぐに実行できるようなうわさに対する事前計画が求められる。神戸の地震の際、外国人の間の情報不足による不便や不安が最低に食い止められたのは、ボランティアの力で支えられた外国人相談センターのお陰と言えよう(真田1996)。

6. うわさの意義、うわさ研究の重要性

「うわさ」は口コミで伝えられる未確認情報というふうに定義されるので、それをなぜわざわさ学術的な研究の対象にすることに対する疑問の声もあるが、これを検討しよう。まず、うわさは多くの場合には、事実と異なる、すなわち嘘ということになる。しかし、うわさは間違った情報、事実と異なる情報とは限らない。うわさは、人から人へと伝わる未確認情報であり、真実の場合もそうでない場合もある。しかし、うわさは学問的な研究に値する課題であることは、うわさの誠嘘とは関係ない。答えの一つは、うわさはコミュニケーション行動の一つであるから、人間の社会的行為をすべて理解するのに、うわさも理解しなければならない。

また、うわさが研究に値するもう一つの理由は、うわさの内容はそのうわさが流れている社会(集団)の人々の意識を反映していると思われるからである。これはうわさを研究している学者が口をそろって主張している。南博氏は、「依然として、国民のあいだに、被圧迫者としての朝鮮人への差別意識が、危険に際して強化された事実がある。」としている(南1985:490)。

また、民俗学者であるターナーは、アメリカの黒人社会の間を駆け巡る様々なうわさをテーマごとに(陰謀、感染、人食いなど)分析しているが、それらを黒人の抱いている社会的意識を反映するものとして位置づけている。すなわち、うわさを研究することによって、その社会心理の構造を明かすことが可能であるという(Turner 1993: 6)。

シブタニも同様な立場をとっている。体制側の情報媒体が元々から人々によって信頼されている場合は、それらが再び機能するように復活して、正確な情報発信を再開すれば、うわさはただちに衰退してしまう。しかし、人々が体制側の情報発信源をあまり信頼していなかった場合は、状況が平静を取り戻したあとでも、うわさがなかなかやまない(Shibutani 1966:131-132)。

うわさについて考える時に、ある重大な事実を忘れてはならない。それは、うわさというものはうわさとして発生するのではなく、”improvised news”として発生するのである。もちろん、意図的に作られたうわさ(すなわち「デマ」)も存在するが、多くの場合、うわさが発生した原因は、「情報の埋め合わせ」と言える。我々は、自分が耳にした情報をまた人に伝えようとする場合、何らかの情報が抜けているとそれを適当に埋め合わせようとするのである。どのように埋め合わせるかは、我々が持っている世界観、常識、偏見などによって決まる。したがって、うわさは社会学的に興味深い現象である。そのうわさが広まった社会、それを伝える人、またはそれを耳にして信じる人々の考え方がうわさの内容に反映されているからである(Shibutani 1966, Turner 1993)。

シブタニが丹念に調べた60のケーススタディーに出てきた471のうわさを、それが発生状況の緊張感の度合いによって、3段階に分けた。最も緊張感の高い状況で生じた246件のうわさのうち、そのほとんど(214件)は、流行った集団の先入観、偏見と一致していた。同じように、緊張感が少なかった、あるいは中間的だった225件のうわさも同様、人々の社会的規範からはずれたものはわずか12件であった。すなわち、人は自分たちの日ごろ抱いている「常識」や思い込みと異なるうわさをほとんど受け入れないことが分かった(Shibutani 1966:77,110)。逆に言えば、うわさの内容を分析することによって、ある集団(民族、国民など)が(意識や無意識に)抱いている物事に対する考え方が推測できるのである。実は、これこそがうわさが社会心理学的あるいは社会学的なに研究対象にされる理由である。以上、緊急時という緊迫した状況の中で通常抑えられている、あるいは潜在的な民族差別が表面化した結果、うわさが生じることがたびたびあることが分かる。うわさ管理の対策を構築するためにも、社会言語学者がコミュニケーション行動としてのうわさの実態、そしてその背景に潜む社会心理を研究しなければならない。

参考文献

江川 1977「大震災におけるパニック対策」『言語生活』313:54-61

奥山 益朗 1980「デマの世相史」『言語生活』338:48-54

徳相、琴秉洞(解説)1963 『関東大震災と朝鮮人(現代史資料6)』みすず書房

真田 信治1996 「『緊急時言語対策』の研究について」 『言語』 25.1:94-99

高柳 俊男1983 「朝鮮人虐殺についての研究と文献」『季刊三千里』36:71-77

中村 新太郎1998 『日本と朝鮮の二千年(下)』東邦出版

南 博(責任編集)1985『近代庶民生活誌 C流言』三一書房

仁木ふみ子(一九九一)『関東大震災中国人大虐殺』(岩波ブックレット 二一七)岩波書店

ロング、ダニエル1996 「緊急時報道における非母語話者の言語問題 ―応用社会言語学の試み ―」『日本研究』12:57-95(中央大学校・日本研究所)

Allport, Gordon W. & Leo J. Postman. 1947. The psychology of rumor. New York: Henry Holt. (南博訳1952『デマの心理学』岩波書店)

Dundes, Alan. 1991. The blood libel legend: a case study in anti-semitic folklore. Madison: University of Wisconsin Press.

Joyce, Colin. 1996. Hands of fate & other urban myths. Tokyo Journal 12月号 (http://www.tokyo.to/9612/urban.html)

Murphy, Jim. 1995. The great fire. New York: Scholastic Press.

Shelley, Bruce. 1995. Church history in plain language. Dallas: Word Publishing.

Shibutani, Tamotsu. 1966. Improvised news: a sociological study of rumor. New York: Bobbs-Merrill. (広井脩・橋元良明・後藤将之訳 〈一九八五〉『流言と社会』東京創元社)

Tsuganesawa, Toshihiro. 1997. Media reporting and rumor following the great Hanshin earthquake. Studies of Broadcasting 32: 115-140.

Turner, Patricia A. 1993 I heard it through the grapevine: rumor in African American culture. Berkeley: University of California Press..

Varkaris, Jane. 1988. Fire on parliament hill. Erin, Ontario: Boston Mills Press.

謝辞: 関東大震災の朝鮮人虐殺の資料を紹介してくれた朝鮮大学校のシン・チャンスー、うわさ話を提供してくれた大阪大学のMichael Wescoatと岐阜経済大学のSteve Horn,民俗学におけるうわさ研究を紹介してくれたペンシルヴァニア州立大学のSimon Bronner、欧米の歴史的大火災に関する文献を調べてくれたJohn R. Long Sr. Memorial Fire Museum館長のJohn R. Long, Jr.、災害における米国のうわさ管理対策について調べてくれたJohn R. Long III、そしてこの原稿について助言をくださった真田信治、牛島万に感謝の意を表明する。